畠山義綱のきままな能登ブログ

畠山義綱が見てきた史跡を紹介します。
時々、経済や政治などもつぶやきます。

朝倉氏一乗谷遺跡~西山光照寺・下城戸~

2023-08-12 19:51:35 | 歴史

一乗谷の町の外にある「西山光照寺」を訪れます。

 この寺院の台座が石垣でしっかりと作られている。おそらく発掘調査を基に石垣を復元したのだろう。道路の横にある白いアスファルトは中世当時の通路が発見された場所のようだ。

 西山光照寺はこの時代隆盛を極めた天台宗真盛派の大寺院だった。この寺院は朝倉一族の争いに敗れた鳥羽将景(朝倉孝景の叔父)の菩提を弔うために建てられ、盛舜上人によって再興されたと伝えられる。境内だった場所に至るところには大きな石組みの水路もあり、写真の場所はかなり大規模な山門があったと思われ、寺がかなりの規模であったことが物語られる。そしてこの写真の背後には、40体の大きな石仏が向かい合っている。

石仏の前は大きな池であったようだ。一乗谷史跡には石仏が多く存在する。故人の供養のために造られたと考えられ、戒名や生没年月日が記されたものも多くあると言う。一乗谷は町の外まで施設があり、かなり平和的に発展していたと考えられる。

 

次に、一乗谷の町の北出入口である下城戸。

下記写真は「下城戸」といって、一乗谷の町に入る門である。

 中世史跡は近世の城下町と違い戦乱の世のため防戦意識が高い。そこで、メインストリートも曲がっていたり、このように門の存在もある。その門の外に博物館の遺構展示室にあった石敷遺構があり、おそらく川湊として使われたものだとしている。外部から入ってくる人を直接一乗谷の町に入れない工夫なのだろう。

下城戸から少し南に入ったところ。現在の道路の下に往事の通路の遺構が見て取れる。ここにも側溝が見え、下城戸からすぐ近くの町の外れではあるが、しっかりと町が整備されていたことがうかがわれる。

町割りもしっかりとされているようで、一乗谷の発展振りがここでもうかがわれる。

この建物からは甕の跡が大量に発掘されている。これは町家群のような紺屋なのか、それとも食料倉庫だったのだろうか。

すこしずつ南に向かいます。

石組みの壁に側溝をまたぐ石段。これは誰かの屋敷なのだろうか。

かなり大きい石が使われているし、規模が大きい。ここはなにがあったのだろうか…と思うとちゃんと説明する看板があった。

この地区からは、複数の墓地跡や五輪塔があったことから寺院であったと推測された。しかも字(あざ)という住所が「雲正寺(うんしょうじ)」という名前であったことから、墓地跡から広がる雲正寺という寺院があったと想定されたと言う。何も文書がなくてもここまでわかるのだから、発掘調査に加えて、地元の伝承だとか地名って大事なんだと改めて認識した。

 では次に復元街並みの北側出入口に向かいましょう。


朝倉氏一乗谷史跡~義景館(2023)~

2023-08-12 19:13:45 | 鉄道

一乗谷史跡で最大規模の館。それが朝倉氏5代当主・義景の館である。


 土塁や濠を含めた敷地面積は10,628m2にも及ぶという。この館の外濠から荷札と思われる木簡が発見され、そのために義景館だとわかったのである。この上の写真は館背後にある山から撮影したものであるが、ここからでも義景館の広大さがよくわかる。写真の左下にあるガラス板は、館内の花壇や池庭を間近で見るための設備である。


 別稿で諏訪館庭園を紹介したが、この義景館にも東側山裾に庭園が発掘されている。庭園は大内氏館、大友氏館、朽木氏館、京極氏館、江間氏館などでも発見されているが、朝倉氏の庭園は素人目にもわかりやすいほど、文化水準の高さを感じる庭園になっている。発掘調査の成果とも言えるが、やはり100年もの安定した朝倉氏の治世が安定していたことによるだろう。

この池庭を再現したのが、博物館のこちらの写真である。こう見ると間近に屋敷があり、そこから眺める景色であったことがよくわかる。


池庭の上には水路がつながっていた。池庭には常に水が張ってあったのだろう。その導線も含めてかなり考えられた館である。



 次に館の中庭にある上記写真の草陰。これは庭園跡にある花壇跡。現存する日本唯一で最古のものであるらしい。

この花壇を再現したのが、博物館のこちらの写真である。写真は会所の縁側から撮ったものである。会所の来客が必ず見る眺め。朝倉氏が豊かな生活をしていたことだけでなく、客人をもてなす心もあった。そして、客人に文化水準の差を見せつけることにもなったと想定できる。

