たまには真面目な話
いつも、マンコカパックとか言ってるわけではないのだ
5月24日の日経特集でチリの話が掲載されてて、
そのなかで「モアイプロジェクト」の話がありました。
いい話なので、はしょって転載するのだ。
2012年12月25日、東京港に1体のモアイ像が到着した。
高さ約3メートル、重さ約2トン、小ぶりだがスマートで端正な立ち姿。
イースター島の石を用い、島の彫刻家の手によって造られた、マナ(霊力)が宿るといわれる本物のモアイ像である。
このモアイ像は、チリのイースター島から日本の宮城県南三陸町に贈られるものだ。
南三陸町とチリの関係は1960年のチリ地震に端を発します。
この地震による津波は日本の旧志津川町(現南三陸町)にも達し、41人の命を奪う被害をもたらし、
その後、同町は復興30年を記念してモアイ像の制作をチリの彫刻家に依頼し、松原公園に設置しました。
チリ大統領からも友好のメッセージが贈られ、モアイ像は防災と、チリとの友好のシンボルとして町民に親しまれてきたのです。
しかし2011年3月11日、東日本大震災の津波は、防災のシンボルであるモアイ像ものみ込みました。
頭部と胴体はバラバラとなり、がれきの中から発見されました。
志津川高校の生徒たちは町に要望し、頭部を同校の敷地内に運び入れました。
こうしたなか、11月にチリの民間企業が被災地支援のために結成したエスペランサ(希望)委員会の関係者が、南三陸町を訪問しました。
町民や志津川高校の生徒たちがモアイ像を大切にしていたことを知っていたチリ側は、南三陸町に新しいモアイ像の寄贈を申し出ました。
チリ国民の想いを形にしたいと考え、モアイ像が選ばれたのです。
南三陸町は申し出を受け、ここに、イースター島で造られたモアイ像を日本とチリの友好と震災復興のシンボルとして南三陸町に寄贈する「モアイプロジェクト」が日本のチリ関係者も参画しスタートしました。
しかし、寄贈は簡単なことではなかったのです。
モアイ像はイースター島の石を用い、島の人々の手によって造られ、瞳がはめ込まれてこそ、マナを有する本物となり得るのです。
ところがイースター島は世界遺産に登録されており、モアイ像を安易に制作したり寄贈したりすることはできないのです。
島内でも反対の声が上がりました。
「ならば」と手を挙げたのが、島の重鎮でありラパヌイの彫刻家一家の長老、92歳のマヌエル・トゥキ氏でした。
「モアイの魂の力で、破壊された町を再建しようという日本人を、なぜ我々は助けてあげられないのか? 日本人はこれまで我々を援助してくれたではないか。石の供出が困難なら、自分の土地から岩を切り出して、息子に彫らせる」
その言葉は、島民の心を揺さぶり、石像を日本へ贈ることについて承諾を得ることができました。
日本に寄せる友愛と報恩の念、ラパヌイの伝統への誇り、そして家族の想い。それらが後押しとなって、12年8月、モアイ像が完成しました。
この石像はまずイースター島からチリ本土へ運ばれ、海路太平洋を渡り、チリの人々の真心と一緒に日本に到着したのです。
トゥキ一家の誠意ある行動の背景には、もう一つの物語があります。
香川県のクレーン会社「タダノ」がスタートさせた「モアイ修復プロジェクト」です。
きっかけは1988年のあるテレビ番組。
その中でイースター島に倒れたままのモアイ像がたくさんあること、
そしてクレーンがあれば修復可能だということを知った同社の社員の、「うちの出番だ」という思いつきに始まります。
会社も「クレーンが社会に役立つことを知ってもらえる機会だ」と決断。
92年から、考古学の専門家や、多くの文化財修復の経験をもつ石工である左野勝司氏らとモアイ修復委員会を結成し、プロジェクトを開始したのです。
倒れたモアイ像をクレーンで起き上がらせる―。文字にすると簡単ですが、
修復当時はモアイ像の台座である基壇(アフ)の石は散り散り、石像の保存状態も悪く困難を極めました。
そこでこのプロジェクトでは修復対象を島内で最大の遺跡アフ・トンガリキに絞り、
