復元街並みの町家群を抜けると、武家屋敷遺構があった。
この武家屋敷はかなりの広さなので、ここも上級武家屋敷のようである。ここは大きな主殿の遺構が見つかっているので平面展示されている。ぜひ遺構が見つかった屋敷を復元展示して体感できるようにしてほしい。
町並み復元の最後には、医療機関とみられる医者宅跡があった。この跡では調剤器具や調剤した薬品の跡がみつかった。この医者は相当もうかったのであろうか。かなり宅も広かった。他の史跡でも中国の元の時代である『湯液本草』の写本が発見されるなど、医薬の知識も高い水準であったことが推測される。平和で大規模な一乗谷の町だからこそ、発展したといえよう。
ここで有料の復元街並みは終わり。南側の出入口です。
チケットを持っていればその日は再入場無料。再び戻ってもう一度復元街並みを楽しんでも良いし、川を渡って反対側の景色を堪能するのも良いでしょう。
出口には、定番のみやげ物屋&食べ物屋もあります。2008(平成20)年に行った時は、武藤様と一緒に昼食で「越前朝倉そば」を食べる。武藤様曰く「やはりここは戦国そばでなければ!」。福井は「おろしそば」が名物でおいしく頂いた。お土産に朝倉戦国大名饅頭も購入した。
さて、次は川を渡って、まずは一乗谷の町の南口の上城戸へ行く。
上城戸は城の南口の出入口である。後ろに見えるのは一乗谷小学校の5・6年生が、総合の時間に郷土学習の一環として「これを読めば朝倉氏遺跡博士に!?」という冊子を作ってたようで博物館に置いてありました。
上記の地図を見ると、上城戸の両脇の山が迫っている。この上城戸の長さは105mあったそうで、自然の力を利用した城門であり一乗谷の町の南側の防御を図ったそうだ。
上城戸の土塁から北側を見た写真である。遠くに復元街並みの南側出入口が見える。現在はただの平坦地が広がっているが、発掘調査でこのあたりに町屋跡や道路跡が見つかり、上城戸のすぐ近くまで町が発展していたようだ。
一乗谷川を渡り反対側の諏訪館庭園を目指す。
この川は今はさほど水量が無いように見えるが、往事は船が行き来できるだけの水量があったようだ。一乗谷の北口には川湊もあり、きっと町内の交通(物資運搬)としても使用されていたと思う。
2008(平成20)年当時には諏訪館庭園跡の隣ではなにやらブルーのシートがあり発掘調査中のようだ。一乗谷史跡の発掘調査が始まったのが1967(昭和42)年からだが、復元史跡が完成するなど一応の成果をみせた現在でも発掘調査を行っているのが、今での研究が盛んになっている理由なのであろう。
七尾城跡も2020(令和2)年から発掘調査を行っている。地道な調査がさらなる研究を発展させることは間違いない。さて、こちらの遺構はなにやら側溝のような石組みの跡が。ここにはどんな館が建っていたのだろう。
諏訪館庭園跡。ここは、朝倉氏5代当主・義景の夫人の小少将のために作った館であると言われる。この一乗谷史跡の中で一番大きい庭園だ。1967(昭和42)年に復元整備されて、1991(平成3)年に導水路が整備されて水の流れる往時の景観が再現たという。朽木庭園もよかったが、これはまた規模大きく違うし、落差も大きく滝を表現したと考えられる水が落ちる風景がすばらしい。心なごむ。庭園跡もただ発掘するだけでなく、水の流れを復元して再現するという方法もあるなあと納得。近江京極氏の庭園である上平寺庭園もこのように復元すればいいのに…と思ったりする。
それにしても、この一乗谷史跡を訪れて改めて室町・戦国時代における庭園造営について考えさせられた。それまでは、庭園=高い文化水準+高い経済力ということくらいにしか考えなかったが、実際の庭園跡に接し、この庭園はなんのために作られたのか、それが重要なのではないかと考えるようになった。例え庭園主が趣味で作ったとしても、多くの人にその庭園を見てもらいたいと考えるのが普通である。ならば、その庭園には多数の来客があったことが推測される。庭園だけ独立して存在するというのはありえないので、庭園の周辺の館には建物が存在し、その建物から見られることを意識して作庭が行われる。ということは客人はその建物のどこから入って来たのか、間取りを考えても楽しい。復元史跡や庭園跡を訪れるとまるで、戦国時代の人の息遣いが聞こえてくるかのような迫力がある。ここでもまた現地調査(フィールドワーク)の大切さを感じたのである。
さて、次は越前朝倉氏一乗谷史跡のメインとなる場所。朝倉氏館に行く。
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