<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

わたしの肉体は病んでもそれで完璧である

2017年11月09日 17時47分33秒 | Weblog

わたしの肉体は完璧である。パーフェクトである。それをまるごと頂いてわたしにしているが、わたしがこの肉体の組織製造に関わったことはない。そこに生まれ合わせただけのことである。完璧は、しかし、わたしの肉体にとどまっているのではない。その先にも後にも、その横の広がりにも縦の広がりにも通じ合っていて、無制限である。したがって、肉体を終わりとはしていない。完璧は無限空間、無限時間に充満している。案じることはない。案じたところでどうにかなるものではない。わたしが肉体以前に案じたわけでもないのである。案じもしないのに、わたしは初めから完璧だったのである。肉体の終わりもそのようである。そこに横付けされている永遠のいのちもまた完璧である。部分だけの完璧なんてあるわけがない。その通り、全体として完璧なのである。わたしの肉体の部分だけが辛うじて完璧さを保っているのではないのである。生命宇宙としての全体が完璧なので、部分が成り立っているのである。

畑に出て農作業をしながら、僕はそんなことを考えていた。暗くなったので家の中に戻って来た。汚した手を洗った。そろそろ夕食である。何がどうなっても案じないでいいのである。案じたところでどうにかなるわけではないのである。部分にある者が案じないでもいいような完璧さを保っているからである。

病むということも完璧さの姿である。それも正しい流れに乗っているのである。次の完璧に向かうのであって、病で終わりになるのではない。

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大根がおいしくなった 今夜はおでん

2017年11月09日 16時07分12秒 | Weblog

大根がおいしくなった。今夜はおでんだそうな。気温15度c。冷えて来ると熱いものがほしくなる。もちろん熱燗のお酒も。出汁は昆布がいい。竹輪も天麩羅も蒲鉾も、厚揚げも蒟蒻も、牛のスジ肉も合う。大根は厚くぶつ切りにしてある。味を吸い取ってふかふかになる。それを箸で割って突(つつ)く。息でふうふうする。呑み込む。大根の性格は淡泊である。世界を粘っこくしない。そこがまたいい。

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死者というが死んでなんかいないのではないか

2017年11月09日 15時45分23秒 | Weblog

死者といふが死んではいまい 愛(は)しきやし可視の雲井の背後の不可視               釈 応帰

死んだ者を死者というけれど、どうかな。ほんとうはどうかな。死んでなんかいないのではないかな。肉体を離れただけなのではないのかな。秋の空特有の鰯雲が広がっている。そこまではわたしの視力で捕まえることが出来る。しかしその背後、その奥は不可視だ。見えていない。それは劇場の舞台の幕のようなもので、それが開かれるとそこへいっせいに俳優たちが飛び出して来て楽しい踊りを踊ってみせるような気がしてくる。そういう愛らしい、奥床しい装置が施してあるような気がする。死者と言うがほんとうは生者なのではないか。永遠を生きているのではないか。仏陀もそのように仰せになられた。死んだと見せているが、けっして死んではいないと。それは仏陀だけの現象だろうか。そんなことはあるまい。仏陀は平等を尊重される。除外がないはずだ。

雲井(くもい)は雲居とも書く。雲のあるところを指す。空を指すこともある。宮中や皇居、都を指すこともある。

古事記にこうある。「はしけやし我家(わぎえ)の方よ 雲井立ち来(く)も」

「愛(は)しけやし」は間投詞。感嘆詞「ああ、愛(いと)しい感情の湧くことだなあ」

この短歌も県文学賞に応募していた作品である。落選だった。爽やかな秋の、あざやかな雲を見ているとそんな気がしてきませんか。人は死んでなんかいない、と。大空をも自由に手に入れて、生き生きと生きて活動を続けている、と。

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このブログは頻繁にフリーズしてしまう

2017年11月09日 15時32分12秒 | Weblog

このGooブログはときどきフリーズしてしまう。まったく動かなくなってしまう。書いた後で、確認のためにそれをもう一度読み返そうとすると、そうなる。待っても待っても同じだ。後にも先にも行かなくなる。初めの頃は「応答していません」が表示されていたが、この頃ではそれすらも出て来ない。電源を切るしかない。困ったものだ。何か方法があるのだろうか。前はそうではなかったが、この数ヶ月そうなってしまう。書く気が失せてしまう。

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夏が去る 短い死と短い生を美しい形に示して

2017年11月09日 15時22分26秒 | Weblog

 「夏が去る」     釈 応帰


   1
開いた花瓣が薄紅に閉じる
翌朝になると元に戻して開く
夏の間 蓮はこれを繰り返す
短い死と短い生を繰り返す

枯れて秋と冬を過ごす
春になって泥の底より
茎が真っ直ぐに上がって来る
水面に濃い緑の葉が浮かぶ

時間が
無常の数行を表現するが
その時間がその頁を更に捲って
寂滅の静謐を荘厳してくれる

   2
夏の盛り わたしは汗を拭き拭き
洛外の奥深い古刹を尋ねた
人はあまりいない
中央に大池があり案内板が立つ
オニヤンマの目玉が朗読する
「池の蓮は古代蓮です
みなさんは千年を跨いでいます
いま此の処は蓮華国の別院です
ここに立った人は誰もがみな
仏の国からの旅人です」
朗読された以上5行の詩句が
炎天のわたしをねぎらってくれた