92年10月に発掘調査に着手し、その過程で散らばった石を集め、まずアフを再建したのです。
1992年にスタートした「モアイ修復プロジェクト」。
クレーンでモアイ像を持ち上げ、基壇に安定するよう設置します。
イースター島の現地作業員と日本からの常駐作業員が協力し、修復にあたりました。
修復プロジェクトが完了したのは95年5月。
プロジェクトで使われたクレーンはそのまま島に寄贈されました。
左野氏はいくつものモアイを甦らせ、今やモアイ像修復において右に出る者はいません。
日本人の技術と、その矜持に裏付けられた無償の協力、イースター島の人たちとの信頼関係があったからこそ、プロジェクトは成功したのです。
トゥキ氏が今回、モアイ像の制作を申し出たのも、このときの日本の献身が胸に刻まれていたからでしょう。
今回、モアイ像の基壇は南三陸町の石を使い、同町の石職人と一緒に造りたいと考えている。
「チリの人ができる限りのことをして贈ってくれたモアイ像です。その真心を受け止め『ありがとう』と自然に思ってもらえるようにしたいですね」と語る左野氏の瞳は遠くチリを見つめています。
モアイ像が置かれるのは、宮城県北東部に位置する南三陸町。
「モアイを使って南三陸町を元気にしよう!」そんな発想が生まれたのは、2010年春、宮城県志津川高校 の授業の一環で、地域活性化をテーマにすることとなり、モアイをシンボルに使った展開が生徒の中から持ち上がった。名づけて「南三陸モアイ化計画」。
志津川高校の生徒たちがモアイをシンボルにして地域活性化に取り組んできた「南三陸モアイ化計画」。
生徒自身でキャラクターをデザインしたり、地域活性化につながる用途を試行錯誤し盛り上がりを見せていたのですが・・
そんな矢先に東日本大震災が起こったのです。
津波により南三陸町は死者・行方不明者合わせて800人以上の犠牲者を出しました。
志津川高校は5月9日まで約2カ月間閉ざされたまま。
授業が再開しても、「もうモアイ化計画どころの話ではない」と、情報ビジネス科を担当する佐々木宏明教諭は諦めていました。
ところが、「こういうときだからこそ活動を再開するべきだと、多くの人に言われたんです。それなら、できることから始めようと、生徒たちと決めました」。
さっそくモアイをデザインしたプレートを作り、復興作業のために県外から来ていたパトカーのフロントに置いてもらったり、「南三陸町はがんばっている」というプレートを目立つ場所に置いてもらうことで、それを見た住民にも元気を出してもらいたかったといいます。
モアイが災害に立ち向かう勇気のシンボルとなったのです。
一方で佐々木教諭らは、がれきの中に置かれたままになっていたモアイ像の頭部を何とかしようと方々にかけあっていました。
しかし救出しても置き場がない。学校に運びたいが、モアイ像は町の持ち物で、学校は県の敷地。
そこで町から県に要望してもらうことで許可が下り、11月にモアイ像の頭部が校内に置かれました。
そのタイミングでチリからエスペランサ委員会関係者が来校。
新たなモアイ像の提供を申し出てくれたというわけです。
「南三陸モアイ化計画」は、今では学校の活動から町全体の活動に発展し、
モアイを使って町を一つにし、復興に向かって歩んでいこうという多くの人の想いが込められているのです。
モアイ像の台座には、以下のようなチリからの言葉が刻まれる予定です。
「このモアイ像は、人類史上まれにみる悲劇によって亡くなられた方々に対する全チリ国民の親愛、友情、敬意、そして、深い弔意を表して、制作されたものです」
地球内部の灼熱のエネルギーが産んだ火山の岩。そこから生まれたモアイ像だからこそ、同じく地球のエネルギーの発露といえる未曾有の自然災害に打ちのめされながらも、再び歩み出そうとする人々の、勇壮さ、気概の象徴となり得るのかもしれません。
2013年5月、白いサンゴと黒曜石でできた瞳がはめ込まれ、マナを宿したモアイ像が南三陸町に誕生する。