<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

わたしたちには次の向上が待たれている いつも 何処に居ても

2017年11月23日 10時08分43秒 | Weblog

そこを通って行きます。そこを通って行きますから、そこが終点ではありません。苦しいと思ってもそこが行き止まりではありません。そこから道が通じています。そこを見ておかないと次の風景が生かされてこないのです。次の風景に感動を覚えないのです。その苦しさ、その悲しさやるせなさを味わっておかないと、次の場に出て来ても、それが力にならないのです。背後の闇があってそこから次の展開が開かれてきます。闇を見ておかないと明るさが明るさと映じてこないのです。だから、ここを通って行きます。ここを通っている間は無自覚です。困窮します。ただ苦しいだけ悲しいだけで終わることもあります。でもそれが不可欠だったのだということが次のステージに辿り着いたときに頷かれてきます。わたしに地獄を見させているのは大いなる救済意思のお慈悲です。お慈悲の中を通って行きます。そこを涙ながらに通って行きます。わたしたちにはいつでも次の向上が待たれているのです。わたしたちはお慈悲の中を通って進みます、決してそうは見えていないのですが。

今日のわたしのここは通過地点です。次のわたしが待たれているのです。わたしたちは仏陀と等しく永遠を歩んでいる存在です。

2017年11月23日、今日のわたしはこんなことを思った。わたしの耳に誰かが囁いたのかも知れない。

庭に姫林檎が咲いてもう一月以上にもなるというのに、散らない。わずかに数輪だが。狂い咲きのピンクの花片が秋の風に吹かれて、秋日の中で輝いている。

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わたしを助けよう助けようとしている善意の存在が居る

2017年11月23日 09時43分18秒 | Weblog

誰かが居るはず。わたしに力を貸している者が誰か居るはず。見えないけれど、気配を感じる。わたしとともに居るはず。わたしの隣だろうか、肩の辺りだろうか、それともわたしの内だろうか、わたしの思いの中心だろうか。その力がなかったらとうてい出来得ないと思うことが、出来ているのを見る。たびたび見る。これはわたしではないと思う。誰かが来てわたしに代わって成し遂げているはず、そんな疑念を抱く。クレヨン水彩を描いているときなんかに特にそれを顕著に感じる。発想も、発想の転換も、その誰かがさっと来て耳元で囁いているような、そういう錯覚に落ちる。錯覚でもないようにも思われる。

時空というのは、実は作り物で、そういうものはいとも簡単にかいくぐることが出来るのではないか。わたしを助けよう助けようとしている善意の存在が居る。その存在が時空をかいくぐって力を発揮しているのだろう。時間はあるようでない。空間もあるようでない。行き来を遮ったりしていない。時間と空間は妄想の産物である。往来は自由である。そういう不可思議世界が、日常の妄想界と同じくして、同時に成立しているように思われてしかたがない。わたしを良い方へさらに良い方へ導こう導こうとしている善意の存在がいる。

ふっと思ったことなんだが、十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経にもそれとなくそういう事が書いてある。仄めかしてある。聞く耳宛にサジェスチョンしてある。いやどの仏教経典もそれを感じる。助けよう助けようは、菩薩や仏陀の根本の願いでもあるけれど。菩薩や仏陀に昇格していなくても、そういう善意の願いは誰もが、この世に生きたことがある者ならば誰でも、普遍的に抱いているものかもしれない。この世に生を受けて、嬉しく悲しく苦しく楽しく、生きたことがある者であれば誰もが。

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赤い毛根もおいしそうだから

2017年11月23日 09時20分06秒 | Weblog

昨日一日降り続いた雨はすっかり止んだ。すっかりしたのだろう、今日は一転して秋晴れ。心地よい。日射しが遍く大地に行き渡っている。わたしの書斎の畳の奥までにも。濡れ縁に3袋の米籾殻入りが積み上げられている、そこへ猫が昇って来て、見晴らしをきかせている。もちろんこの猫殿の全身にも秋日。アスパラガスの嫋やかな茎と葉が微風に靡いている。僕は大好きなベートーベンの曲を聴いている。ヴァイオリンの曲「ロマンス」が流れている。