 館跡には2008(平成20)年にはなかった義景公墓所があった。この礼拝堂は2012(平成24)年に作られたそうだ。博物館の新設もそうだが、地道な発掘調査が研究推進を産み、ここまで中世遺跡を地元で盛り上げる結果となったことが本当に頭が下がる思いだ。


 敷地全体は広いが、建物は少し東方向に偏っている。これは、徐々に改築・増築されたものではないか(特に足利義昭下向時)といわれる。主殿・会所・台所・厩などなど、これが大名屋敷の規模なのだと考えると、能登畠山氏の七尾城の居館にもこのようなものがあったのだろう…と想像するだけでも楽しい。

 戦国大名の屋敷がこれほど詳しく発掘された例はないのではなかろうか。しかし、平面展示だけではなかなかイメージできない。そこで、一乗谷朝倉遺跡博物館に模型と一部復元がある。

 そういえば、この義景館は2007(平成19)年のNHK大河ドラマ「山本勘介」で使われた武田信玄の館のセットのつくりと似ている(山梨県北杜市にある風林火山館)。きっと参考にしたんだろうなぁ。この模型をみると、建物の密集度はかなりあるが、勝沼氏館のように「ハレ」(もてなしの空間)と「ケ」(生活の空間)の空間に分かれていることがわかる。



 義景の館の門は、当時のものを復元したものではない。松雲院の山門が移築されているといい、現在のものは江戸時代中頃に建てかえられたものだ。よく見ると、土塁と同じ高さであるし、門も大名屋敷にしては間口が狭い。平面復元もいいが、この義景館は復元されないのだろうか。大名屋敷をこの目で体感したいものだ。


倉氏一乗谷史跡-町並み復元~諏訪舘庭園(2023)-

2023-08-12 17:13:40 | 鉄道

復元街並みの町家群を抜けると、武家屋敷遺構があった。

 この武家屋敷はかなりの広さなので、ここも上級武家屋敷のようである。ここは大きな主殿の遺構が見つかっているので平面展示されている。ぜひ遺構が見つかった屋敷を復元展示して体感できるようにしてほしい。


 町並み復元の最後には、医療機関とみられる医者宅跡があった。この跡では調剤器具や調剤した薬品の跡がみつかった。この医者は相当もうかったのであろうか。かなり宅も広かった。他の史跡でも中国の元の時代である『湯液本草』の写本が発見されるなど、医薬の知識も高い水準であったことが推測される。平和で大規模な一乗谷の町だからこそ、発展したといえよう。

ここで有料の復元街並みは終わり。南側の出入口です。


チケットを持っていればその日は再入場無料。再び戻ってもう一度復元街並みを楽しんでも良いし、川を渡って反対側の景色を堪能するのも良いでしょう。

 出口には、定番のみやげ物屋&食べ物屋もあります。2008(平成20)年に行った時は、武藤様と一緒に昼食で「越前朝倉そば」を食べる。武藤様曰く「やはりここは戦国そばでなければ!」。福井は「おろしそば」が名物でおいしく頂いた。お土産に朝倉戦国大名饅頭も購入した。

 さて、次は川を渡って、まずは一乗谷の町の南口の上城戸へ行く。

上城戸は城の南口の出入口である。後ろに見えるのは一乗谷小学校の5・6年生が、総合の時間に郷土学習の一環として「これを読めば朝倉氏遺跡博士に!?」という冊子を作ってたようで博物館に置いてありました。

上記の地図を見ると、上城戸の両脇の山が迫っている。この上城戸の長さは105mあったそうで、自然の力を利用した城門であり一乗谷の町の南側の防御を図ったそうだ。

 上城戸の土塁から北側を見た写真である。遠くに復元街並みの南側出入口が見える。現在はただの平坦地が広がっているが、発掘調査でこのあたりに町屋跡や道路跡が見つかり、上城戸のすぐ近くまで町が発展していたようだ。

一乗谷川を渡り反対側の諏訪館庭園を目指す。


 この川は今はさほど水量が無いように見えるが、往事は船が行き来できるだけの水量があったようだ。一乗谷の北口には川湊もあり、きっと町内の交通(物資運搬)としても使用されていたと思う。

 2008(平成20)年当時には諏訪館庭園跡の隣ではなにやらブルーのシートがあり発掘調査中のようだ。一乗谷史跡の発掘調査が始まったのが1967(昭和42)年からだが、復元史跡が完成するなど一応の成果をみせた現在でも発掘調査を行っているのが、今での研究が盛んになっている理由なのであろう。

