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「津波2分前、最後のメール…亡き妻の携帯 2年ぶり家族の元へ」2013年2月20日(水)10:27(産経新聞)
一昨年3月11日の東日本大震災で甚大な津波被害を受けた岩手県陸前高田市の復興現場から1台の携帯電話が見つかった。
持ち主は津波の犠牲になった同市職員、福田晃子(こうこ)さん=当時(54)。
大量の海水をかぶったはずの携帯電話は電源が入り、そこには当日のメールが残されていた。
「私は大丈夫、まだ揺れている」「大丈夫? 私たちは公園に避難中」。
震災から2年近い時間を経て家族の元に戻った遺品は多くのものを語りかけた。(写真報道局 鈴木健児)
◆電源が入った
福田さんの携帯電話は陸前高田市民会館の解体現場にあった。
今月15日、作業員が1階部分で見つけたと記者に手渡したものだ。
壊滅的被害を受けた同市中心部では、市役所や体育館などの解体作業が今も続いている。
市指定の避難先だった市民会館には大津波が襲い、多くの死傷者を出した。
作業現場では、今もカメラや腕時計などが見つかっている。晃子さんの携帯電話もその一つだった。
持ち主が分かれば、と電源コードをつないだ。
多分だめだろう、という記者の予想と異なり、電源が入った。
通話履歴にあった「自宅」に電話すると、母、金沢雅子さん(78)が応対に出た。
「晃子は津波で亡くなりました。私の娘で『こうこ』と読みます」
解体現場で預かった携帯電話を届けるため、その日のうちに晃子さん宅を訪れた。
市中心から約8キロ東の海岸部。津波被害は受けなかったという。
晃子さんは被災当時、市福祉課の課長代理をしていた。
父の金沢善郎さん(82)によると、がん治療のため盛岡で入院していた晃子さんは3月9日に退院、自宅に戻った。
雅子さんは出勤を控えるよう勧めたが「仕事がたまっているから」と仕事に復帰したのは震災前日の10日だった。
3月11日午後2時46分。
同市を震度6弱の揺れが襲ったとき、自宅には両親と次女の福田有里さん(24)がいた。
夫の利喜さん(54)はまもなく帰宅。
長男、陽介さん(28)は盛岡、長女、由貴さん(26)は東京で無事が確認された。
勤めに出ていた晃子さんの安否だけ分からなかった。
◆最後のメール
3月11日の晃子さんの携帯電話には、通話発信2件、着信1件、メールは3件発信、2件受信の履歴が残っている。
発生13分後の午後2時59分、山口県に住む叔母からのメールに「私は大丈夫、まだ揺れている」と返信。
午後3時8分、両親の携帯に電話をかけ、その10分後に由貴さんと「大丈夫」という会話をしている。
21分には有里さんに電話したがつながらなかった。家族全員の安否を気遣っているのが分かる。
そして午後3時22分、利喜さんに「大丈夫? 私たちは館のおき公園(注・館の沖公園)に避難中」とのメールを発信している。
陸前高田市に津波が到達する2分前。
これが最後のメールとなった。
■「いつも近くで見ているから」 母の思い心に…
一夜明けた12日、ラジオで市役所屋上に100人が避難していると知り、善郎さんと有里さんは市役所に向かう。
がれきが埋め尽くす道路の中、やっとの思いでたどり着いた屋上に晃子さんの姿はなかった。
その後も家族で避難所をまわったが、晃子さんは見つからなかった。
「責任感の強い、親思いの一人娘だった。なぜ市役所屋上に逃げなかったのか。いまだに当時の避難経路の検証もなく、あきらめられない」。
当時のようすを語る善郎さんの唇はふるえていた。
利喜さんも怒りを隠そうとしなかった。
「市長も市幹部も市役所屋上に避難しているのに、なぜ公園に避難するのか。きちんと検証をしてほしい」
20日午後、住田町生涯スポーツセンターでひつぎに納められていた晃子さんと悲しい対面をする。
その日遺品として受け取ったのが由貴さんが贈った、ピアノの鍵盤模様のストラップだ。
晃子さんの携帯電話はストラップと2年ぶりに再会したことになる。
有里さんは「うまくいかない時など、津波を思い出して無理に気持ちを奮い立たせてきた。震災から2年を前に母の携帯電話が見つかるなんて。母が最後に電話したのが私だと分かり、『いつも近くで見ているから、がんばり過ぎなくていいよ』と言ってくれている気がした」と涙を流した。
公園にいた晃子さんの携帯電話が、なぜ市民会館にあったのか、わかるすべはない。
東北地方では東日本大震災2日前の9日に前震とみられる地震があった。
陸前高田市は震度4。
そのとき、晃子さんは大学時代の友人にメールをしていた。
「揺れは大丈夫。津波だけが心配」
コメントは、いらないよね。