畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

朝倉氏一乗谷遺跡-町屋敷(2023)-

2023-08-12 16:51:03 | 鉄道

次に復元街並みの町家群に行く。
 中世史を語る上で忘れられがちな視点。それが庶民の力である。私も最初のころは、政治史だけで物事を捉えていて、それゆえに見落とすところが多々あった。政治は経済なくして考えられない。そしてその経済を支えているのは一般の庶民である。この一乗谷史跡の復元では、中世の町並みが体感できる貴重な場所だ。


 まずこの町並みをみて感心するのは、道路に石組みの側溝があること。武家屋敷に町屋敷にも各戸に井戸があり、上水と排水がよく考えられている町並みである。また、建物にある窓の突き上げ戸も、それに伴う金具などが発掘されており、当時実際にあった光景といえる。


 この屋敷は上記「染」の文字が書かれている店の中。大きな甕跡が何個も発掘されたことから、おそらく紺屋(染物屋)ではなかったかとされている。


 これは町屋敷にある商家の1つ。ちなみに、この家が陶磁器を売っているのも、再現にあたって考察された上のことのようである。紺屋の写真と同じように土間が建物の約半分を占めているので板の間のスペースは小さい。しかもその床のあるスペースも2/3が店舗に使われてしまっているからさらにプライベートスペースは小さい。都市であるがゆえに家の狭さなのか、それともこの時代だからこそ、こんな広さなのかしれないが、ひょっとすると今も昔も狭い家に住む日本人の住宅事情はあまり変わらないのかもしれない。


 町屋敷の裏手にも小さなスペースがある。ここは厠(トイレ)などがあったり、小さな物置き場などがある。やはり当時も、限られたスペースで快適に暮らすために置く物や間取りを工夫したのであろう。また、家と家を区切る茅があり、明確な敷地が分かれていたことが示されている。

こちらのスペースは竹垣がある。柱跡や礎石がない場合は、茅や竹垣のようなもので区切っていたのではないかと遺構調査の考察から考えられた物なのであろうと思う。


 この側溝の石は発掘された本物を露出展示している。本物を使ったからこそ国の指定史跡になったと言う。室町時代の住民が歩いていた空間と同じ空間を平成時代に歩く。なんとも考え深いものである。この道路の側溝があるからこそ、大雨でも床下浸水を防げる。また、大通りが直線でなく曲がっていたり、建物で直角な角があるのも、侵入者にたやすく町を占領されないための工夫であると言う。戦乱の多い室町時代らしい工夫である。

 ここで復元街並みは終わり。復元街並み南側の出入口に向かう。


一乗谷朝倉史跡~復元武家屋敷群(2023)~

2023-08-12 15:59:20 | 鉄道


 次に「一乗谷朝倉氏遺跡-復元武家屋敷・町並み-」に行く。2008(平成20)年に初めてここに来た時には「中世社会を実際に体験できる」とワクワクが止まらなかったのを15年後の2023(令和5)年に思い出した。復元街並みの入館料は大人1名330円(2023年8月現在)である。


入口にある展示室には、復元街並みを作るにあたって先に作ったジオラマがある。この風景画が実際に見られるとは、本当に貴重な中世史跡である。ちなみにこの日の福井の気温は35℃にも登り入口で休憩してから回ることにした。

御抹茶を頂く。スタッフの方が「茶碗は一乗谷遺跡から出土した天目茶碗をイメージしたものなんですよ。ちなみにお茶菓子も朝倉の家紋入りです。」と。こういうところのこだわりを感じる。おいしいお抹茶で体力を回復させて、いよいよ復元街並みへ。

復元武家屋敷のメインストリート。石垣を含む土壁が雰囲気を感じさせる。周囲に高い建物もなく、本当に室町時代へタイムスリップしたかのような雰囲気である。

 最初に中級武家の復元武家屋敷へ。この門は地面に2本の柱を立てた「棟門」である。


 まず入った武家屋敷。一乗谷の家々をみるとまず感心するのが井戸。どんな小さな家にも井戸がある。人間の生活の基本となる水が意識された計画的な町造りをしているんだなと感心。


 門を入って右側。便所があった。今の和式便器と同じように「金隠し」が設置されている。これは想像復元ではなく、金隠し自体が発掘されているのである。これも文献だけでなく発掘調査を見ないとわからないことだなあ、と現代と同じような景色のトイレをみてまた感心した。