 七尾城跡も2020(令和2)年から発掘調査を行っている。地道な調査がさらなる研究を発展させることは間違いない。さて、こちらの遺構はなにやら側溝のような石組みの跡が。ここにはどんな館が建っていたのだろう。


 諏訪館庭園跡。ここは、朝倉氏5代当主・義景の夫人の小少将のために作った館であると言われる。この一乗谷史跡の中で一番大きい庭園だ。1967(昭和42)年に復元整備されて、1991(平成3)年に導水路が整備されて水の流れる往時の景観が再現たという。朽木庭園もよかったが、これはまた規模大きく違うし、落差も大きく滝を表現したと考えられる水が落ちる風景がすばらしい。心なごむ。庭園跡もただ発掘するだけでなく、水の流れを復元して再現するという方法もあるなあと納得。近江京極氏の庭園である上平寺庭園もこのように復元すればいいのに…と思ったりする。
 それにしても、この一乗谷史跡を訪れて改めて室町・戦国時代における庭園造営について考えさせられた。それまでは、庭園=高い文化水準+高い経済力ということくらいにしか考えなかったが、実際の庭園跡に接し、この庭園はなんのために作られたのか、それが重要なのではないかと考えるようになった。例え庭園主が趣味で作ったとしても、多くの人にその庭園を見てもらいたいと考えるのが普通である。ならば、その庭園には多数の来客があったことが推測される。庭園だけ独立して存在するというのはありえないので、庭園の周辺の館には建物が存在し、その建物から見られることを意識して作庭が行われる。ということは客人はその建物のどこから入って来たのか、間取りを考えても楽しい。復元史跡や庭園跡を訪れるとまるで、戦国時代の人の息遣いが聞こえてくるかのような迫力がある。ここでもまた現地調査(フィールドワーク)の大切さを感じたのである。
 さて、次は越前朝倉氏一乗谷史跡のメインとなる場所。朝倉氏館に行く。


朝倉氏一乗谷遺跡-町屋敷(2023)-

2023-08-12 16:51:03 | 鉄道

次に復元街並みの町家群に行く。
 中世史を語る上で忘れられがちな視点。それが庶民の力である。私も最初のころは、政治史だけで物事を捉えていて、それゆえに見落とすところが多々あった。政治は経済なくして考えられない。そしてその経済を支えているのは一般の庶民である。この一乗谷史跡の復元では、中世の町並みが体感できる貴重な場所だ。


 まずこの町並みをみて感心するのは、道路に石組みの側溝があること。武家屋敷に町屋敷にも各戸に井戸があり、上水と排水がよく考えられている町並みである。また、建物にある窓の突き上げ戸も、それに伴う金具などが発掘されており、当時実際にあった光景といえる。


 この屋敷は上記「染」の文字が書かれている店の中。大きな甕跡が何個も発掘されたことから、おそらく紺屋(染物屋)ではなかったかとされている。


 これは町屋敷にある商家の1つ。ちなみに、この家が陶磁器を売っているのも、再現にあたって考察された上のことのようである。紺屋の写真と同じように土間が建物の約半分を占めているので板の間のスペースは小さい。しかもその床のあるスペースも2/3が店舗に使われてしまっているからさらにプライベートスペースは小さい。都市であるがゆえに家の狭さなのか、それともこの時代だからこそ、こんな広さなのかしれないが、ひょっとすると今も昔も狭い家に住む日本人の住宅事情はあまり変わらないのかもしれない。


 町屋敷の裏手にも小さなスペースがある。ここは厠(トイレ)などがあったり、小さな物置き場などがある。やはり当時も、限られたスペースで快適に暮らすために置く物や間取りを工夫したのであろう。また、家と家を区切る茅があり、明確な敷地が分かれていたことが示されている。

こちらのスペースは竹垣がある。柱跡や礎石がない場合は、茅や竹垣のようなもので区切っていたのではないかと遺構調査の考察から考えられた物なのであろうと思う。


 この側溝の石は発掘された本物を露出展示している。本物を使ったからこそ国の指定史跡になったと言う。室町時代の住民が歩いていた空間と同じ空間を平成時代に歩く。なんとも考え深いものである。この道路の側溝があるからこそ、大雨でも床下浸水を防げる。また、大通りが直線でなく曲がっていたり、建物で直角な角があるのも、侵入者にたやすく町を占領されないための工夫であると言う。戦乱の多い室町時代らしい工夫である。

 ここで復元街並みは終わり。復元街並み南側の出入口に向かう。


一乗谷朝倉史跡~復元武家屋敷群(2023)~

2023-08-12 15:59:20 | 鉄道


 次に「一乗谷朝倉氏遺跡-復元武家屋敷・町並み-」に行く。2008(平成20)年に初めてここに来た時には「中世社会を実際に体験できる」とワクワクが止まらなかったのを15年後の2023(令和5)年に思い出した。復元街並みの入館料は大人1名330円(2023年8月現在)である。


