2015年2月21日 (土)
戦争ポルノ 第二次世界大戦から、アメリカン・スナイパーまで ハリウッドと戦争
Peter Van Buren
2015年2月19日
"Tom Dispatch"
全員志願兵の軍隊と、果てしなく続く交戦地帯での敗北と引き分けという時代に、本国での永久戦争への熱意を維持するのは困難だ。空港出国ゲートの野蛮人イメージ記憶をよみがえらせてくれ9/11が、毎年起きるわけではないのだ。一方アメリカ国民は、シリアやイラクでのややこしい戦争や、アフガニスタンでの連射や、様々な急襲、無人機攻撃や、至る所での小規模紛争で、感情的に混乱させられたままでいるのが困難になってしまう。
幸いに、我々には、ほぼ一世紀近く、何度も繰り返し、パンチで穴を開けられた切符がある。(ペンタゴンが常に進んで援助の手を差し伸べたがっている)ハリウッド戦争映画だ。“アメリカ史上最も恐ろしい狙撃兵”なる祝賀のキャッチフレーズで始まり、今や“空前絶後の成功をした戦争映画”なるキャッチフレーズに変わった『アメリカン・スナイパー』は、連中の戦争ゲームに、アメリカ国民をつきあわせ続けてきた一連の映画の最新作だ。こうした作品を、我々を年中興奮したままでいられるようにしてくれる戦争ポルノだと考えてみよう。さて、ポップコーンを持って、椅子に深々と身を沈めて映画を楽しもうではないか。
戦争映画は一種類しかない。
最近、YouTubeをぶらついていて、いくつか、古き良き官給品プロパガンダに出くわした。それは、アメリカ人の感情をかきたて、生き方が、最も基本的なアメリカ的価値観と真っ向からぶつかる、固く決意した、冷酷で野蛮な敵に対する長い戦いを我々に覚悟させるのを明らかに意図したビデオだった。私が学んだのは、このようなことだ。我々の敵は、欧米に対する聖戦を行っている。世界政府を樹立して、我々全員に連中に頭をさげさせたがっている。狂信的に戦い、囚人を斬首し、非人間的な自爆攻撃で、信奉者の命を犠牲にすることも辞さないのだ。連中の兵器は現代的だが、思考と信念は、2,000年もの古びたもので、我々にとっては不可解なものだ。
もちろん、ここにはトリックがあることがお分かりだろう? この短編のアメリカ政府が制作した映画は「イスラム国」戦士に関するものではない。
1943年にアメリカ海軍が制作したもので、対象は“我が敵日本”だった。“天皇崇拝”を“過激イスラム教”に置き換えれば、この映画は今も、多少プロパガンダ上の意味をなしている。基本はほとんど同じながら(我々対彼ら、善対悪)、現代は、古いニュース映画ビデオよりは、もっと洗練されたものが要求される。インターネット時代には、注意力は短くなっており、安直なスリルへの強い期待が、より上級の戦争ポルノを要求しているが、1943年代の映画同様、新たに制作されたものが、相変わらず、実にかつてのものとそっくりなことは注目に値する。
プロパガンダ映画やポルノ映画と同様、戦争するアメリカに関するハリウッド映画は、年月を経ても、ほとんど何も変わっていない。第二次世界大戦時代の『硫黄島の砂』のジョン・ウエインから、今日の『アメリカン・スナイパー』に到るまでの基本公式は、このようなものだ。
*アメリカ兵士は善で、敵は悪だ。ほとんど全ての戦争映画には、典型的には、“奇襲攻撃”や自爆攻撃の後で、アメリカ人が、敵に、“蛮人”“野蛮”、あるいは“残虐な狂信者”とレッテルを貼る場面がある。わが国の狙いは解放だ。敵の狙いは征服だ。そのような枠組みが、そうでなければ到底認められないような物事を、我々が受け入れてしまう下地を作るのだ。人種差別が当然優勢だ。かつては“ジャップ”(日本人ではなく)だったが、今や“ハジ”や“ターバン野郎”(イスラム教徒やイラク人ではなく)だ。目的が、軍事的重要性がほとんどない様な二都市への原子爆弾による抹殺から、極めて残酷な拷問に到るまで、我々が用いるであろうほとんどあらゆる手段を正当化することは言うまでもない。この様にして、戦争映画はずっと昔に、登場するアメリカ人役にとって、道徳的制約から解き放たれた射撃区域と化している。