蓮華国とは生死するわたしたちが
たびたび行き来している国であり
蓮の華が紡いだ清らかな仏の浄土
蓮華蔵界(華蔵界)のことらしい
宿で借りたインターネットが
そんな情報を授けてくれて
わたしの夏は爽やかな夏となった

   3
蓮華蔵界の古里では億劫の間 
風もオニヤンマも人間も
地球も太陽も銀河宇宙それ自体も
(物質を超えた神々や仏陀すらも)
生きたり死んだり組換えをしたり
完成した後次の完成へ出発したり
さまざまな変化向上を楽しんで
お互い仲良く暮らしているらしいが
彼らはときどき遠い遍歴の旅に出る
(この蓮池にも立ち寄るのだろう)
その内の一人の旅人それが
当のわたしだったということになる

去り難くて次の朝もここを訪れた

開いた花瓣が薄紅に閉じ
涼風を迎え
翌朝になると又目覚めて涼風を送る
現世という蓮華蔵界別院別天地の夏
夏が去る
短い死と短い生を美しい形に示して

この詩を県文学賞に投稿した。落選した。佳作にも秀作にも入らなかった。書き上げるのに10日を費やした。珍しく慎重に慎重に推敲を重ねた。でも空振りに終わった。見事な三振だった。数年前に訪れた蓮寺の記憶を基に書いてみた。

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秋の空が澄む日

2017年11月09日 15時09分05秒 | Weblog

「秋の空澄む」     薬王華蔵

おれは裸で生まれてきた
裸で生まれてきたおれが
三世の貢ぎ物を
ただ一から十いただいて
今を生きるおれになった
これ以上どうしてくれと
言わねばならんのだ

おれは裸で死んで行ける
裸で死んで行けるおれが
貢がれた宝物をそっくり
お返しできる段になって
これ以上どうしてくれと
言わねばならぬのだ

秋の空が高く澄む
ぴいひゃらら
ぴいひゃらら
耳奥の遠いおれの古里で
秋祭りの笛太鼓が鳴る

稲穂は重く垂れる
捻り鉢巻きの若者が通る
祝いだ祭りだそおれそれ

満山が赤く色づく
これ以上いったいどうしてくれと
言わねばならぬのだ

いい空だあ。いい秋の空だあ。ぽっかりしている。空もさぶろうの胸の中もぽっかりしている。それで一つの詩が生まれた。「どうしてくれこうしてくれ」もなくなった。

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自動車学校高齢者講習会は順次進んでいる

2017年11月09日 12時35分00秒 | Weblog

お昼を過ぎた。気温が上がって来た。着ているものを一枚脱ぐ。自動車学校高齢者講習会は順次進んでいる。視力の諸検査を受けた。今のところ問題はない。これから実地に移る。試験場のトラック内で車に乗る。さて、どうなることやら。腹が減ってきた。

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恋文

2017年11月09日 10時15分06秒 | Weblog

「恋文」     釈 応帰 

いとしいいとしいお方へ
いとしいいとしいを
一途に申し上げます
あなたはただただわたしに
それを言わせるためだけに
お過ごしになっています

よってその通り
わたしは人間様のあなたに
いとしいいとしいを
申し上げます
そればかりを申し上げます

それでわたしはすっかり
わたしの秋を成就します
他愛ない鈴虫でございます
草藪の鈴虫でございます

あなたは心が優しいのです
わたしに生まれる鈴の音を
夜ごと聞いてくださる程に
心がお優しいのです
わたしはこれを知る者です

エノコログサの細い葉に
この恋文を昨夜一夜かけて
細々書きとめておきました

釈応帰はわたしの法名である。死んだらお位牌にこの名前が書かれていることになる。今日はまだ生きているから恋文を書いた。ただし虫の恋文だ。でもこの恋文の宛先はわたしになっている。いい気なものだ。わたし宛の恋文を虫に書かせていい気になっているのだから。

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歳を重ねて来たはずなのに 

2017年11月09日 09時58分50秒 | Weblog

この老爺実に他愛ない。歳を重ねてきたはずなのに他愛ない。堂々としたところがない。めそめそしている。歳を重ねるというのにはそれだけの積み重ねが伴って来たはずなのに、この老爺にはそれがない。欠落している。重厚さがない。皮を剥くとすぐに中央中心になる。奥御殿がない。なんだろう、これは。自己の確立というが、この男はそこにしっかり立っていない。ふらりふらりしている。

この老爺の他愛なさに付き合わされる人も大変だろうと思う。いっしょになって揺れてくれないとすぐに文句を言って来るからだ。我が儘もいい加減にしてくれと言いたくなるだろう。

今日は快晴である。秋晴れと言うべきか。ベランダに洗濯物がずらりと干されている。そこに日が射している。風が少しあって洗濯物が靡いている。

 

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南天の実が赤く色づいた

2017年11月09日 09時47分38秒 | Weblog

生け垣にずらりと列ぶ南天の、実が赤く色づいた。大きな粒だ。歩いていて目にとまった。赤は目にとまりやすい。庭には白南天もある。実が白い。

和歌山県加太の港の淡嶋神社の鳥居も宮殿も真っ赤だった。赤い鳥居を目当てにして訪ねて行った。元気を頂いた。神社の欄干にはずらりと日本人形が列んでいた。ここは人形を祀る神社のようである。港の青に神社の赤が映えていた。

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