ぬえの能楽通信blog

能楽師ぬえが能の情報を発信するブログです。開設16周年を迎えさせて頂きました!今後ともよろしくお願い申し上げます~

ふたつの影…『二人静』(その3)

2014-06-29 07:37:19 | 能楽
「上歌」の終わりに舞台中央に立ったツレ。彼女が向かった先は菜摘川のほとりですが、様子は広い野原のまっただ中、という感じに見えるかと思います。ツレの到着を幕内で見計らってシテは幕を揚げ、ツレへ向かって呼び掛けます。

シテ「なうなうあれなる人に申すべき事の候。

「呼び掛け」と呼ばれる、囃子を必要としない登場の形式ですが、橋掛リという能舞台特有の装置をたくみに活用したじつに効果的な演出だと思います。このとき、シテの姿は見所からはまだ見えませんで、呼び掛ける声だけが能楽堂に響きます。この形式で登場するのは ほとんどシテだけで、それも多くが幽霊の化身であるのですから、姿を見せず声だけが先に「登場」するこの形式は、いかにも神秘的な雰囲気になります。役者もその「神秘性」を最大限に発揮できるよう、この呼び掛けの「のうのう」には大変苦心しております。

呼び掛けのあと相手との問答の間にやがてシテは姿を現しますが、橋掛リを歩むので必然的に見所には横顔しか見せません。なかなか本性を露わにせず、神秘性を漂わせたまま問答の間に するすると相手に近寄ってくる不思議。考えてみると ちょっとホラーな演出ですが、幽霊の化身という役どころであれば、まさに相応しい登場の方法でもあります。

不意に呼び止められたツレはシテの方に向き直り、応対をすることになります。

ツレ「如何なる人にて候ぞ。
シテ「三吉野へ御帰り候はゞ言伝て申し候はん。
 とシテは橋掛リを歩み行き
ツレ「何事にて候ぞ。
シテ「三吉野にては社家の人。その外の人々にも言伝て申し候。あまりにわらはが罪業の程悲しく候へば。一日経書いて我が跡弔ひて賜び給へと。よくよく仰せ候へ。
 とシテは三之松辺にてツレへ向き

シテは前述のように唐織着流し姿で、右手に鬘扇を持って登場します。シテはツレの応対の文句の間にさらに歩みを進め、

ツレ「あら恐ろしの事を仰せ候や。言伝てをば申すべし。さりながら御名をば誰と申すべきぞ。
シテ「まづまづこの由仰せ候ひて。もしも疑ふ人あらば。その時わらはおことに憑きて。
 とシテは二之松辺りにてツレへ向き委しく名をば名のるべし。かまへてよくよく届け給へと。 とシテはツレへ詰メ足
地謡「夕風迷ふ徒雲の。 とシテは右へ廻りうき水茎の筆の跡かき消すやうに失せにけり とシテは幕際でヒラキかき消すやうに失せにけり。 とシテは幕に引く

地謡の終わりにツレは正面に向きますが、あるいは別の型でシテが幕に入るのをシテ柱のあたりまで行って見送る、という型もあります。いずれにせよツレはあまりに唐突な死者からの伝言に戸惑い、言葉を失ってしまう、という意味です。前者の型であればツレは茫然自失の状態でシテの姿を見失った、という感じでありましょうし、後者の型であれば「え。。? あの。。ちょっと。。」と混乱しながらも2~3歩進んで薄れ行くシテの姿を確かめようとするようで、すこし理性の働いたツレのイメージでしょうか。

前シテの登場は本当に短い間ですね。舞台に入らず橋掛リだけで演技をするのも『草子洗小町』や『善知鳥』などに類例はありますが、珍しい演出で、後の登場に期待感を高める効果があります。

シテが幕に入るとツレは急いで吉野の里。。勝手宮に戻ることになります。

ツレ「かゝる恐ろしき事こそ候はね。急ぎ帰りこの由を申さばやと思ひ候。

と、その場で正面に向いて謡うのですが、ツレが舞台中央に立っている場合はシテが幕に入ったのを見計らって(地謡が止まったら)このように謡ってからシテ柱に行き、ワキの方へ向いてあらためて舞台中央に着座します。またシテのあとを見送ってシテ柱に立っている場合は、その場で正面に向いて謡ってからすぐにワキに向いて、やはり中央まで行って着座します。

前者の型の方がツレが菜摘川のほとりの野辺から吉野の里に移動したことが明瞭ですね。後者の型は菜摘川から吉野へ瞬間移動した感じになります。能では常套手段ではありますが、やや唐突かもしれません。このへんはシテを見送る型を採るか、この吉野の里への移動の型を採るか、その効果を考えて役者が選択することになります。もっとも後者の型であっても、型附には書いてありませんけれども、「この由を申さばやと思ひ候」と二足ツメて、さて謡い切って二足クツロゲ、それからワキへ向けば、多少ではありますがツレが場所を移動したことを表すことはできます。

ツレ「いかに申し候。只今帰りて候。

ツレは謡いながら中央へ行き、着座しながら左手に持っていた手籠を前へ置きます。

着座することでそこは野原ではなく勝手宮になるわけで、またこのときワキは立って応対しますから、ワキとツレとの身分の関係も同時に示されることになります。