*アメリカ兵士は、神と国、“何か自分達よりも大きなもの”、何か“その為に、死ぬに値する”ものを信じているが、やみくもに信じこむこんでいるわけではない。一方、敵は、宗教、政治的信念や、独裁者に、やみくもにのめりこんでおり、(公言されているのだが)その神は、天皇であれ、共産主義であれ、アラーであれ 、彼らの神が悪であることは言うまでもない。2007年に、ある批評家が、少しばかり誇張をして言った通り、“ハリウッドが制作するあらゆる映画では、アラブ人が、アラーという言葉を発する度毎に… 何かが爆発する。”
*戦争映画は、一体なぜ、こうした野蛮人達が、それほど熱心に我々を追いかけるのかについては、ほとんど時間をさかない。ところが、アメリカによる殺害の目的は、ほとんど常に、明瞭に規定されている。“現地にいるアメリカ人の命を救う”為だ。そのような命を救うことが、アメリカの戦争の説明だ。例えば、キャスリン・ビグローの『ハート・ロッカー』では、イラクを、他のアメリカ兵にとってより安全にする為、道路脇に設置された爆弾の雷管を外すのが主人公の仕事だ。最近の第二次世界大戦をテーマにした『フューリー』では、同様にブラッド・ピットは、仲間を救うため、ドイツ軍兵士をなぎ倒す。『ゼロ・ダーク・サーティ』の様に、悪夢の様なたくらみから、我々の命を救う為にということで、拷問すらも正当化される。『アメリカン・スナイパー』では、狙撃手クリス・カイルは、イラク人を銃撃することで、彼が救った、多くのアメリカ人の命に集中する。彼のPTSDは、実際、もっと多くの人々を救い“そこねた”ことに起因する。戦争で、アメリカ人が殺人をする場合には、バラバラにされた子供や、それを悲しむ母親ではなく、殺人をした人物こそが一番苦しむ人物になるのだ。私は悪夢を見るようになったぞ! 今でも連中の顔が見える!
*アメリカ人兵士は、感性に訴える過去を持った人間で、国では可愛い彼女が待ち、彼らの前途には輝ける生活があったのだが、地獄の門からの敵によって、悲劇的にも断たれてしまう。悪役には、そういう過去はない。彼らは、言及に値する過去も、想像に値する未来もない無名の狂信者だ。彼らは通常、無愛想な連中だ。例えば『アメリカン・スナイパー』の中で、カイルの強敵は黒ずくめだ。おかげで、更なる情報などなくとも、彼は瞬間的に悪役だとわかる。背景状況の欠如について言えば、彼はありそうもないことに、映画の中では、スンナ派の都市ファルージャにも、バグダッドのシーア派居住区サドル・シティーにも現れるが、アメリカ人を殺したいという願望が余りに強いので、イラクの狂った派閥抗争すらも克服してしまうもののようだ。
*ある種、敵には欠けている深みがあるアメリカ軍兵士達が、人を殺す前(あるいは後で)若干の悔恨、幾分かの内省の意を表すのが流行だ。『アメリカン・スナイパー』、休暇で、アメリカに帰国中、主人公は、彼が自分の“仕事”と呼ぶものへの疑念を呈する。(映画が基にした自伝には、そのような思考は皆無だ。) もちろん彼は、更に160人の“公認殺人”記録を樹立する為、三カ月、そして更にあと二時間、イラクに戻る。
*そのような映画の、もう一つの不可欠な要素は、訓練場面だ。新兵は耐えられるだろうか? でぶが体重をぎりぎりまで削減したり、痩せぎすの青年が筋肉をつけたり、あるいは、おとなしい青年が残忍になったりすることが多い。(ポルノ映画でも良く見る筋だ。美女たちにあざ笑われたオタク風の男が、ベッドの中で、スーパースターに変貌する。) 性的能力と、男らしさと、戦争との間のつながりは、直接的なものであれ、言外のものであれ、決して欠かせない要素だ。例えば、彼が編み出す奇妙なPTSD治療計画の一環として、カイルは、車椅子に乗った下半身不随の退役軍人に狙撃を教えることを申し出る。最初のまずまずの射撃が命中すると男は叫ぶ。“タマが戻ってきたような気分だ!”
