12月1日、なはーと小劇場で兼島作・演出(同時に白神ももこ演出振付)の現代劇を観た。
知念正真が「人類館」で岸田戯曲賞を受賞したのは1978年、そしてほぼ半世紀を経た現在、私たちは斬新な才気溢れる劇作家の誕生を目撃している。また奇しくも知念と兼島は同じコザ高校出身だ。何らかの因縁を感じさせる。
舞台を観る前にパンフレットを読む時間がなかった。記憶を手繰り寄せてこの現代劇の謎解きをしたい。
終演後に又吉静枝先生と親しい雰囲気のプロデューサー土屋わかこさんに脚本が読みたいと申し込んだら、来年2月に発行される新「新沖縄文学」に掲載されるとの事で、当日脚本を読む機会は逸した。ゆえに詳細なテキストを検証せずに印象批評を書き記しておきたい。
思うに知念正真の「人類館」は演劇の物理的な力を感じると共に、沖縄の近現代史をひも解く切っ掛けになった。小中高と琉球・沖縄史を学ぶ機会がなかったゆえもあり、人類館事件【(じんるいかんじけん、「学術人類館事件」、「大阪博覧会事件」とも)は、1903年に大阪・天王寺で開かれた第5回内国勧業博覧会の「学術人類館」において、アイヌ・台湾高山族(生蕃)・沖縄県(琉球人)・朝鮮(大韓帝国)・清国・インド・ジャワ・バルガリー(ベンガル)・トルコ・アフリカなど合計32名の人々が、民族衣装姿で一定の区域内に住みながら日常生活を見せる展示を行ったところ、沖縄県と清国が自分たちの展示に抗議し、問題となった事件である。】人類館事件 - Wikipedia は衝撃をもたらした。
知念の「人類館」の時間のスパンは1903年から沖縄海洋博が開催された1975年までを網羅している。そして、現在も突き刺している。おそらく天皇制が存続する限り、「人類館」は上演され続ける。日本文化の象徴故ではなく、暴力装置のコアとしてあり続ける。
今回兼島の「花売の縁」はさらにさかのぼって琉球王府時代、1609年の薩摩による琉球侵攻から現代までを時間軸にしている。一挙に近世琉球から現代まで網羅した現代劇が目の前で繰り広げられた。(1609年以降、琉球王国は、日本に服属し、清国を宗主国とする、両属の国となったが、1879年、明治政府に併合された。)
謎解きとワクワク感に包まれて舞台を観た。
1808年初演の「花売の縁」の筋書はシンプルだ。首里の下級士族家族が貧困に陥り夫が遠く塩屋に出稼ぎに行き、12年の音信不通を経て妻子が夫を探し求める旅にでて再会する。その道行で猿の曲芸や薪取りの老人に出会い、ついに花売り姿の当人に再会、3人は、(踊って)首里に戻っていく。組踊 「花売之縁(はなういぬえん)」
しかし兼島のイメージは膨らみ、森川の子は、琉球王府の密使として異国の宣教師を塩屋の山の上の異国館に隔離、世話を見て、畑では、野菜や薬草と共に、ケシの花、ポピーを栽培していたのである。アヘン戦争で疲弊した清国は冊封使を琉球に送り続けていた。宗主国である。
アヘンと琉球との史的関係は記録に残っているだろうか。あくまで暗黒史として兼島はダークなシンデレラ物語、と彼自身がアフタートークで語ったように、1850年前後の地勢的、いわばグローバルな枠組みを二重構造の一つに据える。
ある面、時代を先取りする近未来的なアニメや漫画のような手法にも見えて、ゲーム世代にはバカ受けする設定だろうか。
例えば若者に勧められて観た「攻殻機動隊」の中では、沖縄は第三次世界大戦、核戦争の後この地球から消滅している。
ともかく、兼島は異人館を文明の先端技術を網羅したスポットにする。19世紀に登場するテレグラムである。
フランスと英国の宣教師たちには、江戸幕府からのお目付けがついている。女スパイは007に登場するように身体を増長させる(パンパン膨らむ)魅力をもつと面白いレトリック。言葉遊びも散りばめられて、マトリックスは、いかにもの装いで物語を紡いでいく。
面白いのは面白い。場面展開は、テレグラムの異音、点灯する光と、ギターの音色にボーカルの哀愁を帯びた歌!
