さてやがて車を走らせて、気仙沼・松岩の煙雲館に到着しました。この3月にもお邪魔させて頂いたここは、歌人・落合直文の生家であり、伊達藩の家老職にあった鮎貝家の邸宅であり、そして市指定の文化財である庭園を持った、気仙沼有数の名家です。ご当主の文子さんのご厚意によってこの日、能楽ワークショップを開かせて頂くことになりました。
この日はご当主・文子さんのお計らいにより、わざわざ ぬえたちプロジェクトの活動の日にあわせて定例の茶道の集会を開いてくださり、その会員の方に大勢お見え頂きました。そのほか緑さんの活躍により市内のあちこちにポスターを貼って頂いたおかげで多くの市民の方もお出まし頂いたようです。
この日の上演曲は『松風』。被災地では久しぶりの上演曲ですが、なんといっても大変なのは後見で、舞台上での物着(シテの装束を替える)の作業があるのです。このときの活動に先立つ4月の活動で、緑さんに後見の打診をしたところ快諾頂きまして、ぬえから物着の手順を記したメモを郵送したのですが。。
やはり、これほどの大役とは思っていなかったらしい(笑)。いや、事前に説明はしたんですけどもね。
手元にメモが到着したら緑さんから連絡きまして。。「吐きそう。。」ですって。そうかもー(^o^)
とはいえ以前には石巻の雄勝で同じ『松風』を上演したことがありまして、そのときも市民の協力者の方に後見をお願いし、まあ無事に上演することができました。それに気をよくしての今回の上演ですが、「吐きそう」に思うのは、まあ責任感が強いからですよね。おかげさまでミスもなく立派に後見の大役を果たしてくれました。
『松風』上演後はお待ちかね! の体験講座。今回は四拍子のすべてを持参し、面も装束もたくさん持参したのですが、あまり時間がなく、簡単な囃子の体験のほか装束をお一人に着て頂きました。
終了後、例によってお食事のおもてなしを頂きました。文子さんのお孫さんかな、今年の3.11の黙祷のとき、無邪気にはしゃぎ廻っていて、その歓声が ぬえが撮影したビデオにも残されていますが、その子たちとお母さんともしばし歓談。このブログでも紹介しましたが、あの黙祷のときの子どもの歓声は、変なことを言うようですが、とっても良かった。犠牲も大きかったけれど、ちゃんとこの街で子どもたちは明るく育っているのです。その暗澹たる「死」への思いと、現実に「生」を謳歌する子どもたちの歓声は、3年目を迎えるこの時期だからこそ思う、不思議な協調を感じました。
それから能の間に最前列でずっと正座して見ていた小学生~中学生とおぼしき女の子たち。多少足がしびれていた、とはあとで聞いたけれど、彼女たちは茶道を習っているのですって。きちんと端座して舞台に注目している姿はとっても清々しかったです。
この日はプロジェクトとして初めての有料の催しで、おかげさまを持ちまして次回の活動の資金面の問題はクリアできそうです。またお食事会では毎度ながらご馳走を頂きまして。。すいません ぬえ、いつも遠慮がなくて。。
こうしてみなさんにお礼を申しあげ、緑さんを気仙沼市内にお届けしてから次の公演地である登米市の柳津に向けて走り出しました。
なおこちらは気仙沼市に入ってすぐの小泉の海岸です。煙雲館に向かう途中で立ち寄ったのですが、ここには海の中に建つように被災建物がずっと残されたままです。
この日はちょっと近くまで行ってみようという気になり、国道からはずれて海辺まで行ってみると。。
津谷川の護岸を兼ねて海まで突き出した堤防は破壊されたままで、建物は海の中で波に洗われています。小泉海水浴場があった青い海と青い空。本当に気持ちの良い日だったのですが、それだけにこの被災建物が異様です。
何枚か写真を撮って車に戻ると緑さんが「ここには昔、遊園地があったんだよ~」と言います(!)