*苦悩に満ちた人物であるアメリカ軍兵士は、戦争の中に投げ込まれた後は、何をしようと責任は全く問われないのだ。幼児殺人者連中は、ベトナム戦争後の、罪悪感を抱かずに済む呪文、“戦争を憎んで、戦士を愛せよ”を唱える必要は皆無だ。例えば、映画『ランボー』では、ジョン・ランボーはベトナム戦争を経験した退役軍人で、故郷に失意の人物として帰る。彼は戦争仲間がエージェント・オレンジで引き起こされた癌で亡くなっていたり、彼らの自由を為にこそ戦ったのだと考えているアメリカ人から迫害されたりしていることに気がつく。ベトナムで、彼はひどい目に遭ったので、映画では、ワシントン州の町で二時間の残忍な大暴れを含め、彼は殺人やり放題だ。観客は『ランボー』を高貴で、親身な人物と見なすことを期待される。映画の後半で、彼は、東南アジアに置き去りにされた、アメリカ人戦争捕虜を救出する為に、個人的な贖罪の為に戻る。
*戦争映画では、曖昧さは禁句だ。世界中で、敗北が山積していた時代に、負けた場合でさえ、アメリカ人は常に勝利する。ばかげたグレナダ侵略をもとに制作された映画『ハートブレイク・リッジ 勝利の戦場』の様に、たとえ本質的には一方的ないじめであっても、勝利は勝利だ。そして『ブラックホーク・ダウン』では、敗北は依然、勝利なのだ(ソマリアでの惨事のさなか、正しいことをした、疲れ果てた戦士達の場面で終わる。『アルゴ』-- 名誉の戦争ポルノとみなせるものでは -- イランに対する長年のアメリカ介入大失敗を、人質救出でのハイタッチにするまでにおちぶれた。今どき、敗北を勝利に変えるのに必要なのは、敗北を無視できるほど、ぐっとズームするだけで十分なのだ。『アメリカン・スナイパー』では、カイルの狙撃照準で、もっと多くのイラク人を殺せるために、悲惨なイラク占領は舞台裏に押しやられる。『ローン・サバイバー』では、ネイビー・シールズ隊員の命を救うため、一人のアフガニスタン人が、無人機攻撃で一服するおかげで、何とかアフガニスタンで見つけだされた、さやかなアメリカの“勝利”だ。
結論。気骨ある、勇敢で無私無欲の男性達、国で待つ毅然とした女性達、高貴な負傷した戦士、正しい大義、アメリカ人の命を救う必要性。そういう陣容において、野蛮な敵は、死んで当然な格好の標的だ。後は、音楽、ナレーションと特殊効果だ。戦争ポルノは、性欲過剰のポルノと同様、皆同じ映画なのだ。
現実を変えることが可能な幻想
しかし、たかが映画にすぎないではないか? お気にいりの流血場面が多い映画は、ドキュメンタリーだとは言っていないのだ。性病にかからずに、50人の相手と床入りはできないのと同様に、一人のアメリカ人兵士が、悪党50人を銃撃し、無傷で立ち去れるないことは誰でも知っている。娯楽映画に過ぎないではないか。それがどうした?
こうした映画館に入る、典型的な18歳の兵役を考えている人が、実際に、戦争について一体何を知っているとお考えだろう? そのような映画が、戦争とはいったいどのような物か、どのような人々が戦っているのかという広汎な概念を生み出す上で果たす役割を過小評価してはならない。更新され、何十年間も繰り返し再利用されている身の毛もよだつような画面上の画像は、特に我々が見せられているものは、我々の多くが信じたがっていることを反映しているので、“戦地で”一体何が起きているかに関する自己強化的な共通の理解を作り出すのに役立っている。
もちろん、現実を描くポルノなどあり得ないが、だからといって、そうしたものが、独特の現実を作り出せないということにはならない。こうした映画がいかに恐ろしく、居心地が悪く見えようとも、戦争映画には、戦争をしているアメリカの感情的に壮大な幻想をもたらす力があるのだ。戦争ポルノは、20歳になる前に、進んで死のうとする若者を生み出せるのだ。私の言うことを信じて頂きたい。私はイラク勤務の外交官として、こうした映画の影響の犠牲となった軍服を着た多数の若者と会った。こういう映画は、2001年9月以来、アメリカのほぼ完全な地政学的敗北の実績にもかかわらず、息子や娘が体を損なって、あるいは死んで帰国し続ける中でも、次から次の戦争を支持するよう、政治家が甘言で国民をだますのも容易にしてくれるのだ。ワシントンが、不人気な紛争と皆が考えているであろうイラクでの戦争に再度とりかかろうとしている今、『アメリカン・スナイパー』をアカデミー映画賞にノミネートしたというのは皮肉なことだ。
例外から学ぶ
多数の戦争ポルノを見ておいて、水泳に行ったつもりで、爪先を水につけただけでは済まない。だが、そこしか本当の怪物と対面できる場所はない以上、“例外”という水深の深い場所に進まねばならない。
戦争ポルノにも例外はあるが、自分をごまかさないで頂きたい。規模は重要だ。一体何人が『アメリカン・スナイパー』、『ハート・ロッカー』や『ゼロ・ダーク・サーティ』を見ただろう? 対照的に、若干脚色されているものの、道路脇爆弾の爆発への報復として、無辜の男性、女性や子供のアメリカによる虐殺に関する、実に居心地の悪いドラマイラク戦争の反戦映画『ハディサの戦い』を一体何人が見ただろう?
