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http://matome.naver.jp/odai/2130607801122809001← 不条理な現実
それらをダークツーリズムへと導こうとする魔の手も、新保守主義の論者たち?死も災害も悲惨も虐殺もすべてを金に換えよとする心もそこにある。混沌カオスの中から新たな新芽が出てくるのだろうか?繰り返される構図に嫌気もさすが、10%が富の69%を牛耳るというアメリカのケースは続く。日本では?やはり10%が富の60~70%を牛耳るのだろうか?
存在そのものが多くの犠牲の上にあり得るという公式は、生きながらにして死者を食らう生き物の構図から免れない。負債論がそこから成り立つのだろうが、ポジティブに肯定した生死のありようが問われる。類としての存在、群れの一人、サバイバルは犠牲者と勝者のゲームの熾烈さを押し隠してまかり通る。透明な明るさの中で消えていく命のエネルギーがある。
自我は一神教である、と詩編は断定する。そうだろうか?つたの絡まる先に自我の花々が咲くのだろうか?自我が殺してきたものと、思索する詩編が並べられていく。雀たちのぴーちく、パーチクに付き合う暇などないよ、とひねもすPCの前でことばをひねり出す命の燃焼が美しいのか孤独の極みなのか、もはや、沈黙。意識の川をひたすら泳いで紡ぎだすことばの結晶があり、線香を焚く行為の果てにあるもの、人は死の間際まで意識の塊でありえる。