あとで調べてみれば、「南三陸シーサイドパレス」というレジャー施設だったのですね。ホテルやボウリング場も備えた遊園地として70年代に建てられたのですが、わずか3年でオーナーが代わり、その後経営難のため80年代には閉鎖された、10年あまりの短命の遊園地だったようです。
閉鎖後 遊具は撤去されましたが建物のいくつかは放置され、一部のいわゆる「廃墟探検マニア」には知られていたようです。いま海の中に残っているのはホテルの部分で、その手前に土台だけが残るのはボウリング場のようですね。この建物の周囲には駐車場もあったし、また海との間には松林があったのを古い画像で確認しましたが、津波による破壊と地盤沈下でこのような形になってしまったようです。
この日はご当主・文子さんのお計らいにより、わざわざ ぬえたちプロジェクトの活動の日にあわせて定例の茶道の集会を開いてくださり、その会員の方に大勢お見え頂きました。そのほか緑さんの活躍により市内のあちこちにポスターを貼って頂いたおかげで多くの市民の方もお出まし頂いたようです。
この日の上演曲は『松風』。被災地では久しぶりの上演曲ですが、なんといっても大変なのは後見で、舞台上での物着(シテの装束を替える)の作業があるのです。このときの活動に先立つ4月の活動で、緑さんに後見の打診をしたところ快諾頂きまして、ぬえから物着の手順を記したメモを郵送したのですが。。
やはり、これほどの大役とは思っていなかったらしい(笑)。いや、事前に説明はしたんですけどもね。
手元にメモが到着したら緑さんから連絡きまして。。「吐きそう。。」ですって。そうかもー(^o^)
とはいえ以前には石巻の雄勝で同じ『松風』を上演したことがありまして、そのときも市民の協力者の方に後見をお願いし、まあ無事に上演することができました。それに気をよくしての今回の上演ですが、「吐きそう」に思うのは、まあ責任感が強いからですよね。おかげさまでミスもなく立派に後見の大役を果たしてくれました。
『松風』上演後はお待ちかね! の体験講座。今回は四拍子のすべてを持参し、面も装束もたくさん持参したのですが、あまり時間がなく、簡単な囃子の体験のほか装束をお一人に着て頂きました。
終了後、例によってお食事のおもてなしを頂きました。文子さんのお孫さんかな、今年の3.11の黙祷のとき、無邪気にはしゃぎ廻っていて、その歓声が ぬえが撮影したビデオにも残されていますが、その子たちとお母さんともしばし歓談。このブログでも紹介しましたが、あの黙祷のときの子どもの歓声は、変なことを言うようですが、とっても良かった。犠牲も大きかったけれど、ちゃんとこの街で子どもたちは明るく育っているのです。その暗澹たる「死」への思いと、現実に「生」を謳歌する子どもたちの歓声は、3年目を迎えるこの時期だからこそ思う、不思議な協調を感じました。
それから能の間に最前列でずっと正座して見ていた小学生~中学生とおぼしき女の子たち。多少足がしびれていた、とはあとで聞いたけれど、彼女たちは茶道を習っているのですって。きちんと端座して舞台に注目している姿はとっても清々しかったです。
この日はプロジェクトとして初めての有料の催しで、おかげさまを持ちまして次回の活動の資金面の問題はクリアできそうです。またお食事会では毎度ながらご馳走を頂きまして。。すいません ぬえ、いつも遠慮がなくて。。
こうしてみなさんにお礼を申しあげ、緑さんを気仙沼市内にお届けしてから次の公演地である登米市の柳津に向けて走り出しました。
なおこちらは気仙沼市に入ってすぐの小泉の海岸です。煙雲館に向かう途中で立ち寄ったのですが、ここには海の中に建つように被災建物がずっと残されたままです。
この日はちょっと近くまで行ってみようという気になり、国道からはずれて海辺まで行ってみると。。
津谷川の護岸を兼ねて海まで突き出した堤防は破壊されたままで、建物は海の中で波に洗われています。小泉海水浴場があった青い海と青い空。本当に気持ちの良い日だったのですが、それだけにこの被災建物が異様です。
何枚か写真を撮って車に戻ると緑さんが「ここには昔、遊園地があったんだよ~」と言います(!)
あとで調べてみれば、「南三陸シーサイドパレス」というレジャー施設だったのですね。ホテルやボウリング場も備えた遊園地として70年代に建てられたのですが、わずか3年でオーナーが代わり、その後経営難のため80年代には閉鎖された、10年あまりの短命の遊園地だったようです。
閉鎖後 遊具は撤去されましたが建物のいくつかは放置され、一部のいわゆる「廃墟探検マニア」には知られていたようです。いま海の中に残っているのはホテルの部分で、その手前に土台だけが残るのはボウリング場のようですね。この建物の周囲には駐車場もあったし、また海との間には松林があったのを古い画像で確認しましたが、津波による破壊と地盤沈下でこのような形になってしまったようです。