中世の武家庭園シリーズ
「江馬氏館庭園」
10月上旬に岐阜県飛騨市の史跡公園「江馬氏館跡公園」に、歴友(歴史友だち)の武藤舜秀氏と行ってきましたので、その様子を報告します。園内をを周る時に、公園の職員さんが案内してくれました。案内してくれたこの職員さんは単なる職員ならず。館の会所建物の復原を担当していた大工さんだったのです。会所の説明など楽しく聞くことができました。
江馬氏は室町時代に活躍した飛騨の在地領主で、室町幕府の御家人であったと言われています。14世紀末頃に創建されたと思われるこの江馬氏の館の構造は、実に室町幕府の将軍の「花の御所」とそっくりにできています。江馬氏が京都風に作らせたためでしょう。
復原された江馬氏館の会所から復原庭園を眺めると、このようにとても美しい姿が目の前に広がります。中世の庭園は座って眺める「座観」が基本です。この写真も座った状態で撮りました。
写真をみるとところどころに水が溜まっていますが、水が溜まっていない箇所もあります。江馬氏館庭園は排水施設がみつからなかったそうで、基本的に池の構造を持っていないと考えられます(水が溜まることを想定していない)。しかし、雨が降った時には水が溜まって池ができる(水溜りができる)という、晴れと雨で違った景色が楽しめる庭園です。中世の庭園には、排水施設を持った水が循環する池がある庭園(室町前期に多い庭園タイプ)と、池がなく石で水の流れを表現する枯山水庭園(室町後期に多い庭園タイプ)とがあるが、江馬氏館のような庭園は珍しいと思いました。また、庭園跡には木の根の跡が見つかっておらず、樹木を植えないで、石組み中心の庭園となっていると、江馬氏の発掘調査のパンフレットに書いてありました。
この江馬氏の館庭園は1976(昭和51)年の土地改良工事に先立つ発掘調査で発見されました。元々この地には水田がありましたが、大きな石が5つもあり「五ヶ石」(ごかいし)と呼ばれ、耕作の邪魔ながらも廃棄せず、地元住民も「江馬の殿様の庭の石である」と言い伝えていたと言われています。1994(平成6)年に発掘調査再開、2000(平成12)年から館と庭園の復原工事開始し、2007(平成19)年10月に館の会所建物が完成し、史跡公園「江馬氏館跡公園」としてオープンしたのです。発掘調査開始からおよそ30年の月日。遺跡の整備・復原には長い時間がかかると痛感させられます(七尾城の整備・復原は如何に…)。写真にも大きな石が写っていますが、こういった石も農耕で倒されたり、割れたりしたらしい(職員さん談)。それらを合わせるように復原するのも大変な苦労だったことでしょう。
江馬氏館の会所では主人の居間など細部もかなり復原しています。また、史跡公園を身近に感じてもらうため、住民イベントなんかでも貸し出しOKだそうです(もちろん有料)。
襖の欄干は鉄?と思いきや実は漆塗りの木。輪島の漆だそうです。これも館の発掘調査で見つかったから復原したそうです。う~ん、ずいぶん豪勢な会所だ…。こういうところを見逃すともったいないですよね。職員さんの話は本当に貴重でありがたい。
江馬氏館の発掘調査では珠洲焼が結構出土しています。内陸の飛騨神岡に珠洲焼が流通しているのは川をつたって日本海まで来ているということでしょうか。このあたりの川は確かに太平洋との分水嶺の前なので、川の流れは日本海側に流れています。そういえば、1546(天文15)年に岐阜県大野郡丹生川村(現在は合併して高山市)の千光寺に中居の鋳物師が訪れて梵鐘を鋳造している記録があるので、飛騨と北陸の経済的つながりはかなりあったのかもしれません。そう考えると珠洲焼があることも不思議ではないですね。
館の周りは薬研堀(堀の断面が器の形状に似ている事)の空堀があります。
