狩俣恵一さん、田場裕規さんはご一緒に組踊の型や身体性をご研究されているチームですね。新報とタイムスに大胆な批評を展開されています。お二人とも村上湛さんの批評を後ろ盾にしているのが、興味深いです。誰かの虎の衣を借りないと発言できない、軍事植民地知識人のか弱さでしょうか?比較の視点という点ではいいと考えるが、この間の玉三郎のほかの芸能とのコラボレーションはどうだったでしょうか?ハイブリッドな芸の魅力はあると思うのだが、玉三郎さんが琉球芸能を軽くあしらったということはないと思います。歌舞伎の身体性や型や感性の中で新作組踊がどのように造形できるか、実験的で挑戦の一つですよね。多様性を取り組んでそこからさらに止揚していく柔軟性が芸の力でもあると考えます。朝薫が創作したとされる組踊五番にしてもお能や歌舞伎や中国演劇(歌舞)から何らかの影響をうけて創作されたマルチカルチュラルな要素、不思議な統合性にあふれているのではないでしょうか?そうしたいわゆるチャンプルーの中で創作された組踊の初期の型や様式はどうだったのでしょう?茣蓙の上で演じられた舞踊や劇とはどんなものだったのでしょう。興味深いです。
1719年そして1756年、1800年、1808年、1838年、1866年とかなりの間隔を経ての冊封使の面前での組踊上演です。板谷徹さんは仮説舞台というより士族層の屋敷内で多く演じられたようなお話をしていましたね。その士族層の身体はどう反映されたのでしょう?んん、興味深いです。すいだらーと言われた首里士族の身体は空手の達人たちのようにシャキットしていたのでしょうか?舞台芸と日常の所作の違いはどうだったのだろうか?近代以降の芝居小屋での組踊はどうだったのか?どう変質(節)してきたのか?もちろん板谷徹さんが追及されていた古典女踊の原型も含め王府時代から近代以降の変節の過程をもっと手繰り寄せたいですね。現在の琉球舞踊が額縁舞台の中の造花になっているようにも思えるので、琉球舞踊そのもののルーツとその変容(変節)をしっかり踏まえてほしいですね。
座敷芸がヒントです。辻の座敷でジュリの女性たちが古典女踊りを踊っていたと考えるとわくわくしますね。仮説を実証したいものです。なぜ琉歌は恋愛歌が多いのでしょうか?士族の女性たちは恋愛をしたのでしょうか?誰と誰が恋をしたのだろうか?士族層と美しいジュリたちですね!薩摩在番の現地妻でもあった「ちゅらズュリ」の女性たちがいます。
ジュリの表象に関しては文科省から研究助成が採択されましたので、これから3年間、しっかり社会に還元できるよう、3年後にシンポジウムと書籍化を目標にします。