面白いキーワードは異人館の物語と、核になる花売の縁の筋書と交差する。登場人物も豹変する。宣教師ジョンがイマージンのジョンレノンにもなる。そのジョンは世界は狂人によって支配されている、とも語る。(米留学した年の12月8日だった。レノンはNYで凶弾に倒れた。)
これは組踊作品というフィクションにフィクションを重ねた時代の捉え返しであり、近未来的でかつ言葉遊びや突拍子もない舞台設定による、30代劇作家の想いを吐露した作品。。
重複するが、森川の子は王府から極秘任務を与えられて塩屋の山の上の異国ででフランスと英国の宣教師を監視、管理する任務についている。どうも清国からアヘンの処理を委託されたのらしい首里王府は、その処理も森川に任じているような筋書~。脚本がないので、正確な所は、後ほど~。
塩屋の人々はどうも森川が作っている塩に混ぜられたアヘンを嗜み、桃源郷、ノスタルジア、陶酔を感じているようだ。
極秘任務の中でケシを栽培し、アヘンの生産もしているのらしい森川は、琉球の薬草や塩、サトウキビの液体、バンシルーにアヘンのブレンドで特別なスパイスを作っているのらしい。それをペリー提督はなぜか、登場して、その君の技術は素晴らしいとべた褒めし、テレグラムで世界にアヘンを、特性のアヘン入りスパイスをまた売りつけるのだ。ペリー総督の登場は宣教師ミッシェル・ノストラダムスと幕府と清国二重スパイのイモコの消失になる。
ケシの株分け、ことば遊びの中で、アヘンのaddictionを示唆する。世界から買いがテレグラムで殺到する。キーワードに#投資マインド、#Financial Capitalism #タリー・スティック などが登場する。タリースティックは薪取の場面か~。
面白い事にペリー提督(マシュー・カルブレイス・ペリー(英語: Matthew Calbraith Perry、 1794年4月10日 - 1858年3月4日は、アメリカ合衆国の海軍軍人。海軍大将・Commodore、当時の日本語呼称で提督) は浦賀に渡って帰りに森川の子を迎えに来るという。妻子とは別れて、つまり、家族はリスクだと、兼島はアフターtalkで語った。そして自由の国アメリカへ、ペリーと一緒に渡ることは、シンデレラ物語とも~。兼島は森川の子の家族が核家族であることに言及した。目の付け所はなるほど、しかし親族に助けられていたことは推定できる。ただ、当時の貧困士族は娘たちを辻に身売りをしていた。
琉球の位置づけは、薩摩の属国として江戸幕府の領土であり、清国の属領でもある。小さな島国はいずれにとってもステップストーンで、利用するに足る島であるという見立てだ。
さて筋書通りの猿の芸は二人の大猿と音楽ユニットが登場、ラップ系の音楽と踊で楽しませる。猿語らしい発話とその翻訳とで乙樽や鶴松と対話しながら、踊りまくる。
ギターやソロの歌もノスタルジーとラップの軽快さが交じり合う。見せ場だ。
薪取りの場面は薪が割符になっていたり、タリースティックになっていたり(?)の意表をついたりする。スティック、ストックの言葉遊びもある。しかしそこにもまた白い粉の裏話が流れる。塩屋の人々はすでにノスタルジーの世界に入っているという、暗示がある。
さて終幕に親子は再会する。
森川の子は口語で名乗りをする。あれなんだけど、つまりずっと出ていて~。
森川の子に踊を所望する鶴松、彼の踊は何だろう。ヒップホップ系?踊がとりわけいいとも思えなかったが、しかし、踊るのである。
詫びる父親、と優しい母親、夢ではないか、と語り合う。古典の再会や別れの仕草で円を組み、そして夢だったと別れていく親子だ。
「あの時代に核家族って不思議ですよね」などと兼島は話した。おかしいと~。核家族、シングル母子家庭はあっただろうか。親子3人ゆえに核家族とは限らないと思うが~。親族は~?貧乏子だくさんの時代だったかな~?調べてみよう。
