<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

さみしくしていない人を見に外に出る

2017年11月24日 13時27分56秒 | Weblog

外。寒そうだなあ。それに薄暗くなってきたよ。でも、外へ出て行く? 外がそんなにいい? 

うん、ひとりで家の中にずっと居るのはさみしい。さみしいから。さみしくしていない人を見に行く。

ほう、人に興味が出て来たんだ! それは上出来。レベルが上がってきた証拠だよ。

で、何処へ? それが分からない。分からないまま出ていく。じゃ、まるであてなし夜歩きさんみたいだ。

そうか、今夜の食事は一人で食べることになっていた。だったら幕の内弁当でも買ってくるかなあ。弁当を広げてもぽつんとしてさみしいよね。

世に独居者は多い。独居老人はいつもこうだよ。共感できることになるだろうね。じゃ、独居者+独居者=賑わい共同独居者になれるね。そういう施設があったらいいね。でも、喧嘩になるとまずいね。じゃ、喧嘩をしないというルールを作っておくといいかな。うまくいくかなあ。

ここでお終い。やーめた。

 

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それが早く分かっていたなら 打つ手があったのに

2017年11月24日 13時06分57秒 | Weblog

ちょい。ちょい気分転換をしてこうよう、っと。さっきまで渋柿の皮剥きをしてたところ。台所にぺたんと座ってひとり。

そんなことだったら、それが早く分かっていたなら、って思うことがある。よね。事前に打つ手があったのに、って。

でもそこが分からないことにしてある。分かると平坦になってしまうから。

株の売買と同じところがある。値上がりすると分かっていたら、そりゃ買っておくよね。値下がりすると分かっていたら、売っておくよね。そこが分からない。分からない事にしてあるから、続く。そういうところがある。

われわれは死なないのだ、それが分かっていたなら、暗い顔はしないで済むことになる。人を恨むのは止めておこうという気にもなる。あれこれの覚悟が決まる。

肉体は物質変化をするけれど、われわれは物質だけに留まっているのではない。そこを抜けて行く。抜けて行くことができる。

肉体の死がわれわれの全体の死ではない。それは変化に過ぎない。われわれは一部分で物質ではあるけれど、それはここが物質世界だからしようがない。それに合わせてある。適合させてある。

そこを越えて行く。いつまでも同じ処に滞留してはいない。それはわれわれが進歩をする生命体だからだ。次へ次へと進んで行く。

しばらくは後ろ髪を引かれているが、次の明るい輝きが見えて来たらもうそんな泣き言は言っていられない。ああ、ステップ1の卒業を果たしたんだな、って思う。よろこびが泉のようにそこで湧き上がってくる。

こんなことを書き連ねていると、いつまで経っても気分転換に行けなくなりそうだ。ここらで筆を置こう。

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いつもおんなじことしか書いていない よね

2017年11月24日 12時47分05秒 | Weblog

いつも、おんなじことしか書いていない。よね。読み飽きるだろうなあ、さすがに。われわれ生命体はもっといいところもっといいところを目指して行く、その一点張りだもんね。

もっといいところのその「もっといい」の内容が、しかし、具体的に記述されていないのが不満かなあ。過去の記憶が消されているからね、書きづらいんだよ。でも、過去もそうだったんだと思う。「いいところ」だったと思う。10段階評価の前半だけどね。

その10段階を通り越すと、また新たにワンランクアップした10段階がお目見えすることになっている、だと思う。次々と次々と。

楽しみにしてていい、と思うよ。全篇この調子。楽しみにして進んで行くことができる、この論調は不変。どこまでもどこまでも、どこまでもどこまでも進んで行く。其のどの地点もまったくの新しい新天地なので、楽しめる。

だから、死んだら絶望なんかじゃない。希望が次々と灯っていく。それが灯っていくにしたがってわれわれの明度が上がっていく。つまり輝き度合いがアップしていく。どんどんアップしていく。そういう想定だ。

たいそうな楽天家だよね、この男。しかしこれは仏陀の明らかにした観測法なので、それはそっくり仏陀の別称にしてもいいはずである。次なる仏国土、浄土は次なる歓喜地。楽しみにしててもいい地点の第一テント。先ずはそこを目指す。

 

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会いたい人いるの? いるよ その3

2017年11月24日 11時48分57秒 | Weblog

ほんとうは生き生きしているのだ、みんな。死んでなんかいないのだ。死んだと見せているが、あくまで仮装。見せかけ。そこはただの途中通過地点の1地点。われわれ生命体は実にパワフルなんだ。もっと信頼をしていい。

ふふ、とっくの昔にそこの迷妄を越えて、誤解を越えて、時空のない自由な新天地に行って縦横無尽の活動しているよ。死後は行き止まりの袋小路ではないのだ。

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会いたい人いるの? いるよ その2

2017年11月24日 11時46分53秒 | Weblog

「人は死んでなんかいないのだ。死んだと見せているが、永遠に死なないのだ。だから生きている人。肉体が全部だと思い込んでいる人には、死は死としか受け取れないけど、肉体はほんの一部分なのだ。行ったところで新しく着せ替えができるんだ。肉体のように物質ではないけれどね」

「ふううん」

「見て来たような嘘をついているね」

「うん」「嘘も方便」「ここではそう映る」「でも嘘でないということにもならない、まだそこへ行っていないから」

「じゃ、賭け事のようなものだね」

「そうだ、賭け師のようなものだ」

己の中の二人が会話をしている。

会いたい人はいるよね、誰だって。

われわれもいずれそうなる。他者からの「会いたい人」になる。(だから、喧嘩ばかりもしていられないことになるね)

