わたしの肉体は完璧である。パーフェクトである。それをまるごと頂いてわたしにしているが、わたしがこの肉体の組織製造に関わったことはない。そこに生まれ合わせただけのことである。完璧は、しかし、わたしの肉体にとどまっているのではない。その先にも後にも、その横の広がりにも縦の広がりにも通じ合っていて、無制限である。したがって、肉体を終わりとはしていない。完璧は無限空間、無限時間に充満している。案じることはない。案じたところでどうにかなるものではない。わたしが肉体以前に案じたわけでもないのである。案じもしないのに、わたしは初めから完璧だったのである。肉体の終わりもそのようである。そこに横付けされている永遠のいのちもまた完璧である。部分だけの完璧なんてあるわけがない。その通り、全体として完璧なのである。わたしの肉体の部分だけが辛うじて完璧さを保っているのではないのである。生命宇宙としての全体が完璧なので、部分が成り立っているのである。
畑に出て農作業をしながら、僕はそんなことを考えていた。暗くなったので家の中に戻って来た。汚した手を洗った。そろそろ夕食である。何がどうなっても案じないでいいのである。案じたところでどうにかなるわけではないのである。部分にある者が案じないでもいいような完璧さを保っているからである。
病むということも完璧さの姿である。それも正しい流れに乗っているのである。次の完璧に向かうのであって、病で終わりになるのではない。