次に中級武家屋敷の主殿を見る。

 武家屋敷の主殿では武士の像が将棋をしている様子がみられた。将棋の駒も一乗谷から発掘されている。将棋から先の手を思考することを学んだのだろうか。

今の将棋にはない「酔像(すいぞう)」という駒があった。2008(平成20)年の時には「駒の動かし方は不明である」と展示に書いてあったが、全国の例で駒の動かし方について発見があったらしい。また離れ座敷には茶道具もあった。七尾でも香道が盛んだったようで、中世のある程度発展した町では共通のアイテムなのであろう。


 屋敷の台所では調理中であった。上記は2023(令和5)年の写真である。下の2008(平成20)年の写真では包丁を使わないで魚を調理している。

 室町時代は、庶民にも包丁や鍋などが行き渡るようになった時代である。この一乗谷遺跡でも包丁が発掘されているので変更したのであろう。こういうマイナーチェンジもみていて楽しい。


 さて次は平面展示している周りの武家屋敷を覗きます。


 復元武家屋敷の向かい側の「上級武家屋敷」に入る。この門は地面に4本の柱を立てた「薬医門(やくいもん)」である。門の大きさからも上級武士の格式の違いが見て取れる。あれっ?土壁の塀はあるのに建物がない。どうやら、この一帯は復元ではなく、平面展示されているようだ。


 だだっぴろい空間に、土盛などがある。ここが屋敷の敷地と敷地の境界線なんだろう。この空間は柱の跡や建物跡などが平面展示されている。発掘された場所に上にコンクリートなどで固めて屋敷の痕跡を示すものだ。2008(平成20)年の訪問時に一緒に訪れた歴史友達の武藤様が「こんなに敷地が広いのに、なぜ建物の面積がせまいんだろう」という鋭い質問。これにはガイドスタッフが答えてくれた。「田畑などの土地改良工事の時に遺構が失われてしまった。だから、これだけ広大な土地なのに、遺構が発見されなかった。ただ、江戸時代の古地図に屋敷跡と書かれていることから、武家屋敷があったのは確かである」といっていた。

 上記写真は先ほどの「上級武家屋敷」の隣の上級武家屋敷。この武家屋敷は比較的遺構が残っている方ではあった。表面展示もいいが、やっぱり立体感のある復元展示の方が私は好きである。でも、一乗谷のような比較的良好に遺構が残っているとされる地域でも遺構が失われればもはや調査はできない。都市化が進んでいる関東や関西はかなりの遺構が失われているのであろう。

ここで、入口にあった「復元街並みのジオラマ」に戻ろう。

 写真左側中央に「中級武家屋敷」が2件ある。それに対し、写真右側にある「上級武家屋敷」の2件はとくに右下の武家屋敷はかなり広い。遺構としては出土しなかったが、ジオラマのように主殿を含めていくつもの建物があったのであろう。このようなジオラマが訪れた人の想像をかき立てるので、ぜひジオラマを見てから復元街並みを回ることをお勧めする。

次に復元街並みの町家群にいく。


朝倉氏一乗谷遺跡~博物館(2023)~

2023-08-12 14:16:43 | 歴史

 

2022(令和4)年10月1日に、「一乗谷朝倉氏遺跡博物館」が開館した。その博物館にどうしても訪問したくて2023(令和5)年8月に訪問してきた。2008(平成20)年の訪問記と合体させて、2023年Verとして訪問記を記す。

2008(平成20)年には歴史友達の武藤様とご一緒して訪問。2023(令和5)年は我が正室と訪問。

一乗谷朝倉氏遺跡は1967(昭和42)年から発掘調査が行われた。1971(昭和46)年には一乗谷城を含む278haが国の特別史跡に指定された。

 上記写真には、新しい博物館である「一乗谷朝倉氏遺跡博物館」(左)と、旧「一乗谷朝倉氏遺跡資料館」(右)がある。現在の旧資料館は、博物館の分館として「公開書庫・収蔵展示」や講堂などがある。

 上記写真は2008(平成20)年当時の「一乗谷朝倉氏遺跡資料館」である。当時は入館料が100円だったが、現在の「一乗谷朝倉氏遺跡博物館」の入館料は700円である。しかし値段にあった展示がある。

 まず1つ目が、この「遺構展示室」である。博物館の建設に伴う事前発掘調査で見つかった石敷遺構をそのまま展示している。この博物館は一乗谷町の玄関である下城戸の外にある。このような屋内の露出展示(発掘された遺構をそのまま展示)は平城京の遺構資料館で見られるものと同じである。

