ぶろぐ猫の目

笑う門には福来る・・

実験中

終戦記念日にあたり:淡谷のりこ

2007-08-15 00:27:14 | どうでもいい話
まあ、終戦記念日ということで
くだらないことばかり言ってると罰が当たりそうなので
今日は少しまじめに

長くなりますが

先日、相変わらずトイレで新聞を読んでいると
目に入ったコラム「天声人語」

淡谷のり子について語ってました



「ブルースの女王」、と聞いて淡谷のり子さんを思う人は減りつつあるだろう。きょうが誕生から100年と聞き、戦時中も軍歌を拒み続けた硬骨の生涯を思った。レコードだけではない。兵を死地に追いやる歌だと、戦地の慰問でも歌わなかった人である。

 平時と変わらぬドレスで舞台に立ち、流行歌を歌った。アイシャドーに真っ赤な口紅、つけまつげ。「不謹慎だ」と憲兵が怒鳴ると、「(こんな不器量が)素顔でステージに立って、どうなるのですか」と言い返したそうだ(『ブルースの女王・淡谷のり子』吉武輝子)。

 一度だけ、舞台で泣いたことがあった。九州の特攻基地でのことだ。歌の途中に出撃命令の下った隊員らが、一人ひとり敬礼して中座していった。こらえきれず、背を向けて涙を流したという。

 淡谷さんを泣かせた特攻を、日系米国人が追った映画「TOKKO 特攻」が上映されている。狂信的自爆のイメージばかりが米国では強い。だがリサ・モリモト監督は丁寧な取材で、元隊員の「生きたかったよ。死にたくはなかったよ」という本音にたどり着く。

 「特攻兵」というロボットじみた人間など、どこにもいなかったのである。「兵士」という特別な人間も。誰もがただの人間だった。そのことを、淡谷さんは分かっていた。

 前線の慰問で、軍歌を聞きたがる兵はいなかった。リクエストはきまって十八番(おはこ)のブルースだった。生きて帰ることを願っているただの男たちのために。そ
う念じながら歌ったと、彼女は後に述懐している。


略歴

1907年、青森の豪商「大五阿波屋」の長女として生まれる。青森市大火によって生家が没落。10代の頃に実家が破産し、1923年に母と妹と共に上京。東洋音楽学校ピアノ科に入学する。家がだんだんと貧しくなり、学校を1年間休学して絵画の裸婦のモデルを勤めるなどして生活費を稼いだ。

世界恐慌が始まる1929年の春に卒業。家を支えるために流行歌を歌う。1930年1月デビュー。流行歌手になり、低俗な歌を歌ったことが堕落とみなされ母校の卒業名簿から抹消された。

日中戦争が勃発した1937年に「別れのブルース」が大ヒット。ブルースの情感を出すために吹込み前の晩酒・タバコを呷り、ソプラノの音域をアルトに下げて歌う。その後も数々の名曲を世に送り出し「淡谷のり子」の名をとどろかせる。「もんぺなんかはいて歌っても誰も喜ばない」「化粧やドレスは贅沢ではなく歌手にとっての戦闘服」という信念の元、戦争中に禁止されていたパーマをかけ、ドレスに身を包み、死地に赴く兵士たちの心を慰めながら歌い送っていた。英米人の捕虜がいる場面では日本兵に背をむけ彼等に向かい敢えて英語で歌唱する、恋愛物を多く取り上げる、といった行為を行った結果書かされた始末書は、数センチもの厚さに達したとのことである。

1953年にNHK紅白歌合戦に初出場、いきなりトリを務める。また、NHK紅白歌合戦で、初出場でトリを務めたのは淡谷のみである。

1999年歌に捧げてきた生涯に幕を閉じる。

晩年は「ものまね王座決定戦」(フジテレビ)の名物審査員として活躍。清水アキラらの下品なネタに対して、歌謡界の超大御所である淡谷が仏頂面で容赦のない酷評を下すのが番組の恒例行事となっていた。淡谷は下品な芸で笑いをとる清水アキラを本気で嫌っていたらしいが、清水が珍しく正統派の物真似を披露した際に10点満点を出し「あなたはやればできるのよ」と褒めたこともある。この時、清水は感激のあまりテレビカメラの前で号泣した。しかし後の回では元通りの下品な物真似に戻り、淡谷から酷評を受け続けた(これが同番組の大きな売りだったといえる)。清水は淡谷の葬儀に真っ先に花輪を届けたと言われ「叱ってくれる唯一の人だった」と話し涙した。


私が知る淡谷のり子は、
物まねグランプリに審査員で出場し
辛口の批評で座を沸かしてた姿だけです
特に清水あきらが物まねを披露すると
淡谷先生が怒り出し「あんたもっとまじめにやんなさい!」って・・

そんな姿しか知りません

憲法9条改正問題や靖国参拝をめぐる論議・・
戦争を知らない子供たちが主流を占め
平和ボケした私たちを
淡谷のり子はどんな気持ちで見てたんでしょうか?

いま天国で彼女は何を思っているのでしょうか?


コメント (2)
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