もうやすみます。おやすみなさい。
今日も日暮れまで畑の草取りをしました、根気よく根気よく。静かにゆったりと時間が流れました。一日が、山の上の雲のようにふっくら満たされました。
もうやすみます。おやすみなさい。
今日も日暮れまで畑の草取りをしました、根気よく根気よく。静かにゆったりと時間が流れました。一日が、山の上の雲のようにふっくら満たされました。
李白 「少年行」
五陵年少金市東 五陵の年少 金市の東
銀鞍白馬度春風 銀鞍 白馬 春風を度る
落花踏盡遊何處 落花踏み盡くして何れの處にか遊ぶ
笑入胡姫酒肆中 笑って入る胡姫の酒肆の中
長安の五陵は豪族が居を構えているところ。そこに青年らが群れている。よく見るとまだ少年ではないか。贅沢な街路を東へ東へと行く。華やいだ白馬に乗って銀の鞍をつけている。春風が彼らの背中を押す。サクラが舞い散っている。彼らは威勢よく落花の絨毯を踏みつくす。一体どこへ行こうというのだ。目指す場所がある。そこへ満面笑みながら入って行く。青い目をしたペルシャ国の、胡姫のいる酒肆の中へと。
*
少年。白馬。銀の鞍。春風。落花。胡姫。酒肆。これだけのことばの楼門の下を潜って李白の詩の国に凱旋して行く。我は王たらん。いい気持ちだ。
読者の手に渡った詩は、ではどうか。波長が合う、合わないがあって、なんだつまらない、こんなものは詩ではない、と一蹴されることもあるだろう。ぴたりと合って、反応を起こすということもあるだろう。そしてそれが己の内側で未だ一度も起こしたことのない未知の波動だったりして、即座に興奮をすることだってあるかもしれない。
詩とは何か。昨夜から考え続けている。詩は、ひょっとしたら、書こうとして詩になるものではないかもしれない。もっと自然なものかもしれない。いや、書こうと思って意思するものかもしれない。
わたしの書く詩は、詩になっていないかもしれない。そうも思う。その疑念が膨れる。大波になる。ともう書けなくなる。
詩は写実の風景だろうか。美しい異国少女の異国の物語の弾き語りだろうか。リズムを楽しむ音楽なのだろうか。油絵だろうか、墨絵だろうか。彫刻だろうか。社会批判の風刺漫画だろうか。ことばのダンスだろうか。感動たちがが舞台に上がってきて「白鳥の湖」を踊っていたら、観衆はそこに美しい詩を覚えることがあるかもしれない。
昨日の夜から僕は、「詩とは何か?」ということを考えている。詩はこころを動かす。動かし方は静かでもいい。地震のように激しく、でもいい。毛虫の這う草の葉くらいの微動でもいい。ともかくこころを動かして来る。その刺激が我が心に変化をもたらして来る。その変化を楽しむことができる。それが詩かもしれない、などとも思った。書き手がまずともかく地下深くで震動を起こす。その揺れを記録する、するとそれが地震波のようなことばの波動を形成する。そこでおのずから詩が出来上がる。
台所の朝、朝食後、一夜漬けをするために、昨日一日、日干ししておいた高菜を塩揉みした。やや大きめの丸いボールで。塩を振りながら右手の手の平でゴシゴシと力任せに。しなりとなったところで、桶に移して重石を載せた。水洗いした後でも右手がしつこく匂う。青高菜の放つ青臭い香りが、鼻の奥の僕の嗅覚を刺激させて来た。これは四月の香りだ。
4月3日が来ている。爽やかである。照りはちょうどいいくらいで、やわらかい。風はない。庭の姫林檎の花が咲こうとしている。赤い蕾が緑の若芽の間から覗いている。