 2つ目は、充実した基本展示である。

写真は城下町のジオラマである。実物の1/30で作られており、低い所から写真を撮れば下の写真のように、当時の目線を感じ取れる。さらに手前のモニターではストリートビューのように360°視点で見られる資料もあり、ジオラマをふんだんに活用した展示が面白い。その他にも遺跡の出土品や、古文書資料などの展示もあり、朝倉氏と一乗谷の歴史を詳しく感じられる。古文書などだけの文書史料でも貴重なのに、これほど豊かな遺構や遺跡が出てくる中世遺跡はない。それゆえ、中世史跡でも最先端の発掘調査史跡と言える。

3つ目は、充実した義景館の部分再現である。

屋内に館の全てを再現するのは不可能であるので、部分再現になっている。安土城も部分復元されていて資料館に展示されているが、それと似たような展示の仕方である。

上記写真は義景館の内の中庭にあった花壇の再現である。

上記写真は義景館の会所である。この会所から花壇が見える設計になっている。ここには15代将軍になった足利義昭も訪れて、花壇を愛でていたのであろう。

写真中央が花壇。左側の建物が会所。そして屋内通路で続く場所が主殿である。

池庭は小座敷と泉殿に隣接している。会所で会う前に待たせる人を案内した場所だろうか。

これが義景館の全景模型である。義景館については別稿で述べるが、平面展示の館跡をこのように復元展示で見られることは実に中世の想像を豊かにしてくれる良い資料である。

そして4つ目が充実した企画展と刊行物である。

私が訪れた2023(令和5)年8月は「開館1周年記念 朝倉義景没後450年記念特別展 朝倉義景の一生~列島を俯瞰する外交戦略~」という企画展を行っていた。

 企画展を行うと、その展示内容の図録をちゃんと刊行物として販売する。そして旧「一乗谷朝倉氏遺跡資料館」時代から合わせると上記の図録が並ぶ。参考にしたい図録が山ほど存在する。企画展の図録は残部があれば過去の分も販売されるが、すでにこの中の1/3は非売品になっていた。私は15年振りの再訪となったが、再び訪れて欲しい図録を買えてよかった。

 この日は博物館に着いたのが丁度12時だったので、博物館のレストランで昼食。これがまた戦国っぽい豪華なメニューでした。

 このようにお品書きまであると、まるで朝倉氏に歓待された客人のように思えます。ぜひ一度レストランにも立ち寄ってみて!

 一乗谷朝倉氏遺跡博物館の最寄り駅は「JR九頭竜線」の一乗谷駅です。博物館開館にあたってリニューアルされ駅の柵や待合室もキレイになっていました。

ただし、電車の本数が1時間に1本なので電車で行く際には必ず行き帰りの時刻を計算しましょう。ちなみに博物館までは駅から歩いて2分の好立地。


後瀬山城訪問記

2023-08-12 07:31:48 | 歴史

  今回は若狭武田氏の城である後瀬山城(のちせやまじょう)を紹介します。

後瀬山城は1522(大永2)年に若狭武田氏5代の武田元光によって築かれました。能登畠山家7代当主・畠山義総が七尾府中にある守護所から七尾城山へ居館を移したのが1526(大永6)年頃と若狭武田氏とほぼおなじ時期に行っています。そう考えると、能登畠山氏と若狭武田氏には様々な共通点が見られます。守護大名から戦国大名になろうとしている。幕府への積極的な関わり、文芸に深い関わりなどなど、後瀬山城を見ることが七尾城への見識にもつながると思い登城して参りました。

愛宕神社の駐車城に車を駐めて後瀬山遊歩道を登ります。

 最初からかなりハードな石段が見えます。

 

鳥居のすぐ横に「史跡後瀬山城跡」の看板があります。私はここでパンフレットを取り忘れました。あとで写真を見てみるとしっかりポストが右下に見えます。いくら史跡にワクワクしてもパンフレットの入手を忘れると後悔します。みなさんはお取り忘れないよう。

階段がある場所は歩きやすいですが、傾斜が急でかなりの崖が続くので、防御施設としての後瀬山城はかなり堅固だと思います。

5分登っただけでもうこの景色。でもまだまだ先が続きます。本丸まであと20分。

階段がない場所も多数あります。そういう場所は落ち葉がけっこう多く滑りやすいです。雨の日の登城は厳しいかも知れません。

 右手側に曲輪群が見えてきました。左手側は崖で、3重の曲輪が行く手を遮ります。木が多いのであまり曲輪を撮った写真をみても平坦面に見えませんが、かなり防御が固い城だと思いました。

