<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

わたしは反抗ができません。仏説に反抗ができません。

2020年12月30日 17時37分23秒 | Weblog

わたしには、抗って、抵抗して、仏を捻じ伏せるだけの、高邁な智慧はありません。反抗ができません。悔しいことですが、頷くばかりです。

ただただ聞くばかりです。聞いて頷くしかできません。

仏が語られた言葉、経典を開いて、唱えて、それを仏の言葉にして聞くばかりです。

理屈をつけることができません。解釈ができません。それをそうだと鵜呑みして頷くしかありません。

「あなたを助ける」と書いてあれば、助けられるばかりです。「あなたを救う」と書いてあれば、救われるばかりです。それで安心をもらうばかりです。

「それは間違っている」といって刃を振るうことはできません。

決まったとおりに「助けられて行く」しかありません。

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夕方5時半、外は積雪を見た。うっすらとだが。

2020年12月30日 17時32分09秒 | Weblog

夕方5時半。外は積雪した。屋根にも積もった。庭や畑にも積もった。うっすらとだが。

このまま降り続けば、明日の朝、大晦日の朝は一面の銀世界を見ることになるだろう、おそらくは。

風はない。寒い。あたたかいはずの九州の地、佐賀を北国にして、しんしんと雪が降り積もって行く。

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助かってくれよ、救われてくれよ、安心してくれよ、の願いのこもったパワフル語。

2020年12月30日 17時01分13秒 | Weblog

この呪(しゅ)一遍を誦すれば、一切の罪障みな悉く消滅す もろもろの病苦を除き、もろもろの怖畏を離れ、生死の海を超えて、涅槃の岸に至る。    「仏説十一面観世音菩薩随願即得陀羅尼経」より

呪(しゅ)は、十一面観世音菩薩の呪文のことである。呪文は、真言とも陀羅尼(ダーラニー)とも呼ばれる。苦悩する者の苦悩を解き放つ力を秘める。救済のための利他偈文である。力(パワー)を持つ。

ただ一度だけでもこれを読誦すれば、抱えている罪障がその場で掻き消えてしまう。病苦から逃れられる。恐怖心から離れられる。迷いの世界を出て安心の世界に到達する。超えて超えて超えて行くことができる。

超えて超えて超えて行くのである、われわれは。そこを超えて行くのである。此処を超えて行くのである。立ち止まらない。われわれは一時も立ち止まってはいないのだ、ということを教えてくれる。

病を超えて行くのである。苦しみ悲しみを超えて行くのである。迷いの世界(=生死の海)を超えて行くのである。そして最後に仏陀の智慧と慈悲を受領して、涅槃寂静の世界(=仏国土=安養浄土)に入る。

仏教の経典は、「安心していいのだよ」ということを口を酸っぱくして説いている。説き聞かせている。これもその一つだ。

十一面観世音菩薩の呪文、それはこうだ。

「おんまかきゃろにきゃそはか」

助かってくれよ、救われてくれよ、安心してくれよ、という願いのこもった呪文だ。利他する菩薩のパワーが籠もる。

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心は欲深だ、欲しがる。何にも与えられなかったかの如くに。

2020年12月30日 16時32分00秒 | Weblog

どうやったらいいのか。癒やされるのか。

 

癒やされているはずなのに、まだほしがる。

 

昼間は太陽が照らして、夜は星々が輝いて、それでもう十分なはずなのに、十分としない。

与えられて与えられてきたのに、それをそうと見なさない。

 

こころは竹でできた籠なのかもしれない。したたり落ちてしまって、残っていない。

いつも空っぽになっている。

 

補っても補っても乾いている。干からびている。

ポットの中の水を垂らしてみる。注いでみる。

 

こころは欲深だ。ほしがりにほしがる。

やさしい人のやさしい手を欲しがる。そこにそれがあると、癒やされるような気がして来る。

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じゃ、寂しがっているしかあるまい、いつまでもいつまでも。

2020年12月30日 16時15分30秒 | Weblog

雪が、こうもちらちら降ってくると、お爺さんは寂しくなって来る。

誰かに会いたくなって来る。

 

誰でもいいわけじゃない。

といって、誰かでなければならないということもない。

 

相槌を打ってくれる人でいい。わざとらしくなく、そっと、軽く軽く相槌を打ってくれる人がいい。

寒いですねといったら、寒いですねと返してくれればそれでいい。

 

会ってどうするか。どうもしない。

もう少しいたい、いっしょにいたい、と思えるくらいでいい。

 

以上、条件を出したが、条件をかなえる人は見当たらない。

じゃ、寂しがっておくしかあるまい。いつまでもいつまでも。

 

雪が斜めに吹き付けている。少し風があるのだろう。ぼんやりと外を眺めている。

お爺さんはお爺さんらしくない。何年生きても悟っていない。

 

寂しがる。

いない人に会いたがる。やさしいおんなの人、やさしくして語りかけてくれる人に会いたがる。

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さっきしばらく歩いてみた、家の周辺を。

2020年12月30日 15時44分49秒 | Weblog

雪がちらちらちらと平仮名のやさしい形をして降っている。

このまま降り積めば、此処は一面が雪の野原になるだろう。

 

いつも遊びに来る雀たちも、落ち葉の毛布にくるまっているのか、もうなんどきも姿を見せない。

家の中の炬燵に座を占めているばかりでは、季節を体験できないだろうと思って、さっきしばらく歩いて来た。家の周辺を。

 

寒かった。冬を肌身で体験した。

ついでに畑の春菊を摘んで来た。今晩のすき焼きに加えよう。

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