(登川誠仁さんの遺影)
沖縄芝居や映画に多く出演している吉田妙子さんが四十九日には参加できないという事で、4月22日の五七日忌に美里まで行くことにした。ドタバタ状態で3月の告別式に行けなかったこともあり、仏前で線香を焚きたいという思いもあった。自動車道を沖縄北でおりて、美里高校を目指した。その裏手の閑静な地域に住宅があった。お元気な奥様と四方山話で時間があっという間に夜の10時前になっていた。興味深いエピソードをお聞きした。奥様はきれいな方でウチナーグチの語りはすんなり頭に入っていた。
人情味があり、とんちがきいて、辛口のスパイスがあって、と、人気の秘訣はその辺にもありそうだ。(昨夜戻ったのが11時過ぎで急いでブログを更新した。写真やエピソードなど後程、追記したい。真喜志康忠さんがよくセィグワーとお話していたことを思い出した。カデカル リンショウさんの事などもー。)
登川さんにはどことなく達観したように、歌・三線にのめりこんでいった風貌が感じられるが、沖縄芝居華やかなりし戦後のひと時、この劇団からあの劇団へと渡り歩きながら地謡として引っ張りだこだったようだ。芝居と歌・三線は切っても切れなかった時代があった。今でも芝居の地謡の自在さはまた古典とはことなる。クラシック音楽に対するジャズの魅力が加味されているのかもしれない。
中部にこだわった方でもあったのかもしれない。東恩納劇場の固有名詞が何度も聞こえてきた。芝居で主役を演じていた女優さんや地謡は尊重されたが、劇場の収入はテイソウの物だったとー。座長の権限が強かった時代、劇場の非日常的空間はまた特別な関係性の綾の中、んん、戦前から戦後へ価値の転倒がどれほどなされていったのだろうか?
奥様のシゲさんは西原の出身で戦前は建築士のお父様と中国で生活された方だった。戦後の荒波を生きぬいてこられた女性の強さを持った方。中国の纏足のお話などウチナーグチの過去の思いで話に耳を澄ませた。芝居のお話もよかった。
登川誠仁
基本情報 | |
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登川 誠仁 | |
出生名 | 登川 盛仁 |
出生 | 1932年11月18日 |
出身地 | 日本 兵庫県尼崎市 |
死没 | 2013年3月19日(満80歳没) |
ジャンル | 民謡 |
職業 | 歌手、三味線奏者 |
活動期間 | 1952年 - 2013年 |
登川 誠仁(のぼりかわ せいじん、1932年11月18日 - 2013年3月19日[1])は、兵庫県尼崎市生まれ沖縄県育ちの沖縄民謡を主とする歌手。三線の名手でもあり、琉球民謡登川流宗家、琉球古典音楽湛水流名誉師範である。通称は「誠小(セイグヮー)」。また、早弾きを得意とし、かつてはエレキギターも演奏していた[2]ことから、「沖縄のジミヘン」の異名を持つ。
「豊節」「戦後の嘆き」「新デンサー節」「緑の沖縄」など、作詞・作曲を多数手がけている。歌詞は一貫してウチナーグチにこだわる。楽器の工夫にも熱心で、三線の弦を2本ずつ6本にした六線やエレキ四味線(よみせん)を開発したり、舞踊に用いられていた打楽器・三板を改良して民謡に取り入れた。
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来歴
戸籍名は「盛仁」で、登録ミスだという[3]。沖縄県中頭郡美里村の東恩納地区(現うるま市)の農家に育つ。7歳から手製の三線に親しみ、毛遊びを覗き見て民謡を覚え、11歳でカチャーシーが踊れた。学校にはほとんど通わず8歳で喫煙、9歳で飲酒を始める。終戦後は米軍基地で下働きをする傍ら、物資の横流しで金を稼いだ。
