松原敏夫個人詩誌『アブ』第12号の編集後期に次のような文章が書かれている。松原さんの思いである。
「那覇市が採用試験の面接にウチナーグチでの自己紹介を義務付けるという。消滅危機にある言語を残そうという文化政策はわかるが、これにはなんとも言語強制の感を否めないなぁ。しまくとぅばは自発的におぼえ自発的に使うものではないのか。いつだったか、ウチナーグチでユンタクするシンカンチャ-タ-の中に割りこんで他シマ生まれの私が片言のウチナーグチで話しかけると、困惑と怪訝な顔をしたのを今も忘れない。発音が違うのでこのシマの人間ではないなとわかってみんなは共通語で話し始めたのだ。そういう場面はいまどうだろう。わざとらしく話すことをさせるのか。」
つまり宮古島出身の詩人松原敏夫にとって、沖縄島の首里・那覇を中心とする沖縄語はよそシマの言語であり決して自らの土着の言語ではありえない。無理に沖縄中央語で話そうとするとそこに無理が、軋みが精神の破れが生じるということになる。同じく宮古島出身の詩人与那覇幹夫もまた、首里での体験を語り、友人らとの語らいの席で、宮古島出身とわかった途端級友の父親がテーブルをヒックリ返したという苦い体験を持っている。ゆえに共通沖縄語なり琉球語の押し付けは言語による新たな「人頭税」だと言い放つ。わからない言語を押し付ける意味や意義はどこにあるのか、共通日本語で意思疎通ができてそれでいいのではないか、宮古語は表記できないのだよ。すでにして父母のことばを語り得ない時代だと、云う。
真っ向から反発してきたのが宮古島出身の詩人たちだということに驚く。言葉を大事にし言葉を編んでいる詩人たちの叫びである。一方で同じく詩人の川満信一は、「宮古の今いる人たちも耳で聞いても分からなくなっている。それほど島々の言葉は消えてしまっている」と指摘している。もはや危機言語の琉球諸語の一つ、宮古語も危ういのらしい。琉球王府時代、表記は漢字と日本語である。一方で島ごとに独特な話し言葉が維持されてきた。他島のことばとうまく通じ合えない言語孤島が多く存在したことになる。それをつないだのは中央の権威言語、首里・那覇の折衷語ではなかったのか?
琉球諸語の中で沖縄語、国頭語は近い。八重山語も沖縄語に近いのかもしれない。一方で宮古語や奄美語、与那国語の距離感は中央沖縄語圏からは遠い。地域(シマ)のことばは多様で、糸満ことば、小禄ことば、北谷ことば、屋慶名ことば、越来ことば、金武ことばと実に多様だ。また宮古島でも宮古本島のことば、池間ことば、 伊良部ことば、 来間ことば、多良間ことばと、違いがあるに違いない。多くの地域(シマ)毎の微妙なアクセントや言い回しがあり、それらを統合していくことの「たいへんさ」が前におぶさってくる。しかし、それでも誰にでも理解できるウチナーグチは必要だろう。
かつて沖縄芝居や組踊の名優真喜志康忠氏は「沖縄芝居言葉が沖縄の共通語だ。宮古八重山でも公演は成功した」と語った。氏の体験から語られたことばである。芝居言葉はステージ言語(ウチナーグチ)だが、人工語(造語)でもありえる。それが多くの人々の耳ざわりになると問題は出てくるだろうが、おそらく那覇市が取り組もうとしているのは、那覇を中心とする言語修復だが、郷友会など多様な地域に配慮した試みだと考えている。那覇には宮古や八重山や奄美や与那国出身の子孫も多く住んでいるのである。その点、可能性は高いと言えよう。中央言語に多様な地域の言語を併記する方法も可能かもしれない。
琉球共通語を目指すとすると、どうしても首里那覇語が中軸になりそこに他の言語を加味していくことになるのだろうか?正書法の文字が新聞でもよく見るようになったが、ウチナーグチの記述で新聞が読みやくなるだろうか?琉球王府時代も漢字とひらがなで表記されたのである。そのまま漢字とひらがな表記が中心になっていくのだろうが、つまり語り言葉(話しことば)の表記が今問われているのである。
組踊でも表記と発話(語り)は異なるのである。表記は漢字かなまじりでも、音として発話する時はウチナー独特の表出になる。その落差、二重性が沖縄言語の特徴でもある。そこで表記と発話(話言葉や語り)を統一する文化運動が現況ということになるのかもしれないが、一方で語る言葉そのものが消えつつあることに対する危機感である。