入口にある展示室には、復元街並みを作るにあたって先に作ったジオラマがある。この風景画が実際に見られるとは、本当に貴重な中世史跡である。ちなみにこの日の福井の気温は35℃にも登り入口で休憩してから回ることにした。

御抹茶を頂く。スタッフの方が「茶碗は一乗谷遺跡から出土した天目茶碗をイメージしたものなんですよ。ちなみにお茶菓子も朝倉の家紋入りです。」と。こういうところのこだわりを感じる。おいしいお抹茶で体力を回復させて、いよいよ復元街並みへ。

復元武家屋敷のメインストリート。石垣を含む土壁が雰囲気を感じさせる。周囲に高い建物もなく、本当に室町時代へタイムスリップしたかのような雰囲気である。

 最初に中級武家の復元武家屋敷へ。この門は地面に2本の柱を立てた「棟門」である。


 まず入った武家屋敷。一乗谷の家々をみるとまず感心するのが井戸。どんな小さな家にも井戸がある。人間の生活の基本となる水が意識された計画的な町造りをしているんだなと感心。


 門を入って右側。便所があった。今の和式便器と同じように「金隠し」が設置されている。これは想像復元ではなく、金隠し自体が発掘されているのである。これも文献だけでなく発掘調査を見ないとわからないことだなあ、と現代と同じような景色のトイレをみてまた感心した。

次に中級武家屋敷の主殿を見る。

 武家屋敷の主殿では武士の像が将棋をしている様子がみられた。将棋の駒も一乗谷から発掘されている。将棋から先の手を思考することを学んだのだろうか。

今の将棋にはない「酔像(すいぞう)」という駒があった。2008(平成20)年の時には「駒の動かし方は不明である」と展示に書いてあったが、全国の例で駒の動かし方について発見があったらしい。また離れ座敷には茶道具もあった。七尾でも香道が盛んだったようで、中世のある程度発展した町では共通のアイテムなのであろう。


 屋敷の台所では調理中であった。上記は2023(令和5)年の写真である。下の2008(平成20)年の写真では包丁を使わないで魚を調理している。

 室町時代は、庶民にも包丁や鍋などが行き渡るようになった時代である。この一乗谷遺跡でも包丁が発掘されているので変更したのであろう。こういうマイナーチェンジもみていて楽しい。


 さて次は平面展示している周りの武家屋敷を覗きます。


 復元武家屋敷の向かい側の「上級武家屋敷」に入る。この門は地面に4本の柱を立てた「薬医門(やくいもん)」である。門の大きさからも上級武士の格式の違いが見て取れる。あれっ?土壁の塀はあるのに建物がない。どうやら、この一帯は復元ではなく、平面展示されているようだ。


 だだっぴろい空間に、土盛などがある。ここが屋敷の敷地と敷地の境界線なんだろう。この空間は柱の跡や建物跡などが平面展示されている。発掘された場所に上にコンクリートなどで固めて屋敷の痕跡を示すものだ。2008(平成20)年の訪問時に一緒に訪れた歴史友達の武藤様が「こんなに敷地が広いのに、なぜ建物の面積がせまいんだろう」という鋭い質問。これにはガイドスタッフが答えてくれた。「田畑などの土地改良工事の時に遺構が失われてしまった。だから、これだけ広大な土地なのに、遺構が発見されなかった。ただ、江戸時代の古地図に屋敷跡と書かれていることから、武家屋敷があったのは確かである」といっていた。

 上記写真は先ほどの「上級武家屋敷」の隣の上級武家屋敷。この武家屋敷は比較的遺構が残っている方ではあった。表面展示もいいが、やっぱり立体感のある復元展示の方が私は好きである。でも、一乗谷のような比較的良好に遺構が残っているとされる地域でも遺構が失われればもはや調査はできない。都市化が進んでいる関東や関西はかなりの遺構が失われているのであろう。

ここで、入口にあった「復元街並みのジオラマ」に戻ろう。

 写真左側中央に「中級武家屋敷」が2件ある。それに対し、写真右側にある「上級武家屋敷」の2件はとくに右下の武家屋敷はかなり広い。遺構としては出土しなかったが、ジオラマのように主殿を含めていくつもの建物があったのであろう。このようなジオラマが訪れた人の想像をかき立てるので、ぜひジオラマを見てから復元街並みを回ることをお勧めする。

次に復元街並みの町家群にいく。