16歳のとき、沖縄芝居の松劇団に加わり、地方(地謡)を始める。板良敷朝賢から三線を徹底的に仕込まれ、徐々に頭角を現し、琉球放送のラジオ番組「素人ノド自慢大会」で嘉手苅林昌と共に優勝した。1955年から芝居の舞台にソロで立つ民謡歌手となった。以後、各地で演奏活動を続け、喜納昌永・津波恒徳とのトリオなどでも人気を博した。民謡中心の舞台である民謡ショーを確立する一方でレコーディングも重ね、第一人者としての地位を固めていく。
1957年に小浜守栄や喜納らが設立し、1963年に再編された琉球民謡協会の執行部には最年少で名を連ねた。また1956年に知名定男を素人のど自慢大会で見出し、育て上げた。
1970年には、三線の楽譜である工工四に声楽譜を加えた「民謡端節舞踊曲集工工四」など、楽譜集を3冊まとめている。これらの功績に対して1976年、琉球民謡協会の第1回功労賞を受賞した。1984年から同協会会長を最長の6期務め、1998年からは名誉会長に就任した。1999年には同協会から琉球民謡名人位を受けた。1989年には沖縄県指定無形文化財技能保持者に認定されている。三線以外の楽器に関しては、日本三板協会(後の沖縄三板協会)特別顧問でもあった。
音楽活動の他に、1999年公開の映画「ナビィの恋」(中江裕司監督作品)や、2002年に公開された同監督の「ホテル・ハイビスカス」に出演した。
2010年にはNHK沖縄放送局が制作したアナログテレビジョン放送終了啓発スポットに出演した。共演者はキャン×キャンや、県内全局放送CMに出演した舞踊集団・花やからの児童メンバーだった。
2013年1月下旬から肝硬変のため、沖縄市内の病院に入院していたが、2013年3月19日、肝不全で死去した[1][4]。
ディスコグラフィー
アルバム
- 沖縄島唄6 美ら弾き(1991年、収録は1975年)
- HOWLING WOLF(1998年)
- SPIRITUAL UNITY(2001年、ソウル・フラワー・ユニオンの中川敬と制作)
- 登川誠仁独演会 セー小の歌とトーク(2001年)
- STAND!(2002年)
- 登川誠仁&知名定男(2004年、知名定男と共演)
- 青年時代の登川誠仁(2004年、収録は1960年前後)
- It's only セイ小 ベスト・オブ・登川誠仁 1975~2004(2007年、ベスト盤)
- 酔虎自在(2008年)
- 歌ぬ泉(2010年)
DVD
- 「NHK島唄の世界 沖縄本島 唄者 登川誠仁」(2001年)
映画出演
- 「ナビィの恋」(1999年、中江裕司監督)
- 「ホテル・ハイビスカス」(2000年、同)
- 「恋しくて」(2007年、同、声の出演)
著書
- 「登川誠仁自伝 オキナワをうたう」(構成・藤田正)2002年、新潮社
関連人物
脚注
- ^ a b 登川誠仁さんが死去 戦後沖縄を代表する民謡歌手 沖縄タイムス 2013年3月20日閲覧
- ^ 「戦後の数え唄」 - CD「青年時代の登川誠仁」、CD「チャンプルー・シングルスVol.2」収録参照。
- ^ アルバム「HOWLING WOLF」ライナーノーツより引用。
- ^ 登川誠仁さん死去、80歳 沖縄民謡の第一人者 琉球新報 2013年3月20日閲覧
私は沖縄滞在中に、桜坂劇場の食堂でツイートラインから知ることになりました。
「えっ」 そして暫くの脱力感。
「あの方がこの世にもう居ないの!?」
早弾きに関しては殆どセイグヮー先生のテープを聞いて、どこまで付いて行けるか真似してみたりしていました。
ないちゃーの奥さんも、よくテープ流していたから知ってますよ、とのことでした。
改めまして御冥福を祈念し、沖縄音楽界の発展の為に何時までもセイグヮーさんの音楽が、民謡と古典、また流派の敷居を超えて受け継がれてことを願います。