阿弥陀如来の本願のお約束をたのみ、名号(みょうごう)をとなふれば、かならず往生決定(おうじょうけつじょう)とおもひさだむる一念の、信心獲得(しんじんぎゃくとく)する時節を往生とこころうるでさふらふ。この位を平生往生(へいぜいおうじょう)とも、即得往生(そくとくおうじょう)とも、ときたまひてさふらふ。 浄土真宗経典「御書(ごしょ)」より
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ここでは平生往生を説き起こしてある。死んでから往生するのではない、という。生きているいまここで往生が決定しているのだ、という。だから、生きながらの往生ということになる。
阿弥陀仏の国、極樂に往(い)って生まれるのも、いま此処で即刻ということになる。決定してしまえば、そこで完了というのである。なるほど揺るがない安心が此処で出来上がるわけである。名号唱名の一刻一刻が往生成仏なのである。死を待たなくとも阿弥陀如来と遇っているというのである。
平素の暮らしの中でこそ信心が生きて働くのなら、わざわざ死を待たなくともよいということになる。生きているときの信心獲得(しんじんぎゃくとく)と即得往生。こんな安心はあるまい。
信心は己の力量でそうするのではない。阿弥陀如来からそっくり頂戴をするものである。理屈を列べなくてすむ。そこが信心の要でもある。
御書は真慧(しんね)が書いた書物であるが、この説は親鸞聖人の説である。
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此処まで来ると浄土往生の考え方はそのまま禅宗の考え方、密教の考え方に重なってくる。生きている間で得られる安心、これは頼もしい。
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さぶろう、お前はどうだ? と問われている。このさぶろうはしかし、相変わらず火宅の人、無明煩悩の燃え盛る火の海に暮らしている。情けないことにいまだ腹が決まっていない。この分では、往生成仏は死後にまで延期せざるを得ないかもしれない。