<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

心配が要らないのなら欲望も要るまい

2017年11月22日 19時30分21秒 | Weblog

欲が深すぎるのではないか、今世を生きて、それを満たし終えて更に来世を願うとは。今世を生きることが出来たというだけで十分なのではないか。100%だったのではないか。今世を生きたことに満足をしなかった者のみが来世を願うのではないか。

今日を生きた。今日を生きた者には明日は来ないか。そんなことはない。もちろん明日は平等に来る。今日を満足した者にも満足しなかった者にも明日は来る。それと同様だ。

深い眠りに就こうではないか。今日を生きたと言うことに満足できたら、深い眠りに就こうではないか。

あまりにも欲が深すぎるように思う。今日を生きながらさらに明日を思うのはあまりにも欲が深すぎるように思う。赤ん坊がよくそうする。片手にパンを握りながらもう片手にも握ろうとする。口は一つしかないのに、もう一つを取られるような気がしてしまう。

明日はふんだんにあるのである。枯渇はしないのである。来世もその通り。ふんだんにある。有り余るようにある。心配は要らない。心配が要らないのであれば欲望は不要だ。

今日を生きえたと言うことが証拠じゃないか。たしかな証拠じゃないか。明日を生きることが出来るというはっきりした証明になっているじゃないか。

今日を生きたという満足で今日を締め括りをしよう。充足して今夜を眠ろう。

さぶろうにそんなことが閃いた。己の欲深を恥じた。

欲望は心配が引き寄せてくる感情だ。心配が薄らいだら欲望も薄らいでくるはずだ。

 

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「大丈夫、まだまだ長生きします」も薬の内

2017年11月22日 17時21分34秒 | Weblog

夕方5時半。外はもう暗い。日暮れが早い。雨の日でもあるから尚更に。

クリニックへ行って血糖値調整の薬をもらってきた。やや高め。長めに下さいと頼む。そうしてもらう。「8月にしたままだったから、血液検査もしておきましょうね」と老ドクター。彼は、「いいでしょう、このくらいは」が口癖。患者に余計な心配を掛けさせない主義のよう。この流儀が気楽だ。ところがこの数ヶ月、息子さんドクターも最近診察に加わられるようになった。今日は老ドクターの診察日だった。診察時間はいつも3分ほど。「はい、息を吸って、はい吐いて」と胸と背中に聴診器を当てられるだけ。衣服を脱がなくていい。簡単に終わる。でも、ヤングドクター氏は慎重だ。診察時間、解説時間も長い。薬だけもらいに行っても、体重測定、血圧検査など諸検査から始まる。あれこれの疑いの可能性に言及される。ちょいと面倒。患者の健康に責任を持つ医者は、病気を探すのが仕事なのかもしれないが、「大丈夫、まだまだ長生きします」を言ってもらうと、患者はその気になってしまうこともある。これも立派な薬の役目をする。匙加減が難しいだろう。

(ここから横道に逸れる)

患者も患者。病気を探してもらうとあのドクターは名医だということになる。「あなたの病気が見つかりました」と言ってくれると安心する。で、見つけてもらった病気の数だけ大小、数種類の薬漬けになる。

人間は老病死する。とりわけ老人に病気はつきもの。同居している大小の病気をあれこれ数え上げたらきりがないだろうに。死ぬために生きているようなもの。死ぬためには病気が不可欠でもある。そこのところの受け取り方が微妙だろうなあ。

人間には本来治す力が具わってもいる。医者や病院などの力を借りられない動物植物は、もっぱら「自分の力で治す」力を発揮する。これが全部だ。僕はこれを「自治能力」だなんて嘯いている。免疫力というのもある。これを信頼するのも一方法かもしれない。

病気が進行した場合は、もちろん医者を頼まねばならないが・・・。それに、病気にならないうちに医者に通うというのも一理あって、これを信奉する人は足繁く病院通いをする羽目になる。「百病あっていのち長し」のセオリーもある。

割り切った言い方をすれば、人間皆どのみち死ぬのである。これは医者も助けられない。

「とにかく長生きさせるべし」の長生き医療には問題点もありそうである。病と死とふたつ、折り合いをつけるのも大事なことに思われる。

いやいや難しい。「薬をもらいに行くということ」は何を意味しているか。ただただ延命願望にほかならないのではないか。そうかもしれない。

あれこれ横道に逸れてしまった。あくまで無責任論の範疇内である。

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病む者の頬に笑みが浮かんできた 小さく

2017年11月22日 11時31分45秒 | Weblog

秋浅き木の下道を少女らはおほむね軽く靴ふみ来るも    中村憲吉

中村憲吉は病を経て若く47歳で夭逝している。尾道の丘の上に生家が残っている。そこへ到る小径に歌碑が建っている。此の歌だ。

少女は「おとめ」と読むのだろうか。そのまま「しょうじょ」でもよさそうに思える。中学生だろうか高校生だろうか。大学生かもしれぬ。学生でなくてもいいが、踏んでいる靴が学生靴に見えてしようがない。秋がまだ深まっていないときだから、紅葉落葉はしていないだろう。木の下の道は爽やかな青い影ができているかもしれない。そこへ少女等の一群が通りかかる。それを見ている人がいる。彼は病気をしている。窓辺からそれを眺めている。こちらへ少女たちが近づいて来る。ああ、元気でいいなあと思う。この世に元気な人たちがいることが救いなのだ。概ね軽く靴を踏み鳴らしているがそうではない人もいるのかもしれない。憂愁をかこって靴音が重くなっている人もいるかもしれない。それだっていいのだ。健康であればいいのだ。若く元気であればいいのだ。彼の頬に笑みが浮かんできた。高くなった空に白い雲が糸を引いている。

