志情(しなさき)の海へ

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『方言札』世代ぬハナシむぬ語いに少し遅れて参加:上原美智子さんを中心にいい雰囲気だった!

2013-04-05 02:21:10 | 言語

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上原さんを司会に16.7人が集った。3月の頭頃に上原さんからお電話があり、しまくとぅばで語る場を持ちたいのでご一緒にどうですか、との呼びかけである。ちょうど3月13日が初回で、その日は企画したシンポジウムが入っており、参加不可能だが、4月3日は何とかできそうだった。しかしDCから帰って後の疲れが、どっとまだ押し寄せているのだと、身体の不具合を感じつつ大学から向かった。んん、ウチナーグチで語ることは難しい。でもわからないなりに、下手ななりに話していたらスムーズに語れるようになるのかもしれないという思いがした。皆さん、遠慮されてきれいな共通語がスラスラだった。下手でもどの地域の出身でもそれぞれのことばで語れる場がほしいものだと思った。その場さえ、疎外されたままである。

それぞれの地域の言葉の多様なイントネーションやアクセントがある。それらをどれだけ継承し残すことができるのか、も限られている。中心になるのが、首里・那覇言葉だろうか?糸満の言葉は糸満発音に対してなぜか仲間内なら語れてもやはり多様な地域の中では中心言語として力のある首里・那覇が際立ってくるのである。久米島の言葉、今帰仁ことば、コザことばと多様である。ウチナー芝居言葉が共通ウチナーグチだったとは、真喜志康忠氏が自らお話されていたのだが、今うちなーぐちの正書法の話もカリキュラム化も進んでいるようだが、それらの動きに疑問をもつ方々もおられるようだ。カリキュラム化の画一的な政治施行がなされなければならないほどの危機的状況でもありえると、感じる。何しろ日常の生活の中にうちなーぐちの語りはなくなっているのだからー。つまり共通日本語で意思疎通がなされ、このブログも日本語でメインに書いている。ウチナーグチでかけるかな?うちなーぐちさーまかちゅしん、ないびーしが、やいびーしが、むちかさいびーんやー。英語も日本語もウチナーグチもとてもお上手な花井玲子さんも参加されていたが、例えば彼女のなままでぃぬ人生ぬハナシムヌガタイ、ちちぶさん(でいいのかな?)でぃ、ウムトーイビン。

日本語教育の同化は成功し、言語難民化だと言われようと、明治維新の頃、いわゆる琉球処分の1879年から134年がたち、母国語を話せなくなったわったーやいびーんやー。真喜志氏はよく沈む泥船に乗っているような「沖縄芝居」という表現をされていた。そのウチナーグチを軸に創作されてきた沖縄芝居は、うちなーぐちがなくなれば、それは蝋燭にともされた火と同じで燃やすエネルギーのソース(琉球語・沖縄語)が消えてしまえば、消えるのである。聞けても話せない今のわたしの状況よりも悪い時がくるのである。聞いてもわからない。話せない。字幕をつけないとわからない時代の到来である。「あきさみよー」である。

お話を伺っていて、劣等感が浮かんできた。ウチナーグチで話すことの劣等感と、話そうと思っても上手に話せないことがまたフラストレーションになっていく状況があるようだ、言語の習得過程は多かれ少なかれ似ているのかもしれないが、恥ずかしいと思うことなく、わからないなりにまず話してみることが始まりなのだと思う。誰かがウチナーグチで一つの話をしてそれについて皆が思ったこと、感じたことをうちなーぐちで語り合うのも面白いのかもしれない。宮古語で語る方がいてまたそれを首里・那覇言葉に通訳する方がいてもいいと思う。つまり多言語性の面白さがあるのかもしれない。

言語=政治そのものだということが、誰が何を語るのかによっても、表に出てくることが少し悲しいと思えた。政治性が消えない生きる場でありえる。単にうむとーるくとぅ、語りあう場であればいいのだが、それも公の場となると限りがある。その辺も気になった。多言語空間を生きている。しかし、南アメリカの国々でもスペイン語やポルトガル語より英字新聞の勢いの方が大きくなっているという研究発表などをお聞きしたのだが、世界のドミナントな共通言語英語があり、それぞれの国の言語、スペイン語や中国語やフランス語があり、またそれぞれの国民国家内部で様々な言語が飛び交っている。その多様性そのものはとてもいいと思う。しかし、共通理解が英語で国際的になされ、またそれぞれの場でそれぞれのドミナントな言語が主流をなし言語体系が造られていく。やれやれ、人間の限りない複雑さ、多様性は美・善・幸・理としてとらえても、それらを全部アクセスすることのない限界の中で、自らの母語に向き合う。

文化表象の核としてもウチナーグチは基軸であり、首里・那覇語はまず正書法においてもしっかり確立すべきだと考える。それに琉球諸語のそれぞれの言語をまた体系的に書き言葉、話ことばとしてまとめる作業が性急になされるべきで、すでに始まっている。一方で語る場を草の根運動として増やす試みは大事だと考える。話す場がないのである。

琉球諸語で分け隔てなく話す場と空間を生み出せるか?「生まれ島のことばで話さびら」と琉歌をやっておられる方が話していた。同感、わからなくてもわかりあえる場を持ちたい。わかりあえるのである。すでに共通語の日本語が母国語としての基盤をなしている。皮肉な現実!語彙を増やさなければ、それにも学習が必要だね。

 


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