
ドンキホーテは道化だが勇者として描かれる。大小のドンキホーテはどこにも存在するようで、そう書いている当人も真面目にやっていることが道化に見えていないとも限らないし、実際遠目で見ても近目で見ても道化そのものであることも、ありえる。
人様のことは笑えて、えてして自らを振り返ると、笑いが跳ね返ってきたりする。
栄養士が患者の病状に配慮してバランスよく作った料理を食べない事で意地を通す姿は、いじましく滑稽で哀れにも見えるが、それが頑なまでの抵抗であり、病魔への怒りであり、存在そのものへの曖昧模糊とした生きる闘いの表象だとしたらどうだろうか?
端から見たら「おバカさん」で「アホらしい」と思えるのだが、来る日も来る日も病院のベッドの上で過ごすことを余儀無くされる時、辛くて、寂しくて、苦しくて、窒息しそうで、たまらない沼地に落ち込んだ気持ちにもなるに違いない。
意識と現実のギャップの大きさがあり、かくありたい思いがままならず、生きている実在感がドンキホーテになって食事拒否にもなってしまうのかもしれない。
そして同じように病室のベッドの上でも、目の前の病院食が美味しいと食べる者もいる。差異は大きい。動き回れる者と動けない牢獄の差は天地の隔たり❗️
ドンキホーテは哀しく勇敢な道化で、笑えない‼️