禅宗の修行僧、雲水さんは腰紐を着けている。手巾(しゅきん)と呼ぶ。長さ太さがある。荒縄のようにも見える。これを4つ折りにして臍の処で8の字に結ぶ。と、それが水引に見える。
岐阜県美濃加茂市にある臨済宗正眼寺の老師の話を聞いた。NHK教育放送「宗教の時間」を録画しておいた。それを巻き戻して、昨日ゆっくりと見た。
その話の中に、手巾水引のことがあった。正眼寺は厳しい修行をすることで名を馳せている寺。老師が若い頃、修行が辛くてならないときがあった。兄弟子の人が、腰に巻いている手巾の結び目を指さして、「これは何に見えるか」と問う。暫くしてやっとその答に行き着いた。「お布施を入れる紙袋に巻いてある水引に似ています」と。
それでまた問われた。「そこにあるそのお前の水引は、何に結んであるか?」と。弟弟子は「わたしの体に結んであります」と答えた。「ではその体は誰に布施するのか」と更に問われた。
そこでやっと、「この修行の体は仏陀に差し上げておりました」というところへ到着した。はっと我にかえった。差し上げている修行の身体はもはや我が物ではなかったのかと。そう悟ると辛い修行が楽になった。概略そういう話だった。聞いているわたしにも、老師の話が響いて来た。
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仏陀に差し上げたわたしだったのだ。我が物にするわたしではなかったのだ。痛い辛い苦しいと愚痴を発すべき肉体ではなかったのだ。仏陀に差し上げてある尊いわたしの肉体だったのだ。そう思うとわたしも楽になった。