
渡辺保さんの『女形』についての著書よりも、永竹由幸さんの新板『オペラと歌舞伎』が目からうろこで、ハットしました。女形とカストラートの比較など、なるほどでとても分かりやすかったです。オペラと歌舞伎の比較文化論ですが、興味深く易しく書かれています。是非歌舞伎やオペラに関心のある方、新作組踊に登場した玉三郎さんに関心をもったみなさまにお薦めの一冊です。現在課題にしている論考のテーマと響きあっているので、触発されました。永竹さんの大詰のエッセイもなかなか現代日本批判が鋭くて、おや、と思いました。
水谷八重子が歌舞伎の女形の美に勝てなかったわけを書いていますね。女の性ではなく女の美を舞台に表象する女形なんですね。
組踊の場合、写実的な造形ではなく、歌舞伎的であってお能的で、女性なり烈女の舞台表象は生身をはるかに超えた女性美で象徴になっていますね。「忠孝婦人」の乙樽にしても、扮装など、宿の女とどう異なるのだろうか、もう少し吟味しないといけない。その舞台表象まで含めて論で展開しなかったので、その点を含めて「忠孝婦人」について書いてみたい。歌舞伎の女形の中心は「遊女」である。組踊に遊女=傾城・芸妓・妓女・ジュリは登場しない。踊り子風情の二童=衆道的なイメージは登場する。しかし、畳2畳以内で踊る女踊の女たちの美とは?
組踊のなかで女性が踊る踊りはくてぃ節の他は?ジュリではなく乙樽が踊る踊りは女踊りでもある。乙樽、姉妹敵討の登場は1800年以降ですね。姉妹の美しさは、仇討の扮装での果し合いですね。踊って酒の相手をする姉妹の美しさもあります。組踊の扮装に写実性はなく、ないところが象徴としての勧善懲悪であり、儒教倫理の義と孝の空間ということでしょうか?冊報使に見せるための技芸の美のエキスが踏襲されてきたわけだが、観客が、誰か、によって変質・変容してきたのは当然でしょうね。近代以降の変化は著しいですね。
近代
この方は、かなり厳しく日本の官僚システムを批判しています。書物の中身とあわないような気がしますが、2012年という3・11以降の時局への怒りと疑問が書かせたのかもしれませんね。