そこを通って行きます。そこを通って行きますから、そこが終点ではありません。苦しいと思ってもそこが行き止まりではありません。そこから道が通じています。そこを見ておかないと次の風景が生かされてこないのです。次の風景に感動を覚えないのです。その苦しさ、その悲しさやるせなさを味わっておかないと、次の場に出て来ても、それが力にならないのです。背後の闇があってそこから次の展開が開かれてきます。闇を見ておかないと明るさが明るさと映じてこないのです。だから、ここを通って行きます。ここを通っている間は無自覚です。困窮します。ただ苦しいだけ悲しいだけで終わることもあります。でもそれが不可欠だったのだということが次のステージに辿り着いたときに頷かれてきます。わたしに地獄を見させているのは大いなる救済意思のお慈悲です。お慈悲の中を通って行きます。そこを涙ながらに通って行きます。わたしたちにはいつでも次の向上が待たれているのです。わたしたちはお慈悲の中を通って進みます、決してそうは見えていないのですが。
今日のわたしのここは通過地点です。次のわたしが待たれているのです。わたしたちは仏陀と等しく永遠を歩んでいる存在です。
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2017年11月23日、今日のわたしはこんなことを思った。わたしの耳に誰かが囁いたのかも知れない。
庭に姫林檎が咲いてもう一月以上にもなるというのに、散らない。わずかに数輪だが。狂い咲きのピンクの花片が秋の風に吹かれて、秋日の中で輝いている。