ごく少数の例外的ヒット作については、タイミングも肝心だ。ジョン・ウエインのベトナム戦争支持映画『グリーン・ベレー』は、戦争が残酷の頂点に近づきつつあり、アメリカ国内での反対の声が高まっていた1968年に公開された。 (『グリーン・ベレー』では、白髪交じりのウエインが、戦争に対する否定的な見方を変えるよう、左翼ジャーナリストを説得する。) 戦争の無駄と不合理性を描く『プラトーン』まで、終戦から十年以上過ぎた1986年まで待たざるをえなかった。
プロパガンダの文脈で、これは言説を支配するためのものなのだと理解しよう。一つの出来事のある説明か、他の全ての説明を支配し、他の人々が異議を唱えるのに苦労する現実を生み出してしまうのだ。ところが例外的作品は、通常目にしないアメリカ戦争の本当の性格について多くを暴露してくれる。そういう内容を見るのは、我々にとっても、新兵募集係や、自分の子を戦争に送る両親や、次の聖戦へ国民の支持を求める政治家にとっても気まずいものだ。
戦争は、2時間12分の勃起ではない。戦争は、規律が崩壊し、恐怖が理性に置き換わり、どれほど恐ろしいことも驚くべきものでなくなった時に起きるのだ。実際に戦争を体験した人々にとって、戦争の本当の秘密は、人々が卑劣で最低になり得るだけでなく、自分自身も卑劣で最低になりうるという理屈抜きの知識だ。ところが大画面では、それはほとんど見えない。
古くからの詐欺
もちろん、ここには“新しきもの無し”という要素もある。確実に、ローマ人にも彼らなりの戦争ポルノ物語があり、ガリア人を人間以下のものとして嘲けていた。ところがワシントンが宣戦布告なしで戦争し、外国人部隊を志願兵に依存している、21世紀アメリカでは、国民に関心を抱かせ続け、敵に対する恐怖でいっぱいにさせておく必要性は、恐らく、かつてなかったほど深刻だ。
そこで疑問だ。もしアメリカ政府が、第二次世界大戦に推進したプロパガンダ・メッセージの中核が、現在「イスラム国」に対して推進しているものとほとんど同一で、もしハリウッド戦争映画そのものが特別に高級な様式のプロパガンダだとすれば、偽りのアメリカ人の同じイメージを、1941年から今日まで、推進してきたことで、我々は何がわかるだろう? ほぼ4分の3世紀にわたる戦争における、アメリカの様々な敵は、常に信じ難いほどそっくりなのだろうか、それとも、悪役を必要とする際には、アメリカは常に同じ脚本を使うということなのだろうか?
ピーター・ヴァン・ビューレンは、イラク再建中の、国務省の浪費と不適切な管理を、最初の著書『We Meant Well: How I Helped Lose the Battle for the Hearts and Minds of the Iraqi People』で内部告発した。彼はTom Dispatchの常連寄稿者で、自分のブログWe Meant Wellで、時事問題について書いている。彼の最新刊は『Ghosts of Tom Joad: A Story of the #99Percent』。
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著作権 2015 Peter Van Buren
記事原文のurl:http://www.tomdispatch.com/blog/175958/
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戦争映画を総合的に鳥瞰する良い記事と思うのだが、いやなものは見ない主義なので、見ていないものばかり書かれた記事の翻訳は無理。特に「ローン・サバイバー」意味がさっぱりわからないで訳している。ご存じの方に、訂正をご教示いただければ幸い。
昔読んだ本を思い出した。すっかり内容を忘れてしまった。
- イエロー・フェイス―ハリウッド映画にみるアジア人の肖像 朝日選書 村上由見子
- ハリウッド100年のアラブ―魔法のランプからテロリストまで 朝日選書 村上由見子著
タリバンやISを怖いと思ったこと皆無。だが宗主国軍隊や諜報組織や、日本政府、自民党、ものごごろついて以来、恐ろしいと思ってきた。残念ながら、妄想ではないだろう。
やましいことはもちろん皆無。
2/20は、小林多喜二の命日。やましいこと皆無なので、82年前、特高に虐殺された。「マッサン」でも、特高の理不尽さが描かれていた。まるで命日にあわせたかのような日程の放送だった。愚劣な野次を飛ばすあほうな政治家のお友達の、とんでもない会長がのさばっても、まともな局員がおられる、ということだろうか。もうすぐ再来しますよと、警告を送って下さっているのだろうか。
コメントで、辺野古基地問題についても、状況を多少掲載した本土の新聞もあるというご指摘をいただいた。
「周辺」という言葉も削除。国連決議も不要。軍隊を、徹底的にアメリカ指揮下にご提供。
「さすがテロ政党」とは自分のことを自賛したのに違いない。
「日教組!」という無関係な野次をとばす人物、脳に深刻な欠陥があるのだろうとずっと推測している。こういう連中に「道徳」なるしろものを押しつけられてはたまらない。
与那国島で自衛隊配備の住民投票。
沖縄は日本軍基地があったがゆえに、悲惨なことになった。
どういう結果になるのだろ。目が離せない。
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