<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

逃がした魚は大きいというじゃないか だったら逃がしておくべきである

2018年04月23日 23時30分44秒 | Weblog

欲しいというところまでで終わっていいように思う。欲しいものが手に入れば嬉しいだろうが、それは暫くで、また欲しくなるに決まっている。何処まで行こうが、飢餓なのである。新しく飢えを起こす。ずっと満足というわけにはいかぬ。ならば、いっそのこと、第一番目の「欲しい」で、止めてておいてもいいのである。2番目に進んでも3番目4番目に進んでも、やはりまた不満足に陥るのである。それを知って先回りをして、第一番目の欲しいに留めておく。

何かを待っているというところを大事にする。このハラハラドキドキを大事にする。欲しいという魚を釣り上げない。海に泳がせておく。これでいいようにも思える。慎ましくていいようにも思える。未実現の方が実現よりも楽しみとするところが深くて高くて豊かなのかもしれない。想像の膨らみというのも付加されているのだから。実現はあんがいのっぺらぼうで薄っぺらな場合が多い。

ふふふ、逃がした魚は大きいというじゃないか。だったら逃がしておくべきである。

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「武士の献立」というテレビ映画を見ていた 11時までも

2018年04月23日 23時14分29秒 | Weblog

雨は降っていない。降るぞ降るぞと言い続けられていた割には降らない。夜になっても雨の音はしない。降ってくれてもよかったのに。降ると見込んでいたので、日暮れ掛けの水撒きを控えたのだから。明日の朝になっても降ってこないようなら、新しく植えた苗物には急ぎ、水を掛けておこう。

さ、やすもう。久し振りにテレビ映画を見ていた。11時まで。「武士の献立」という時代ものを見た。錚々たる役者陣だった。加賀藩の騒動が背景になっていた。泣ける作品に仕上げておられたはずだったろうが、泣かなかった。泣こうとするところまでは来たが、次の後押しがなかった。ハッピーエンドだったからだろうか。

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することは幾らでもある 一つが終わったら次が見つかる

2018年04月23日 20時59分57秒 | Weblog

よくまあ働く。働くことが趣味のように働く。体を動かすことが苦にならない。といっても、老人のそれである。移動用の椅子に座ってやるのだから、いい加減な働きぶりである。しかも休み休みだ。自慢に出来る内容ではない。でもそれでいい。十分。やっていて楽しいのだから。自然と口笛が出るんだから。今日も日没まで外に出ていた。最後はミヤコワスレの花壇のドクダミを抜くことに専念した。ドクダミは抜いても抜いてもまた生えて来る。することは幾らでもある。一つが終わったら、次が出て来る。あれやこれやして過ごす。

いい一日になったと思う。とにかく楽しくしていられたんだから。農作業がそれだけ進んだのだから。

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苦労を嘗めた人はそれだけ柔軟なようだ ラスト

2018年04月23日 12時18分03秒 | Weblog

よくしてあるなあと思う。そういう所へ導いて行ってもらうように造られている。大学のキリスト教の授業で、「神さまはあなた方が背負いきれない荷物をお与えになることはありません」という教えを聞いた。女性の教授だった。名前はまだ覚えている。その頃、ノイローゼに罹って落ち込んでいた僕には、それがどしんと響いたのだ。

背負える分の荷物が、成長とともに重たくなるということか。重たくなった荷物を重たいと思わなくなって行くのかもしれない。

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苦労を嘗めた人はそれだけ柔軟なようだ その3

2018年04月23日 12時15分06秒 | Weblog

だからかな。苦労は強制させられてしまう。逃げを打てなくなってそこで苦労という労役に従事する。しかし、ずっと嫌だ嫌だを言っている内に腹が据わってきて、嫌だを言わなくなる。そこで錬磨が起こる。磨きが掛かってくる。輝きを己の内に見るようになる。

己の内側で、転換というのが起こるのだ。転じてしまうのだ。

 

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苦労を嘗めた人はそれだけ柔軟なようだ その2

2018年04月23日 12時10分25秒 | Weblog

そういう苦労人を見かけることがあって、考えさせられる。偉いなあと思う。頭が下がる。「じゃ、おまえ、苦労をするか」と言い寄ってこられたら、僕は即座にお断りするに決まっている。苦労は嫌だ。したくない。いい結果をもたらすと分かっていても辞退したくなる。

わたしはまだ出来損ないの部類を抜け出していないようだ。理屈を信用していない。いつまでたっても、じゃじゃ馬をしている浮かれ者だ。

 

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苦労を嘗めた人はそれだけ柔軟のようだ その1

2018年04月23日 11時52分14秒 | Weblog

苦労を嘗めた人はそれだけ柔軟なようだ。我が儘な部分、意固地な部分、尖っている部分が揉まれてしごかれて丸くなるのかもしれない。おだやかで頭も低い。逆上(のぼ)せ者ではない。落ち着きが出ている。他者の苦労を理解できるようになっている。だとすると、苦労が無駄にはなっていないようだ。

 

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死んだ弟がこの頃夢によく出て来る ラスト

2018年04月23日 11時43分21秒 | Weblog

もう夢に出て来なくてもいいよと言った方がいいだろうか。そうかもしれない。僕が思念を持つ度に夢に連れ出されてくるのでは、迷惑をしているかもしれない。安らかであってくれればそれでいいのだ。阿弥陀経では人はみな即その場で往生成仏している。そう説かれている。菩薩や如来様方がお迎えに来て連れて行かれるから迷うこともない。仏さまが嘘をつかれているはずはないのだから、わたしが案じることなんかいらないのだ。

 

 

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死んだ弟がこの頃夢によく出て来る その4

2018年04月23日 11時38分13秒 | Weblog

或る日の夢の中では、弟に若いお嫁さんがいて、こどもが3人いた。どれもやんちゃで我が儘のようだった。お嫁さんにも手こずっている風に見えた。住んでいるところは安っぽい長屋のような処だった。案外、苦労をしているのかもしれない。

そうだったらいけないなあと思っているものだから、それが自己暗示のようになって、貧乏所帯をしている弟を、夢に創造してしまうのかもしれない。ほんとは王様になって宮殿暮らしをしているのかもしれない。ウン、こっちの方がずっといい。

 

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死んだ弟がこの頃夢によく出て来る その3

2018年04月23日 11時33分51秒 | Weblog

死者は何処に居るんだろう? お坊さんもこの疑問には答えてくれない。答えようがないのだろう。でも知りたい。何処に居て何をしているんだろう。

其処は、死んだらいずれ僕も行くところだから、行って見れば、納得が行くはず。もうちょっとの辛抱かもしれないが、そこを知りたい。事前に知らされたら,手の打ちようがあるのに、とも思う。知らない方がいいから知らされていないのだろうか。

 

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