仏教の浄土教典に「俱会一処(ぐえいっしょ)」とある。「俱に一つの処で会える」という示唆だ。墓石によく刻んである。もちろん浄土教典だからこの「一つの処」とは、阿弥陀仏の極楽浄土である。

薬師如来は瑠璃光浄土という一つの処を建立して待っている。仏(=如来)はガンジス川の砂の数ほどおられてそれぞれがその一つの処を造って待っていてくださる。われわれはそこでその「一つの処」「ユニークなユートピア」を旅して回ることになる。そういうふうに経典に説いてある。

死者の国(死の後で行き着く先=ほんとうは生者の国)も広大無辺なのだ。バラエテイに富んでいて飽きが来ないのだ。人は永遠に死なないで、向上を続けていく。

 

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会いたい人? いるよ。会いたい人は その1

2017年11月24日 11時13分41秒 | Weblog

「会いたい人? いるよ。会いたい人は」

「その人は生きている人?」 「うん」

「何処に居る?」 「近くに」「でも姿は見えない」

「透明なの、その人?」「そうだ」

「わっ」

 

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そこに大きな扉が開いているというふうに

2017年11月24日 11時05分30秒 | Weblog

調子のいい男である、このさぶろうという男。泣いたり喚いたりしているかと思うと、あるときふっと笑っている。重たい息をふうと吐いている。それで瞬時に軽くなっている。調子のいい男である。ぐずった赤ん坊のようである。泣いた後にすぐ笑える。

死を闇夜だとは考えないようにしている。夜明けだと考えるようにしている。ここも調子がいい。根拠はないのに。勝手に、それがあるように思い込める。死で行き止まりだとは考えないようにしている。そこに大きな扉が開いているというふうに楽に考えている。扉には朝日が射していて明るく光り輝いている。そういう楽観を以てこの先の死を迎え入れようとしている。

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虚空蔵(こくぞう)という空の蔵 満ち満ちている蔵

2017年11月24日 10時41分04秒 | Weblog

空(から)っぽは大空(おおぞら)の空(くう) 頭(ず)も力(りき)も要らぬ者には大空が見ゆ        薬王華蔵

今朝の新聞の読者文芸に此の歌が2席に選ばれていた。「無用」というのは「要らない」ということである。心配無用というのは、したがって、心配は要らないということである。心配の空っぽ。大空も空っぽである。空(くう)である。空であって満ちている。

ところがわれわれは、そういうわけにはいかない。そういうわけにはいかないと思い込んでいる。そういうフシがある。で、頭を使う。手足に力を漲らせる。行動する。そうすると何となしに満足が近づいてくるように思われる。で、懸命になる。そういうわけで朝も昼も夜も、とにかく力んで暮らしている。

それを放つ。と、わがこころも大空になる。大空になるとそこへふっと大空が映る。目の玉へぽっかり青い大空が映ってくる。空っぽの仲間入りをする。

自力という力(りき)。この力で大空までを造ってやろうなんぞとも力むことになる。そんなことはできはしないのに。そういうものは自力以外の力、他力なのに。すべて他力なのに。自力の入り込む隙間なんてないのに。割って入ろうとする。愚かな。

満足も幸福も、そう。こころの平和もそう。安心もそう。放てば手に満つ。満ち満ちているもの。それがなかなか合点されない。死ぬが死ぬまで合点されない。

なんでも己の力でできると張り切っている輩も居る。勇猛な輩も居る。そしてそれに成功している者もいる、中にはいる。それでそうなることを矢鱈、吹聴して掛かる。頭がいい、と誇る。力が勝っていると誇る。大声を出して己の正当性をがなり立てる。ご苦労なことである。

無力な者はそんな理屈を弄んで落ち着こうとする。これもまたご苦労には違いないが。

空っぽ。このがらんどうはいいなあ。せいせいしていいなあ。仏教はしゃれている。それを空(くう)だと名前付けをした。それは空虚の空ではないらしい。虚空蔵(こくぞう)という空の蔵で、満ち満ちている蔵らしい。

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そういうところがあったらいいだろうなあ

2017年11月24日 10時34分19秒 | Weblog

気温が上がらないと、こころも寒いですね。あたたまりたいです。手先の冷たさは、子供の頃には焚き火にあたって、指を擦ってほぐしました。こころはどうしたらいいんでしょう。こころの焚き火を焚いていてくれる親切なところがあったらいいだろうなあ。そこを取り巻いている人たちの顔に火の赤い色が映る。焚き火がちろちろ燃えて顔に映る火もちろちろ燃える。するうちに、寒さが消えている。そういうところがあったらいいだろうなあ。

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穴が真っ赤になった 朝日を浴びて

2017年11月24日 10時23分55秒 | Weblog

とうとう干し柿作りに着手した。昨日、スーパーの店頭に堆く渋柿が積まれていた。3袋も買ってきた。玉が小振りである。35個入ってて1袋980円。夕食の後、台所に陣取って冷たい包丁を握りしめ、ごそごそ夜更けまで皮剥きをした。1袋をやっと終了した。そこで中止して熱い湯を浴びた。寝た。今朝になって2階の物干しベランダに吊した。剥いた皮の赤い山を畑の穴へ捨てに行った。穴が真っ赤になった、朝日を浴びて。今日は残る2袋の仕事が待つ。怠け者の手が冷たい。ベートーベンを聴いていたい、このまましばらく。

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