王府のアヘンや宣教師隔離の密使ゆえに、ペリーは王府にたんまりお金を渡してすべてを解決した、との筋書である。
別れる親子の面倒も、問題なし、森川の子はペリーとアメリカに渡って出世するという言葉が使われる。あららら!である。
最後に踊って戻ろうの組踊の定番の言葉が、琉球・沖縄は踊らされている。忘れ去られるに置き換わる。何度か台詞の中で逆転の二語が飛び交う。逆さま、逆転する世界の構造、仕組みを示唆するのか。
それにしてもペリーが100年後は琉球はアメリカの物になる、の言葉など、ハットするが、すでに、アメリカはペリーが来た時から未来を暗示していたのだが、それについては論文など書かれている。山里勝己さんだったか~。
端折ったが、場面ごとに音楽とテレグラムの特別な発信音が鳴り響く。うまく構成されている。
衣装もかなり工夫され、視覚効果もなかなかにいい。
ことば遊びの中にきらきらと放たれる台詞に、歴史の現在を突き刺す、比喩するものが散りばめられている。
口語的なくだけた表現が今時の若者言葉、あれ、つまりあれだからとか、
沖縄の若者ことばのウチナー大和口の面白さはなかったような~。
兼島さんは、身近で接してないので憶測では、おそらく欧米人と沖縄人女性の間に生まれた女性のその息子なのだろうか。
クオーターの青年かなと推測する。コンタクトゾーン沖縄の奇天烈さ、過剰さと豊穣さ、悲劇や犠牲の島、乾いて潤う、潤い乾く島、米軍基地という癌と蜜の島、地政学的に常に自然&政治災害の眼になる島の矛盾や不条理や条理、偽善性もある命どう宝、純粋さ、いちゃりばちょーでー、復古主義、同化と異化、日本のバックヤード、踏み石、日米の植民地、差別、格差、辺境、周辺、国境、グローバル、ローカル、古典芸能の諸々が脳裏を駆け巡るのはいい。
ペリーに象徴されるアメリカ、自由の国が美化されているきらいもあるが、森川の子は、踊らされる、忘れ去られる琉球・・沖縄と暗示している。
ステップストーンは切り捨てられる。面白いが、彼の作品は意外と暗い。
予兆として、つまり攻殻機動隊の中ですでにない未来の沖縄につながるものへの危機意識は強い若者なのだ。
それは辺野古でカヌーにのって抗議しながら、鋭い危機的現状分析と提言を行っている目取真俊を意識させる。
実際は10場面ごとに丁寧に書いてみたいが、時間がかかる。
いったんここでピリオドを打ちたい。
追記した。脚本を読んで、DVDを観て、総合芸術としての美を感じたい。古典芸能の「花売の縁」は音楽や踊り、唱え、台詞が味わい深い。古典作品の中のエキスに及ばないかな~!
兼島脚本のくだけた口語表現は、卑俗性に溢れてもいる。ラップなどもそうだよね。
戯曲として、「人類館」はやはり凄い。兼島さんのこの作品は、意表をつく面白さなり発想が琉球史をご自分がハックしたと書いているように、17世紀から現在、21世紀に至るグローバルな世界を垣間見せている。詩のようなほのめかしに、繰り返される台詞に彼の意図するメッセージ性が込められているのだろうけれど~。
役者の演技やミュージック、ダンス、美術など、なかなかに良かった。少し物足りない点も感じたが、役者自身が脚本をどう咀嚼(そしゃく)、解釈したのか、気になった。
そう言えばクリスチャンラッセン役も登場していた。
今回の作品では、バックヤードに続いてステップストーンが印象的だった。そして、踊る、踊らされる、忘れる、忘れられるである。能動と受動は同一体、表裏一体なんだね。
アイロニーとしての森川子とアメリカの恋物語り?脚本を読まなければ〜だね。
思うに、伝統芸能や文化こそ、モニスティクな世界、モノクロ化への盾になり得る。培われた固有の文化こそが琉球・沖縄の糧、アイデンティティになり、その根っこに琉球諸語や古典や民謡や工芸、様々な祭祀がある。
兼島の台詞は、どんな色合いだろうか。単純にチャンプルー文化だろうか。
琉球、沖縄の色、音、匂い、味わい、身体、所作とは〜?
気が付いたらまた追記したい。誤字脱字、後で訂正。