畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

中央集権と地方分権の歴史的経緯

2012-02-18 21:12:00 | 歴史
 室町時代。戦国大名がたくさんいた時代。幕府も遠国には放任政策を、関東公方という幕府の機関ですら将軍の思うようにならなかった。室町幕府の将軍の中で一番有名な足利義満も有力守護大名を挿げ替えるのではなく、策略をもって討伐する状態。6代将軍足利義教は頻繁に守護を換えていたようなイメージがあるが、これも守護として地元から支持される人物を選んだ結果。そういう意味では完全な地方分権の時代。


 江戸時代も大名がそれぞれ統治している時代で、これもある意味地方分権といえる。ただし、室町幕府と違い江戸幕府は大名の転封を命じることができた。だからやや中央集権的な地方分権ともいえる。現在のアメリカ合衆国に近いのかも。それでも、江戸幕府の後半は転封させることがめっきり減った。政策的に減らした(浪人を減らすため)のもあるが、天保の改革で上知令が実施されずに撤回されたのを考えると、幕府の権力が後半は衰えていると思える。


 明治時代は完全な中央集権。県令や府知事は政府による任命制。内閣総理大臣も天皇による任命制。1890年代以降帝国議会ができて地方代表が国政に関われるようになったけど、超然内閣が叫ばれたり、首相の辞任が「天皇の信任を失った」(田中義一首相)であったりとやはり中央集権であった。


 現代はどうだろう?中央集権であって地方分権を目指すと言われる。県の土木工事を霞が関が握っていたり、河川行政も国土交通省の言いなり。そういう意味では中央集権と言えるかもしれない。でも、見方を換えれば非常に地方分権的な性格を秘めている。それは国会議員の選出の仕方。

 内閣支持率が低減し1年で首相が交代するという事態が、安倍・福田・麻生・鳩山・菅ともう5年も続けている。どの内閣も最後は低支持率で内閣総辞職を余儀なくされた(麻生は解散に打って出たのであるが…似たようなケースと分類できる)。国民に信頼されなくなった首相だから当然次の選挙では落選すべき人物であると思えるが、不思議と安倍も福田も麻生も当選した(鳩山・菅は次の選挙でどうなるかわからないが…落選しない可能性も大いにありうる)。どうして、国民に人気にない者が国会議員になれるのか。

 それは選挙システムにある。現在の衆議院選挙なら小選挙区単位で人気があれば普通に当選できる。小選挙区の半分の有権者しか投票しない。しかもその投票する人の過半数の得票を得られれば当選できる。つまり小選挙区の有権者の1/4の票でOKと言える。無名な候補を破るのは簡単に利権を誘導すればできるだろう。

 逆に言えば、どんなに国のためになることでも、消費増税や高齢者医療のカット、地元の公共事業削減など不評な政策を実施すれば落選する危険性がある。だからこそ、国家の財政再建問題は棚上げし、どんどん歳出を拡大する政策を打ち出してしまう。だからこそ、国政(あるいは首相として)どんなに失敗しても地元の利益誘導さえできればその国会議員が職を失うことはない。小さい器の国会議員が増える下地ともいえるかも。


 一方北朝鮮はどうだろうか。国政レベルで失敗すると、将軍様から粛清される。ある意味国家に対して責任があり緊張感を持って政治を行っているのかもしれない。


 ひょっとしたら、日本も天皇に権力を集中すべきなのかもしれない。古代ギリシアで、民主主義は「衆愚政治」であるいう学者がいた。高校生の時の私は「多数決で決める政治が一番いい」と信じ切っていた。それは違う。本当の理想政治は「超人による独裁政治」(超人:私見を超えた理想的人物)という。確かに超人による独裁政治なんてありえないけど、それが一番庶民にとって理想の政治なのかもしれない。それがもし実現したとしても、超人に甘えて庶民がまったく政治に無関心になり、その隙を奸臣がついて悪い政治を始めるのかもしれない。そう、第二次世界大戦を始める前の日本のように…