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この二日間、この533ページの長編小説に読みふけった。伝統芸能も現代劇も見ないで500円余で刺激的な小説に没頭した。すでに見た組踊を見る必要性を感じなかった。演劇のシンポジウムは参加したかったが、行けなかった。この小説は凄い!面白く、知的で哲学的で、それでいて本質的な問いかけになっている。
「天皇に戦争責任はあるか」がテーマである。そして東京裁判が捉え返される。アニミズム、ベトナム戦争、真珠湾攻撃、東京大空襲、広島・長崎への原爆投下、本土防衛の捨石にされた沖縄戦、南京大虐殺が何度か言葉として登場する。
16歳のマリ、メイン州に留学した少女がディベートに臨むそのクライマックスは壮観だ。マリの最終弁論がもっとも作者が言いたいことの集約に見えた。
夢想、12歳から45歳の現在へ、双方的になされる電話、1980年、2009年、2011年、輻輳する時、夢、幻想、夢想、ベトナム戦争、枯葉剤の影響を受けて生まれた双子の兄弟、ヘラジカの狩、小鹿死骸、男と女、戦勝国と敗戦国、ジェンダーの構図、戦後日本が近代日本が問われる。天皇とは何か?東京裁判で通訳としてかかわったママの存在。
しかし長編とはいえ、構成がいい。イメージの繰り出し方がいい。なるほど、このように物語を仕組むのかと圧倒される。神話体系、物語、翻訳、ことばの問題、宗教があぶりだされる。家族関係の綾が解かれていく。国家が一個の人間のように現れる。国家が無数の人々の集合体として現れる。人々とは?神と人間。神秘の謎、観念的なあまりに観念的な神概念を絶対化せざるを得ない人類史の戯画化された、否実態もある。東京プリズンはプリズム(多面体)。巣鴨プリズン・東京裁判、勝者と敗者。戦争は敗者を奴隷にしてきた。両性具有のシンボリズムに包まれた天皇。ヘラジカは見事な角を持ち、性別があいまいに描写される。母親鹿にも見えたのだ。
生きとし生けるものたちはみな囚人、それぞれ何かの檻にとらわれているとは「ホテルカリフォルニア」の歌詞にある。私は神の子である。あなたがそうであるように。中心の虚無。役割を生き生かされる命。
大嘗祭の比喩も。繭の中、何かと交わりを持ち、この世に新生する存在。1868年の明治維新から近代の走り、繰り返される戦争、そして原爆投下があり、戦後の宗主国アメリカによる復興、それから2011年の3・11に至る。
この小説は毎日出版文化賞、司馬遼太郎賞、そして紫式部賞を受賞している。京都には紫式部が親筆した屋敷が残っている。
場所をアメリカにおいて論じられる日本近現代史のタブー。天皇の戦争責任がキリスト教やアニミズム、ベトナムなどの位相もからめて物語になる。
なぜか、3年間のアメリカ留学時代が思い出されました。アメリカ留学前まで小説を書こうと書きなぐっていたこともー。
http://salon-public.com/wp-content/uploads/2018/05/hondana_77.pdf ←批評を探したらなかなかいい分析がありました。
廬山寺ーー出町柳駅から近く、二度ほどたずねたことがあります。
「源氏物語執筆地 紫式部邸宅跡」と掲げられています。
廬山寺は天慶元年(938年)、天台宗中興の祖、元三(がんさん)大師良源が北山に与願金剛院を創建したのに始まります。天正年間に秀吉の都市政策により現在地に移されました。
この地は紫式部の曾祖父藤原兼輔の邸宅跡であることから、紫式部も住んでいたと考えられています。
鴨川の西側の堤防に接していたため、「堤邸」と呼ばれ、それに因んで藤原兼輔は「堤中納言」の名で知られています。