志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいてもつながりあう21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

小さな菜園の観察は驚きに満ちている。小さな命が蠢いている!

2024-02-27 17:33:00 | 動植物

菜の花(からしな)の野菜の生涯を見つめる。愛らしい黄色い花が咲き、そしてそこに小さな蝶たちが花に卵をぎっしり産みつけ、やがて誕生した小さな小さな淡い色の幼虫たちは、黄色い菜の花を寝床と栄養源にして大きくなっていった。気がつくと花たちは皆蝶の幼虫の餌食になっていた。
 気が付いて、何度も小さな菜園に通い、見つけた幼虫をはじいていった。幼虫退治をしても、果てがなかった。それでも青い種の鞘は食べられても、その半分以上はからしなの花の生涯を全うできた。
 やがて鞘は薄茶色になり、その中に粒のような微小の黒い種を宿した鞘になるまで、からしなの生涯を全うしている。まだ立ち枯れていない。

一方で、途中できれいな黄色い花をつけて勢いの良かったからし菜の花、青い鞘を着けていたが、しばらく見ないうちに、すっかり幹まで白くなり、食べつくされた。幼虫の貪欲さはからし菜を骸骨にしてしまった。青い鞘まで食べられ、からしなの種はほんの少し生き延びるような風情である。
 それにしても淡い色になった鞘がぶら下がっているような、枯れた老人の姿になっても、その先端にはまだ蝶の幼虫が見られる。
 なぜか、先端である。そこが羽化するに適した場所なのだろうか。
 幼虫をはじいたからし菜と熱心に幼虫退治ができなかったからし菜の差異に愕然とする。それが自然の摂理なら、それはからしなさん、やむ得ないのかもしれないね。あなたは蝶の再生のために犠牲になったけれど、しかし、いくばくかの種は残した。偉かったね。
 毎朝、昼間、時間を見つけて菜園に向かった。蝶の幼虫狩りである。しかし彼らも生きている。途中ではじくことにした。生きるかもしれない。わからない。握りつぶすことをやめた。はじいた。そうすることがいい事なのか、それほどからし菜の種に執着を持っているわけでもないのだが~。
 ただ自然に種からまた芽が出て、菜園にからし菜の苗が育っていく光景が見たいと思った。まだそれはこれから目にする可能性がありえるが、雑草との共存である。
 それにしても蝶に襲われたからしなのみすぼらしくなった姿は痛ましい。からしなの生涯は麗しい種を包んで鞘に溢れた姿と無残に食べられた姿に分かれてしまった。意気揚々として微笑んでいた花々、青々とした葉っぱが枯れ果てていく。からしなの生涯のみすぼらしくなった姿、そして一方で立派な姿がある。どちらもからしなの生涯の終わりの姿だ。
 人の生涯もまた同じだろうか。枯れ果てて消える生涯だが、からしなも人も生きた痕跡、そして子孫(種)を残すことが生きる大河の営みだが、その生きざまには固有の物語が残されている。そしてその生涯も何億もの人類一人一人の多様なそして類として似たような塊としての生涯もあるのかもしれない。
 からし菜の生涯や宿命も一つであり、そうではないに違いない。
何処で育つのか、によりそれぞれの宿命があるのだろう。ハウスで栽培され、積み取られ出荷され、農家の収益になるからしな、多くの菜園で育つからし菜、自然の中で自由に育ち枯れていくからしなもあるに違いない。
 一度ある一人暮らしの老女の家に立ち寄ったら、庭一杯からし菜が群生している姿を見たことがあった。感激した。彼女はからしながとても好きだったのだ。庭はからしなにとって自由な環境だった。とてもあのようなからし菜はめったにないに違いないと思ったのだけど、幸せなからしなさんたちに見えたが、花をつけ、蝶の幼虫の栄養源になりながら、生涯のサイクルを繰り返したのかもしれないし、あるいはあの庭のからし菜は絶滅したのかもしれない。
 風の便りに老女が101歳で永眠したと聞いた。
あの庭は今どうなっているのだろうか。
 さて我が家の小さな菜園のからしなの物語はまだ続く。












 


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