今朝方、7時半に外に出た。プランターで勢いよく育っている優等生の不断草を間引きした。緑滴る茎、葉、赤みを帯びた根が艶々と光っている。見事だ。健康を宿らせてふさふさしている。20cm~30cmに育っている。いかにも栄養豊富という感じだ。これくらい見事な若い不断草は、スーパーでも、道の駅に行っても、中々お目に掛からない。それだけ価値がありそうに思える。不断草はどんな料理にも適合する。柔らかくおいしい。年中不断に食べられるからこの名が有るらしい。別名、唐萵苣(とうちさ)。両手で掴みきれないほどたわわに収獲して、丁寧に何度も水洗いした。いよいよ美しく輝いた。赤い根もおいしそうだから切り落とさなかった。

今日家内が朝一番の飛行機で東京の孫たちに会いに行く。それでこの朝取りの不断草を田舎の爺からの土産にしてもらった。水を切って新聞紙に包み、ビニール袋に落として丸めた。結構な大きさになった。

しばらく一人で買い物、炊事、茶碗洗い、後片付け、洗濯、部屋掃除をすることになる。

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空想ロケット第二弾 ところがそれが気になって

2017年11月23日 05時17分52秒 | Weblog

8時20分にホームルームがあって、今日の日程と時間割などを確認する。授業は8時半始まり。40分授業。10分の休み時間。午前中4時間。12時からお昼休みになる。

数学がまるで分かってなかったので、午後から居残りさせられる。大好きなあの子は帰って行ってしまう。淋しくなる。窓ガラスをトントン叩く音がする。あの子だ。外で待っててくれると言う。優しい。ところがそれが気になって勉強はいよいよおろそかになる。地団駄を踏む。あの子は一人、校庭のニレの木の下で読書をしている。

喧嘩がめっぽう強い大嫌いな奴が現れて、あの子に声を掛けている。僕は喧嘩に弱い。めっぽう弱い。あの子を奪い返せないもどかしさ。自信喪失の僕の悩みが深くなる。

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分からないところをお人形さんに聞く

2017年11月23日 04時35分59秒 | Weblog

寒い。あんまり寒くて目が覚めてしまった。明け方の4時半だ。肩がお蒲団を被っていなかった。なあーんだ。お蒲団をずりあげて、肩を覆った。起きてしまうのは早すぎる。もう一眠りを眠ろう。ぐうたらお爺さんはこうして昼も夜もぐうたらぐうたら。ぐうたらぐうたらしていればそれで何事もない。

学生帽でも被って、机について、学問でもすればいいのに。人生2度目の中学生をするといいだろう。国語、数学、理科、社会、英語、音楽、体育、家庭科、図画工作の時間割を作って、一日4時間をこなす。教科書は町の本屋さんへ行って注文する。わたしは中学1年生。おでこにニキビがある。痛い。

どの教科も難しいけど、新鮮な知識を得て面白いだろうなあ。中学生は難しすぎて小学生をすることになるかもしれない。先生は不在だから、いつも自習時間だ。忍耐力が乏しくなっているから、40分授業。始めと終わりにはキーンコーンカーンコーンの鐘が鳴る。お昼になるとお弁当を開く。勉強はここで終わり。昼からは毎日遠足をする。

うん、こりゃいいなあ。

隣の席を作って大好きだったあの子を座らせる。お人形でいい。分からないところをお人形さんに聞く。頭のいい彼女がテキパキと教えてくれる。出来の悪い僕は、もうお勉強は止め。だなんて言い出してしまう。そして野原にふたり大の字に寝て大空を仰ぐのである。

ああ面白かった。空想を始めると若くなる。お爺さんも若くなる。

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