上記2つの写真をみると、2つの門があるのがわかるでしょうか(2つ上の写真)。手前が脇門で奥が主門と言われています(両方とも堀が途切れて通路がありますね)。この違いは、柱にあります。脇門は間口が約2.7mの掘立柱建ち(ほったてばしらたち)で、主門が間口4.2mの礎石建ち(そせきだち)です。脇門の方が間口が狭いことは言うまでもありませんし、さらに柱も太くない。すなわち大きな門ではなかったことが想起できます。一方主門は間口が広いだけでなく、礎石があるということは、柱も太いはずで、すなわち立派で大きな門があったと想起できるわけです(1つ上の写真)門の復原は京都の「洛中洛外図屏風」を参考にしたと言われます。一乗谷朝倉氏遺跡もそうでしたが、室町時代の建物復原には、重宝される屏風絵です。
門の中に入って塀を瀬にとった写真です。館はかなりの広さです。右奥に庭園を持つ復原会所があります。左奥にある段になっているものは、建物跡を平面展示したものです。平面展示の建物は3棟あり、それぞれ「台所」、「対屋」(台所の付属建物)、「常御殿」(館の主が普段寝起きする場)と言われています。それぞれの建物は渡り廊下で結ばれていました。整備に関する予算の都合上、3棟の建物は復原できなかったそうです。残念。ちなみに、館の主人の居館は、もっと山の近いところにあったのでは?と言われているそうです(上記写真のもっと奥)。しかし、現在生活道路が通っていること、民有地であり民家があることから発掘調査は難しそうです(職員さん談)。
訪れたのが10月6日(月)と平日。だから私たち以外に一般の客はいませんでした。ただ、飛騨市の市議会議員の方々が研修に来ていました。作業服を着ている女性の方が学芸員資格をもっているらしく詳しく説明をしていました。時間があればゆっくりと聞いていたけど、学芸員の話は超長い!最後まで話を聞いていると次の史跡に見に行けなくなる。ということで、私と武藤さんは職員さんに案内してもらいました。
さて、この江馬氏館がある飛騨市神岡町は本当に遠い。富山からは車で1時間以上、最寄のJRの駅「飛騨古川駅」からもバスで50分。山間にある閑静な町だが、いかんせん交通の便が悪い。しかし、その交通の不便さを置いておいても、この江馬氏館の会所建物と庭園は見る価値があります。室町文化を体感する上でも、ぜひ行って置きたい史跡です。
「江馬氏館庭園」
10月上旬に岐阜県飛騨市の史跡公園「江馬氏館跡公園」に、歴友(歴史友だち)の武藤舜秀氏と行ってきましたので、その様子を報告します。園内をを周る時に、公園の職員さんが案内してくれました。案内してくれたこの職員さんは単なる職員ならず。館の会所建物の復原を担当していた大工さんだったのです。会所の説明など楽しく聞くことができました。
江馬氏は室町時代に活躍した飛騨の在地領主で、室町幕府の御家人であったと言われています。14世紀末頃に創建されたと思われるこの江馬氏の館の構造は、実に室町幕府の将軍の「花の御所」とそっくりにできています。江馬氏が京都風に作らせたためでしょう。
復原された江馬氏館の会所から復原庭園を眺めると、このようにとても美しい姿が目の前に広がります。中世の庭園は座って眺める「座観」が基本です。この写真も座った状態で撮りました。
写真をみるとところどころに水が溜まっていますが、水が溜まっていない箇所もあります。江馬氏館庭園は排水施設がみつからなかったそうで、基本的に池の構造を持っていないと考えられます(水が溜まることを想定していない)。しかし、雨が降った時には水が溜まって池ができる(水溜りができる)という、晴れと雨で違った景色が楽しめる庭園です。中世の庭園には、排水施設を持った水が循環する池がある庭園(室町前期に多い庭園タイプ)と、池がなく石で水の流れを表現する枯山水庭園(室町後期に多い庭園タイプ)とがあるが、江馬氏館のような庭園は珍しいと思いました。また、庭園跡には木の根の跡が見つかっておらず、樹木を植えないで、石組み中心の庭園となっていると、江馬氏の発掘調査のパンフレットに書いてありました。
