志情(しなさき)の海へ

かなたとこなた、どこにいてもつながりあう21世紀!世界は劇場、この島も心も劇場!貴方も私も劇場の主人公!

紙面に占める芸能(音楽、演劇や様々なPerforming artsを含め)記事や写真の多さは沖縄の特異性!

2019-09-27 19:49:55 | 琉球・沖縄芸能:組踊・沖縄芝居、他

   (琉歌は琉球語で成り立っているのですが、「国立劇場おきなわ」は、伝統芸能について琉球語で紹介しませんね!)

およを140万県民が住む琉球諸島、民俗芸能や祭祀を含め、年間実に何百、何千ものいわゆるパフォーマンスが繰り広げられる島々であること。日夜蠢いている島々なのだと、感嘆せざるをえない。去年から馴染みになった公園の駐車場では、古典音楽を車で稽古している方もいる。毎朝のように、コンクールを目指してがんばっている。古典音楽から現代音楽、ダンスも含め、琉球諸島の島々は常に創造し、表現し、「うむい」を形にしている。

これだけ、空手も含め固有のパフォーマンスが繰り広げられる地域は、マイノリティー文化圏に多いのだろうか?パフォーマンスがアイデンティティの表出、表現活動である。伝統芸能から現代演劇やバレーやコンテンポラリーダンスも含め、また沖縄ポップミュージックやロックやレゲーも含め、多様な表象活動が繰り広げられている。

自らの身体で表出する、表現する活動が「よく生きるとはよく演じる事である」かのよう、精神と身体の相乗性がコミュニティーとして生き生かされている島々と捉えることができるだろうか。しかし世界やこの国のどの地域でも、場・空間でも多様なPerforming artsがメディアを通して、あるいはローカルに地域の芸能として繰り広げられているのは事実だ。

芸能など、パフォーミングアーツとはいったいわたしたちにとって何だろう。沖縄の固有性がどう表示されているのだろうか?日本のほかの地域のローカルな新聞と沖縄の新聞に占めるPerforming arts関連記事や写真と比較してみたい。お隣の鹿児島県はどうだろうか。東京、大阪に次いで沖縄芸能の位置づけは高い。なぜ?

小さな国家としての体をなしていたゆえだったというのが、一番の答えだろうか。そして第一に、祭祀芸能の豊富さである。自然の中で祭祀芸能が息づいていた歴史が滔滔と流れてきたのである。第二に小さな王国が芸能を外交の重要な媒体として位置づけていたことだ、第三に歌い踊る身体のリズムを内包する文化を宿し続けてきた歴史。第四に時勢の波に揺れて常にそれに順応しつつ立ち向かってきた中で、呼吸のように、声を荒げるように、芸能(パフォーマンス)が「うむい」を形にするようになった、と想定できようか。

困難と矛盾に向き合いながら、「うむい」を解いてきた芸能の姿がある。芸が生きる糧になっていった島人たちの感性が水のよう流れていったのだ。身近な自然、生活の中にあった神々との共感と共生。超自然的な力に祈り、豊穣を願ってきた島人たちの「うむい」が歌になり踊りになっていった。

国の中枢の姿態(パフォーマンスの形態)があり、それがまた地域へ、島々へと伝播しつつ、逆に島々から中枢へと集約されていった芸(歌や踊り)がある。

小さな国の体をなしていた、という事実、歴史がもたらした多様性が脈打っている島々!

出会い、コンタクトゾーンの衝撃がもたらしたものは多様に働くのらしい。中国大陸、薩摩や他藩の影響、そしてアメリカがやってきた琉球弧の島々、今もなおだが、独自の音階、琉球詩のリズム、表現、がもたらしたもの、空手にしても中国からもたらされた。中国や日本という国々との交流の中で交じり合い反発しながら、根にあったことばとリズムを根っこに編み出してきた独特の音楽や踊りと演劇!なぜか歴史をなぞっているようで、ここで休憩、夕食を運んでこなければーーー。


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