ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

翁の異式~父尉延命冠者(その10)

2009-02-06 02:30:30 | 能楽
先にあげました先々代。。つまり初世・梅若万三郎の著書『亀堂閑話』には「父尉延命冠者」の際は大夫が「銀地に錦の狩衣を用ひる」ことを定めとしている事が記されていました。

ところでこの『亀堂閑話』の記事の中で「父尉延命冠者」の上演例として挙げられている「昭和三年、此処(高輪)の舞台披き」の際の写真を前回このブログで紹介致しましたが、じつはもう一つ、装束の面でこの写真を見て頂きたい点があるのです。それが大夫が下に穿いている「指貫」で、このときは白地の指貫を使っておられます。文様は指貫としてはごく一般的な八つ藤文様ですが、白地の指貫というのはあまりご覧になる機会も少ないのではないかと思います。

じつはこの白地の指貫も師家に現存しておりまして、このたびの研能会初会の「父尉延命冠者」でも師匠はこの、昭和三年の「父尉延命冠者」で使われたまったく同じ指貫を使われたのです。昭和三年の高輪能楽堂の舞台披キから数えて昨年が研能会創立八十周年になりますが、八十年を経て上演された「父尉延命冠者」に同じ装束が使われるとは、なんとも感慨深い思いがします。

ぬえがこの指貫に気づいたのは書生時代でして、師家のお装束蔵に所蔵されている装束の中に「白地八つ藤文様指貫」と畳紙に墨書されたお装束があり、さらにその名称の横に昭和三年正月にこの装束が新調されたことが記されているのを見たときでした。白地の指貫は珍しいですし、まして昭和三年という年が記されていることから、さっそく師家の古い上演記録のアルバムを探して確かめてみたところ、これが研能会の原点である高輪能楽堂の舞台披キの催しの、それも冒頭に上演された『翁・父尉延命冠者』の大夫が着用するために新調された指貫そのものであることが判明したのでした。

判明はしたのですが、とくに師匠に報告するわけでもなくその後の年月が流れまして、また師匠も最近は『翁』でこの白地指貫を二度ほど、好んでお使いになっておられました。

で、このたびの「父尉延命冠者」は研能会の原点となる曲の上演ですから、さすがに ぬえも師匠がどのお装束を選ばれるのか、関心がありまして。。で、研能会の申合のあとに行われる装束合わせのときに、いまの書生さんにそっと聞いてみました。「翁の指貫はどれが選ばれた?」。。書生さんの答えは「指貫ですか? ええと。。白地を出しておけと言われました」おお、やっぱり。そうでなくちゃ。

で、見ればたしかにあの指貫が畳紙から出されて、ほかの装束と一緒に並べられています。さすがに ぬえは嬉しくなって、師匠に申し上げました。研能会の原点の高輪能楽堂の舞台披キで「父尉延命冠者」が上演されていること。その上演のためにこの白地指貫が新調されていること。。もう一つ、近来の能楽史の研究成果から意外な発見があって、その意味からもこの指貫が今回の「父尉延命冠者」に使用されることに意味があること。。(この研究成果については後述します)

意外にも師匠はこの白地指貫の来歴をご存じなくて、驚いておられました。まあ、そんなものです。実演者として次々に押し寄せてくるご自身の上演スケジュールと格闘しながら、弟子の稽古もつけ、能楽公演の母体となる研能会を運営する当主としての責任や実務に多忙ですから、こういう歴史的な側面のバックアップは周囲の人間がするべきでしょう。それでも、ぬえの報告より以前に、すでに師匠が今回の「父尉延命冠者」のためにこの指貫を選ばれたことも、なにかの因縁のようなものかもしれません。もちろん最近の『翁』では師匠はしばしばこの白地の指貫を選ばれることが多かったのも事実ではあるのですが。。

でもまた ぬえは違う事を考えました。「父尉延命冠者」の時には初世のお言葉によれば「銀地に錦の狩衣を用ひる」のが定め。そしてそれに関する記述こそないものの、狩衣の下には白地の指貫。。これは「白式」を意味しているのではないか??