 3重の曲輪群が見えていよいよ本丸か・・・

本丸へ続くさらなる曲輪群が侵攻者を遮ります。

このあたりの土塁はかなり見応えがあります。先ほどの3重曲輪群といい、かなりの防御力を誇っています。

下に見ても通路の高さに対して曲輪の高低差がくっきりとわかります。往事はもっと造営して高低差もあることを考えるとなかなか見応えのある城郭です。ただし、平時の拠点は麓の守護居館だったようで七後瀬山城はあくまで防衛の拠点です。曲輪自体も生活拠点となるほど大きなものはありません。そこが七尾城との違いでもあります。

 写真は本丸に接続する曲輪への枡形です。まるで門まで見えてきそうなぐらいハッキリ分かる形です。枡形の中に大きな石が見えます。石垣なのか礎石なのか気になるところです。この当たりから本丸にかけて大きな石がたくさん見受けられます。後瀬山城は若狭武田氏が滅亡した後は、丹羽長秀や浅野長政、木下勝俊が入城して城主になっています。関ヶ原の戦い以降に入部した京極高次によって小浜城に移り廃城になったと言われます。なので、この枡形や石垣は丹羽などの安土桃山期に造成された可能性もあります。

 さて枡形から曲輪に上がると真っ先に目立つのが窪みです。これはため池でしょうか?

広い曲輪の中心には火起こしの後が。地元のイベントでも使われているのでしょう。さて、本丸まであと8分。さらに登ります。

ピンぼけしている写真ですが、大きな石があります。これは石垣に使われた写真でしょうか?

後瀬山城は本丸が168mの場所にあります。本丸からは眺望がよくなかったので、本丸手前のこの曲輪から良い景色が見えました。

いよいよ本丸が見えてきました。本丸には大きな石が使われている石垣が見えます。

この規模だとことは安土桃山期の城主が整備したものでしょうか。本丸前に四菱の旗があり武田氏家紋があるのが嬉しいです。七尾城にも二引両の家紋の旗がたくさんほしいなあ。

本丸に到着しました。武田城址の石碑と、休憩所と愛宕神社の建物があります。それからけっこうしっかりした石垣がありますが、これは主殿と他の建物を隔てるための壁の基礎だと思います。

休憩所にある看板に、二ノ丸の山上御殿のイメージ図がありました。二ノ丸は本丸と同じ平坦面の面積があるそうですが、下の写真を見てもわかる通り、降りる場所が見当たりません。

そこでこの崖の下の写真をアップにした写真があります。例によってブレていますが・・・

本丸よりさらに大きな石がゴロゴロしていました。これは武田氏より後に入城した丹羽長秀や浅野長政、木下勝俊らが造成したもののようです。今後この二ノ丸まで行けるようにしてほしいなと思います。

山上御殿は1988(昭和63)年に発掘調査されています。この後瀬山城入口の看板の写真をみると石敷もみえますので、結構しっかり整備していたことがうかがえます。

こちらの写真は後瀬山城の麓にある空印寺です。うしろにある山が後瀬山です。この寺は若狭武田氏の居館跡に建てられたものだそうです。

この広い平坦面が、武田氏の守護居館跡地です。

この空き地はかつて、この設置された看板によると小浜小学校の跡地だそうです。空印寺を含めて居館跡だったようです。堀に囲まれた一辺100mほどの大きな居館があり、武田氏の政治の中心になっていたようです。

 この空き地は史跡公園として整備される予定だそうです。堀はこのイメージ図を見ると、水が張ってあり石垣もあったようです。土塁に囲まれたところに唐門がありますが、このイメージ図をみると朝倉氏一乗谷史跡の義景館の門を参考にしているようですね。早く整備してほしいなあと思いますが、このイメージを見ると主殿や会所などは発掘されていたのかな・・・と思います。きっと建物群は今の空印寺の部分にあったのかなと思います。

次に「福井県立若狭歴史博物館」に行きました。後瀬山城から車で7分ほどの距離です。若狭全体に関する博物館なので、若狭武田氏がメインではありませんが、常設展でも中世の事や武田氏の事もちゃんと取り上げています。

しかし、このような企画展も度々催しているのでぜひ寄ってほしい施設です。若狭武田氏は、京都に近く室町幕府ともかなりの関わりがあります。その点で能登畠山氏との共通点も多く、非常に参考になります。