ベゴニア5株で一袋。全部併せて250円だった。それを二袋。もう可成り育っている。小さな花芽も見えている。園芸店で買ってきた。それを道路沿いのプランターに植え込んだ。ベゴニアは猫の大きさくらいは大きくなる花である。花を沢山着ける。道路を歩いて通り人がこの赤い花を見てくれるだろう。そして、にこりとしてくれるだろう。ああ、ここは花のある世界だったと再認識してくれるだろう。私たちは誰もが花のある世界に生きているという幸せを思ってくれるだろう。いやいや、もちろんわたしも、である。
わたしが思い計らうことではなかった。
わたしがあれこれ思い計らうことではなかった。
わたしがそうしようとしても、それは、できることではなかった。
仏陀がそれをなすのであって、わたしのなすことではなかった。
仏陀のなすことに疑問を覚えることでもなかった。
仏陀が思い計らってそれで完了完成しているのであった。
わたしが猜疑をすることではなかった。
*
今日はそれを思っている。
わたしがわたしの死や死後を、わたしの小さな裁量心で案じることではなかった。それは無用であった。
わたしの生の中にわたしの死も含められていたのだ、はじめから。
わたしの生が安らかであるように、わたしの死も安らかさの中に続いているのだった。
そうだよね。そうだよね。仏陀の慈悲が、制限付きであろうはずはなかった。
わたしが生きているときにだけ、仏陀が慈悲を降り注いでいるのではなかった。
仏陀の慈悲は何処までも何処までも果てしなく、そして時間的空間的にも無制限であった。
過去現在未来を分かつこともなかった。裁断せずに、永遠であった。
心配は要らなかった。
この先に死が関門を造っていても、それでも心配は要らなかった。
過去も現在も未来も、わたしはただ安らかでいることが許されているのだった。
仏陀に帰命するということはそういうことであった。
「パリッタ」は「護呪(ごじゅ)」と訳されている。守護のための神呪である。仏陀が説き起こした経典類はみなこのパリッタに相当するとも言えるらしい。その一つ一つに仏陀の慈悲が込められているからである。わたしたち衆生の生き方を逐一、守り導いているからである。支え励ましているからである。生きていようと死んでしまおうと此の仏陀のわたしたち衆生に対する態度は不変である。生きていたときと同じように死後もまた守護されているのである。その意思がコトバとなり経典となり、行動となり、常に、生死を問わず実現している。その実現の現在のわたしをよろこんで、東南アジアの国々の仏教徒たちはパリッタを読唱するらしい。
それを伝え聞いてわたしは嬉しくなった。「まもられているわたし」「仏陀によってしっかりと守られているわたし」を思って嬉しくなった。
*
どうも空がおかしい。曇って来た。雨になるのかも知れない。せっかく園芸店まで出向いて行って、早生の玉葱苗を買って来たというのに。
冬鳥のヒヨドリが鳴いて椎の林の上辺りを渡って行く。甲高い声がする。ああ、もうそんな深い季節のところまで来たのかと思う。寒さも季節の深さに従っているようだ。手が悴む。外に出ていきたくない。もう少し待とう。もう少し熱く日が射して来るまで待とう。
法華経方便品第二に「悦可衆心」の句がある。「(如来)は衆の心を悦可せしむ」と読める。人々の心を喜びで満たすのが如来さま。そのために諸法を説いておられる。法(この世の成り立つ真理)を説く方法はいろいろある。コトバによる方法もあるが、コトバに依らない方法もある。しかしともかく、悦可せしめてくださる。そのように努力して下さっている。その働きかけがわたしの心に届いてきたら、わたしが悦可している。それで分かる。如来とわたしが一致したのが分かる。そういう仕掛けだ。
わたしがここに成り立っている。諸法に拠って成り立っている。それを理解する。そうすると必然的にわたしは悦可しているはずである。するとわたしの言辞も柔軟になるのである。
いまのところ、わたしのコトバにはトゲがある。生き方全体にもトゲがある。柔軟になっていない。それを恥じながら、先の法華経方便品の句を噛みしめる。
手が悴(かじか)んでいる。冷たい手を手揉みする。早朝、畑を見て回ったら、緑葉に朝露が降りて、朝日に光っていた。戻って来て炬燵に入っているのに、老爺の鼻から鼻水が垂れて来る。ちっとも絵にはならないけど、しようがない。
同級生の友達は死んでしまったのに、同級生の僕はこうして生きている。死なないでいる。生きていることと生きていないことの違いはなんだろう。何だろうかと思う。死んだ人が哀れなのだろうか。生きている人の方が寧ろ余計に哀れなのだろうか。死んだ人の方がしっかりした幸せを得ていて、生きている人がまだその途中というところだろうか。死が悲しみだとは一概には言えない。生きている僕は今日、では何をしたら生きているということになるのだろうか。威張れるようなことはできない。とてもできない。
ショパンのノクターンを聴いている。しずかに聞いている。
死んでからも夢を見るだろうか? 肉体がなければ、やっぱり見ることは出来ないのだろうか? あれは肉体の一部分が見ていたものだろうか? それを借りて魂が見えるように仕向けていたのと違うかしらん? 司令塔は魂だったんじゃないだろうか? だったら、肉体に代わる物をまたぞろレンタルしている可能性もある。
あることにしようっと。可能性あり。死者も夢を見ている。だったら、どんな夢を見ているのだろう。そりゃ、生きているときの人物だったり、風景だったりだよね。思い出? そう、それ。追想するんだね。じゃ目が覚めたら泣くだろうね。寂しくなって。可笑しくなって笑うこともあるさ。
先頃他界した友人は今ごろどんな夢を見ているのだろう。泣いているのだろうか。笑っているのだろうか。笑ってて欲しいなあ。僕たち仲間とわいわい遊んでいる場面を夢見て。
里芋掘りのブログ投稿終了。早速、何人かの人が読んで下さったようだ。さあもう一度入眠しよう。トイレは済ませた。真夜中の0時45分。灯りを消そう。お蒲団の毛布がちょっと熱い。4キロほど離れた大川を電車が渡って行く。鉄橋の音が聞こえてきた。オレ様は一日を生きて、もう一日目に差し掛かるところ。すべては宇宙の善意のなすところ。かたじけなや、我が身に受けるお慈悲さま。連続するお慈悲さまの真夜中の鉄橋の音。午前1時の時計の針の音がして、またまた新しい一日のお慈悲さまの響き。
しかし、イノシシさんががっかりしただろうな。今夜辺り狙いを付けていたんじゃなかったのかな。ドッドドドッドド山から一群団が走り下りて来て、畑に到着したら、既に人間の手に掛かっている。ぬぬぬぬぬ。目当ての赤芋は掘られている。彼らは途方に暮れる。頭が真っ白になる。でももう後の祭り。彼らは怒り狂う。しかしとうとう諦める。彼等一群団はドッドドドッドド真夜中の田舎道を山に戻って行く。後ろを振り向き振り向きしつつ。.....午前零時半過ぎ、そういう想像をしたら、笑いが零れてしまった。今回は人間さまの勝ち。でかしたぞ。
里芋の赤芋はイノシシが大好物らしい。散歩途中の近在の農家さん曰く。なのに、この畑は被害に遭わずに済んだ。食欲旺盛な彼らに見つかったら一晩で食い尽くされるらしい。ラッキーだった。見つけられずにすんでいた。里芋の白芋は好きではないらしい。それでけちん坊は一列みんなを急いで掘り起こすことになった。その隣の畑の薩摩芋はえらい被害を受けてしまった。危ないところで赤里芋は難を逃れた。