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(母の庭に橙色の花々が咲いた)
≪裸族≫
裸で寝てパンツ一枚で起きてきていう。
「俺、裸で春夏秋冬寝ているから、このパンツ一枚がとてつもなく重い
んだよね。昔の人は、フランスの貴族層も裸で寝ていたんだろう。
裸で寝るのは普通だったんだよ。寝間着などの寝具が登場したのはつい最近のことらしいよ」
「そうなの、知らなかった。そういえば雪の降る町でも家の中では裸で寝ている人の話は聞いたことがあったけど」
「そうそう、夫婦で裸で寝ないと、おかしいことになったとか」
と、甥っ子が口をはさむ。
上半身裸で夏を駆けずり回った少年は、今は
青年になって裸で寝起きする。裸で自然を取り戻しているのかもしれない。
「ああ、おれマタギの生活にあこがれる。いつかそこに行きたい」
「君は、きわめて原初的なものにとり付かれているんだね。本能から疎外されたシステムの中で生かされているからね」
「システムから外れて生きている人たちは、けっこういるんだよ」
「んんん、それで生きていけたら本望か」
「俺はここから出ていく。帰ってこないかもしれない」
ときどき、ドキッとすることを言っている裸族がいる。
裸族はしかしネット族でもあり、小説も読みまくる。
ネット族とマタギとはイメージが重ならないが、ネット情報と現実の裸との兼ね合いが
どうもマトリックスの後追いかもしれない、などと解釈したりしている。
「そういえば、ツイターで東大の安富という先生がツイートしていたけど、秋葉原のあの兄弟の弟は自殺したみたいね。
可愛そうにー。お父さん、お母さんは離婚で、やがてお母さんは自殺、お父さんは実家に引きこもり、弟さんは転職を続けても
メディアに追いかけられ、好きになった彼女に〈あなたの家族は異常よ〉、と言われ、生きるより死ぬ理由の方が妥当で、などと
遺書を残して死んだそうよ。お兄さんは一度も彼と面談してくれなかったんだってー」
「加害者の家族の苦しみと被害者家族の苦しみは同じではないと思うけれども、悲劇の連鎖かもしれないね」
「アメリカ的な個人中心なり個人主義の思潮の中だと、弟の場合、犯罪犯した兄故に家族としての負い目はあっても、
それで自殺ということはどうなのだろう。あまりないのかもしれない。個人が単位なら。でも家族単位の歴史の足枷が
強い日本では、その関係の絶対性で罪を背負うことになるのだろうか?犯罪を犯したのは兄であり、弟は関係なかった
はずなのだ。血縁というより、家族を維持することが軸になっているところがあるみたいだね。養子縁組は盛んで、
ダメ息子は縁切りする。つまり家族が成り立たないと、崩壊するのは当然になる。個々の家族の単位の社会的罪と罰の
場合と地域や国家単位の大量殺人=戦争の場合とまた異なる倫理なり法律が適用されるのかもしれないが、人殺しの
罪と罰、それは、民族、ネーション単位ではまた、多くの大量殺戮を犯した側はその罪を償わなければならない、ということ になるね。
無残に殺された家族の苦しみ、悲しみを思うと、それをどんな形で償うか、死刑にして、罪が晴れるわけではなく、死者たちが
戻ってくるわけでもない。K君が犯した罪(殺人)のために多くの関係者(家族)がその悲劇ゆえに苦しみ、人生の航路に大きな
影響をうけた(うけている)のは、確かであろう。身近な者が不条理に殺された時、いたたまれない悲しみと悔しさに身が震え、
人生の不合理・無情にわななくに違いない。そこから其々の人生のまた旅路は続くのだけれど、そこで人はまたどう生きなおす
のだろうか?K君がその恐ろしい犯罪を犯すに至った動機や背景はすでに分析された書物が出回っているのかもしれない。
親子関係の闇、夫婦の闇が暴き出される。夫婦という対の単位があり、子供が誕生し、家族を構成する。その家族がすでに
壊れているとき、人はまた心も壊れていく。関係性の絶対性、しかしその家族の置かれた社会はどうなのだろう。年間3万人
以上が恒常的に自殺する日本社会のシステムの倫理観・制度のひずみはなかったのか?Kがあえて無差別殺人事件を犯
さざるをえない背景・環境も無視できないはずで、格差社会のうなぎのぼりの人間切り捨て構造があった(ある)のも事実だ。
持てる者たちと、持てない者たちの格差(間)、淵があり、そこをつなぐルートが見えないままだ。しかしみんながみんなK君の
ように他者に危害を加えるわけではない。己を(処罰)抹消していき、制度から切り捨てられていくのが自殺なのだろうか?
フーコーが言うように、戦争が日常の戦争の氷山の一角だとすると、それはもう世界大戦になると、氷山の半分が血の色に
染まる現実だが、生きることが適者生存、弱肉強食の激しいバトル(競争)原理の上に人間は生まれる前から置かれていること
になる。 そこに運・不運もあるのだろう。無数の☆の下に生まれる人間の命のサイクルは無数のドラマを編んでいる。
当初から不合理な惑星に奇蹟的に生を得て生き、そして死んでいく人間の循環がある。そのサイクルの中でどれだけ
主体としての自分のサイクル(ドラマ)を生きるかが問われている。そして、それぞれの枠内の中で精一杯の命と能力を
活かして社会の構成員として生きていく。疎外の無窮の果てに血の色に爆発した者の怒りと怨念と自負、それらがどう
編み込まれていったのか?」
「おれYを殺したい」と呟いたのは12歳の頃だった。
「だめよ。人を殺したら君の人生が終わりになる。人を殺さば穴二つの言い伝えがあるよ」
「殺したいと思う気持ちを別に向けたらいい」
「ああ、皆死ねばいいと思う」と言葉に出すのはなぜか?死ね!死ね!の絶唱があちらこちらから聞こえてくる。
「自暴自棄になり、自分が不幸だと思うときにそう思うのかな」
「そうかも」
「ひとは皆死ぬ運命にあるから、死刑にしないで、K君のこと、もっとじっくり取り組めたらいいね」
「K君が爆発した人生を丁寧にフォーローする必要があるのよね」
「怒りなのか、疎外感の頂点だったのか、親への反発だったのか」
「なんか、生きるのは楽しいけれど、つらい事も結構多い」
「生きていることを奇蹟だと捉えると、すべてが新鮮に思える!この惑星の恩恵を大事にしたい」
「そうね」
「・・・・・」
若者たちは意外と冷静に見ようとしている。
学校内部の格差(差異)にもいじめつけられても来たのだ。
実はすでにして多少の痛みを血を流してきたのかもしれない。
皆死ねばいいのに、は俺は死にたいの反語なんだ。
生きるとは死への一本道に代わりはないけれど、その道筋の糸の蜘蛛の複雑さ
否、単純さかもしれないその道程のはるか先を見つめるとき、人が生きるドラマの
クライマックスと終幕の有り様に慎ましく、なだやすくありたいと、思う。
若者が自らの道をあまりころぶことなく生きていってほしいと願う。
(雑談終了!)
(母の庭に見慣れない花が咲いた!)