この江馬氏の館庭園は1976(昭和51)年の土地改良工事に先立つ発掘調査で発見されました。元々この地には水田がありましたが、大きな石が5つもあり「五ヶ石」(ごかいし)と呼ばれ、耕作の邪魔ながらも廃棄せず、地元住民も「江馬の殿様の庭の石である」と言い伝えていたと言われています。1994(平成6)年に発掘調査再開、2000(平成12)年から館と庭園の復原工事開始し、2007(平成19)年10月に館の会所建物が完成し、史跡公園「江馬氏館跡公園」としてオープンしたのです。発掘調査開始からおよそ30年の月日。遺跡の整備・復原には長い時間がかかると痛感させられます(七尾城の整備・復原は如何に…)。写真にも大きな石が写っていますが、こういった石も農耕で倒されたり、割れたりしたらしい(職員さん談)。それらを合わせるように復原するのも大変な苦労だったことでしょう。
江馬氏館の会所では主人の居間など細部もかなり復原しています。また、史跡公園を身近に感じてもらうため、住民イベントなんかでも貸し出しOKだそうです(もちろん有料)。
襖の欄干は鉄?と思いきや実は漆塗りの木。輪島の漆だそうです。これも館の発掘調査で見つかったから復原したそうです。う~ん、ずいぶん豪勢な会所だ…。こういうところを見逃すともったいないですよね。職員さんの話は本当に貴重でありがたい。
江馬氏館の発掘調査では珠洲焼が結構出土しています。内陸の飛騨神岡に珠洲焼が流通しているのは川をつたって日本海まで来ているということでしょうか。このあたりの川は確かに太平洋との分水嶺の前なので、川の流れは日本海側に流れています。そういえば、1546(天文15)年に岐阜県大野郡丹生川村(現在は合併して高山市)の千光寺に中居の鋳物師が訪れて梵鐘を鋳造している記録があるので、飛騨と北陸の経済的つながりはかなりあったのかもしれません。そう考えると珠洲焼があることも不思議ではないですね。
館の周りは薬研堀(堀の断面が器の形状に似ている事)の空堀があります。
上記2つの写真をみると、2つの門があるのがわかるでしょうか(2つ上の写真)。手前が脇門で奥が主門と言われています(両方とも堀が途切れて通路がありますね)。この違いは、柱にあります。脇門は間口が約2.7mの掘立柱建ち(ほったてばしらたち)で、主門が間口4.2mの礎石建ち(そせきだち)です。脇門の方が間口が狭いことは言うまでもありませんし、さらに柱も太くない。すなわち大きな門ではなかったことが想起できます。一方主門は間口が広いだけでなく、礎石があるということは、柱も太いはずで、すなわち立派で大きな門があったと想起できるわけです(1つ上の写真)門の復原は京都の「洛中洛外図屏風」を参考にしたと言われます。一乗谷朝倉氏遺跡もそうでしたが、室町時代の建物復原には、重宝される屏風絵です。
門の中に入って塀を瀬にとった写真です。館はかなりの広さです。右奥に庭園を持つ復原会所があります。左奥にある段になっているものは、建物跡を平面展示したものです。平面展示の建物は3棟あり、それぞれ「台所」、「対屋」(台所の付属建物)、「常御殿」(館の主が普段寝起きする場)と言われています。それぞれの建物は渡り廊下で結ばれていました。整備に関する予算の都合上、3棟の建物は復原できなかったそうです。残念。ちなみに、館の主人の居館は、もっと山の近いところにあったのでは?と言われているそうです(上記写真のもっと奥)。しかし、現在生活道路が通っていること、民有地であり民家があることから発掘調査は難しそうです(職員さん談)。
訪れたのが10月6日(月)と平日。だから私たち以外に一般の客はいませんでした。ただ、飛騨市の市議会議員の方々が研修に来ていました。作業服を着ている女性の方が学芸員資格をもっているらしく詳しく説明をしていました。時間があればゆっくりと聞いていたけど、学芸員の話は超長い!最後まで話を聞いていると次の史跡に見に行けなくなる。ということで、私と武藤さんは職員さんに案内してもらいました。
さて、この江馬氏館がある飛騨市神岡町は本当に遠い。富山からは車で1時間以上、最寄のJRの駅「飛騨古川駅」からもバスで50分。山間にある閑静な町だが、いかんせん交通の便が悪い。しかし、その交通の不便さを置いておいても、この江馬氏館の会所建物と庭園は見る価値があります。室町文化を体感する上でも、ぜひ行って置きたい史跡です。