これは僕の観賞。いろんな観賞をしていいと思う。

5首の歌が小径の掲示板に見えた。看病する妻の歌が数首あった。

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でも空だって無限に広がって続いているじゃないか

2017年11月22日 10時47分17秒 | Weblog

一度きりの人生だと言う。そういう人にはこの人生は間違いなく「一生」である。一度きりだから大切にしなければならないと思う。大事にしなければと思う。疎かにしてはならないと思う。だからその受け取りはそれで十分正しいはずだ。

でも別の考え方だってある。一度きりを幾つも合わせる、合わせることができるのではないか、という考え方もある。

小さく狭いわたしとしての切れ端の生はなるほど一度きりかも知れない。しかしより大きめの、より広めのわたしがあるのではないか。区切りを大きくできるのではないか。

区切りを大きくすると、生は次へ次へ伸び上がっているのではないか。

次へ次へ大きくなり広くなっていくのではないか。合流して合流して行くのではないか。合流していく度に豊かになって行くのではないか。大きなわたしになっていくのではないか。広大無辺に近づいていくのではないか。そういう推量をしてみる。

すると百生、千生、万生になる。そうするとわたしへの拘りが少しずつ減量していく。そしてとうとう全体になる。全体の1に合一する。

微視的と巨視的見方がある。微視的だと端切れになる。死で終わりとなる。でも空だって無限に続いているではないか。無限に広がっているではないか。区切りなんかつけてないじゃないか。

ふふふ。笑っちゃう。笑っちゃう。こう考えると笑っちゃう。笑いが出る。狭くしていないでもいいのだと安心する。窮屈にしていなくても大丈夫なんだと思う。愉快になる。

推量は勝手だ。愉快になってもいいし、不愉快になってもいい。どちらも許されている。

仏教の言葉に「一生補処」がある。この一生を補ってやればそれで満ちる、満願する、という見方だ。満ちてしまえば、あとは次の向上へ転身する、仏界へ鞍替えをするというわけだ。そのための一生をいま送っているが、もう鞍替えの鞍が用意されているという。用意してくれたのは仏陀だ。それだけの力、慈悲と仏智があるからだ。それに任せる。すると楽々と次へ進む。次の課程に進む。より向上したコースに乗ることができる。

いかにも楽天家の考えそうな話だと思う人が多いかも知れない。しかし、この世の中は悲観主義がすべてではないから、こういうイズムだって成立するのだ。

今朝はこんなことを考えているさぶろうがいる。旅の間は苦しんで苦しんでいたのに。赤ん坊だ。泣いた顔で笑っている。

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わははは、それも頷ける

2017年11月22日 09時46分25秒 | Weblog

雨が降り出してきた。旅を終えている。家の中にいて静かにしていればいいだけのこと。それにしても寒い。セーターを着てジャンパーを着込んでいるのに寒い。炬燵の温度を最高にしているのに寒い。

ジョウビタキが遊びにやって来た。別名紋付き鳥。庭の椿の木の葉と遊んでいる。初お目見えか。胸の毛の色が茶色だ。ふかふかしている。これだと寒くはないだろう。

李白殿おいでなさいなここへいま 時空といふは作り事なり     薬王華蔵

今朝はこういう短歌を書いて遊んでみた。時間も空間も空事である、作り事である。あると思う者にはあり、ないと思う者にはない。仙人肌の李白殿ならそれは疾うにご存じのはず。飛び越えてこられるはず。温まって行かれませ。一杯やりましょう。熱燗にしましょう。わが庭にも菊花が咲いております。詩を吟じてくださいませ。とは申せ、つまらないわたし如きを相手にはなさらないでしょうな。取り柄のないわたし如きを。わははは、それも頷ける。

 

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それでもそれはわたしが蒔いた種である

2017年11月22日 07時01分36秒 | Weblog

わたしに元々の原因があったからである。人を恨んではならない。加害したのはわたしである。被害者意識を抱いてはいけない。恨みの目を人に向けてはならない。

万事を人のせいにしようとする、そういう思想と態度と行動をし続けてきたから、そう見えるいまのわたしが出来上がったのである。怨恨を向けるわたしの目と思想と態度と行動のお掃除をしなければならない。

解決法は、積み上がったわたしの悪業の大掃除である。そうすればわたしは狭いわたしを振り払って、大海に出られる。大空を仰げる。

どんなにそれが他者に非がありそうに見えても、元を正せばそれはわたしが蒔いた種からの発芽に過ぎない。それを非難するのはわたしを非難するに等しい。己をこそ戒めなければならない。わたしの暗い目を明るくしなければならない。

それが分かっても人の落ち度にしてしまおうとするわたしの業慢心。わたしのふて腐れた生活態度。じめじめの湿度。黴臭さ。嫌になる。

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寒い寒い寒い 秋もここまで深まったんだなあ

2017年11月22日 06時42分21秒 | Weblog

寒い寒い寒い。冷えているぞ。お陰で夜中何度も目覚めた。毛布を足した。厚着をした。それでもシバレル。玄関の室内温度計を見に行くと、9.6℃だった。氷点下にでも落ちたかと思ったら、そうでもなかった。台所の通用口のドアを開けて外を覗いたら、ハヤトウリの葉っぱ🍃が霜にやられて、一斉に、いじけていた。まるでいじけ上手の誰かさんのよう。11月23日、水曜日の朝。寒い。もう一度蒲団に潜り込む。毛布の端の肩が冷える。秋もここまで深まったんだなあ。

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