松原さんはやはり違和感を持ち続けるのだろうか?沖縄で宮古島の母語も沖縄語もあまり語り得なくなっている現在、沖縄中央語を押し付けられるわけではない施策(政策)もまた問われているようだ。
自発性ということは安易に言えるが、何らかの形で文化の仕掛けを持たない限り、限りなく中央沖縄語でさえ霧散してしまいそうな現実である。琉球芸能や演劇を研究対象とする者としては、是非継承言語として残さなければならない沖縄語である。組踊や沖縄芝居や琉歌や古典や民謡、琉球舞踊、空手などなど、首里那覇語は必須である。それが消えれば伝統芸能の継承は難しくなるのである。それらの表象に込められた沖縄のアイデンティティも消えてしまう。三八六のリズムも危うくなるね。
ゆえに、宮古島出身の詩人たちの危機感にシンパシーを覚えても、那覇市の取組をわたしは支持する!ウチナーグチは残し、継承されなければならない。
日本語、6つの琉球諸語、英語、中国語など、多言語チャンプルー社会の到来かもしれないね。でも誰でも話せるわかりやすいウチナーグチは必要だと考える。
興味深いニュースを有り難うございます。
琉球共通語について思うことをコメントさせて下さい。
奄美語は沖縄語の書き言葉(琉歌)ととても似ているので、書き言葉は奄美でも受け容れられ易いと思います。
連続で連なっている島々の沖縄語~奄美語は、北琉球語としても大きく括れますし。
そして、琉歌での書き言葉、「きゆ」「きよら」「いもり」「来りば」「如何(いきゃ)が」等を例にしますと、沖縄語では「ちゅう」「ちゅら」「めーり」「ちーねー」「ちゃーが」と首里・那覇で逆に、訛って発音されているように奄美からは見えるんです。
つまり琉歌語が標準語とすれば、首里・那覇言葉は江戸っ子弁、という感じ、つまり失礼な言い方で恐縮ではありますが、首里・那覇訛りの入った‘口語’を琉球標準語とするとそれが標準語たりえるかとも思うのです。
奄美では‘口語’でも琉歌の書き言葉にほぼ忠実に「きゅう」「きょら」「いもり」「くりば」「いきゃが」と発音しますので、琉球標準語を作る時は、奄美語の発音を汲んで頂きたく思いますし、琉歌言葉を基軸にしますと、奄美語と沖縄語は書き言葉では会話可能になると思います。
口語としては、奄美地方の方が沖縄語を理解するに、カ行がタ行で発音されている違いを意識します。
また国頭は、カ行発音も多い様なので、奄美の方も沖縄本島北部までは会話が理解出来る、と言う方が多いです。
これは北京語と上海語が、発音は違うけど、漢字で会話が出来るのに似ています。
しかし南琉球語(宮古~与那国)と北琉球語の溝が問題になると思います。
北琉球語を基に出来た琉歌を、宮古~与那国で共通語として受け容れて頂けるかです。
不思議に沖縄から地理がより遠い八重山の方が、宮古より歌や村芝居、単語の一部で沖縄語の導入が結構見られる様ですが。
八重山と首里人の交流の多さからでしょうか?
宮古は断固として沖縄語を受け容れていない感じがありますね。
琉歌(沖縄語の書き言葉)は奄美語と共有されやすい(奄美も基本三八六言葉)と思いますが、先島でどうか? ということなのです。
長文失礼しました。
《奄美では‘口語’でも琉歌の書き言葉にほぼ忠実に「きゅう」「きょら」「いもり」「くりば」「いきゃが」と発音しますので、琉球標準語を作る時は、奄美語の発音を汲んで頂きたく思いますし、琉歌言葉を基軸にしますと、奄美語と沖縄語は書き言葉では会話可能になると思います。》
これはとても基調な提言だと思います。言語学者はよく知っておられるのかもしれませんがー。
話し言葉が共通言語のように理解しあえるということも、仮に共通言語が可能になるとした時、あるいはそうでなくとも言語の差異の理解になります。
口語が書き言葉に忠実にという指摘もなるほどです。歌・三線をやっているみなさんの言語認識は深いのだと感心しました。
三線をまたはじめなければと思いつつーですが。