<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

此処でこうわたしが泣いておりますと、

2021年05月13日 15時27分38秒 | Weblog

ああ嬉しい。嬉しい。

 

今日、ある人がわたしの家に、「県文学賞作品集」という冊子を届けてくれました。そのある人の入選作品の載ったページには付箋がしてありましたので、まずはそこから読み進めました。

 

読み進めているうちにわたしの投稿した作品にも遭遇しました。短歌が佳作に選ばれていたようです。

 

 

なんどきか雀は雀をしてをって遊んでをってもう茜空

健康な宇宙が回り太陽と地球が回りわたしが回る

此処でこうわたしが泣いておりますと晴れてくれるんです秋空が

 

 

5首投稿していましたがそのうちの3首が残されていました。

 

 

多久島真理子選者の選評もありました。こんなふうに。賞めて下さっていました。有り難うございます。嬉しくなりました。

 

「独特な語り口で、歌ことばを排した、口語短歌のモード。現実とはすこし離れた宇宙天体、鳥、昆虫に立脚点を置き、それらに意思を持たせ、やがては作者の弱気な心情に添わせるあたり、着地が巧い。今後に期待する一人であり、たっぷりとした容量を持つ一連」

 

ふふ、でも、佳作止まりでしたけど。選者は3人。他の選者の受けがよくなかったのかもしれません。

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僕の書いた今日の詩 「僕は僕なんです、それでも」

2021年05月13日 15時19分04秒 | Weblog

僕は僕なんです、それでも。

 

僕を生きているのは僕なんです。

 

だから、僕が僕の主人公。

 

僕が僕を守っています。

 

僕が僕をリードして行かないといけません。

 

僕は泥沼に足を取られている僕を、しかし、ヘリコプターで釣り上げてもらわずに、僕の力で打開して進んでいこうとしています。

 

僕には僕だけにしか通用しない僕の意思があります。

 

庭にセキチクが咲いています。僕はしばらくはこれを眺めています。

 

 

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わたしの今日の短歌鑑賞、その3。青柿と熟れた無花果。

2021年05月13日 15時04分37秒 | Weblog

彼をそれを堅い青柿と思ひ、彼女は同じそれをよく熟れた無花果と思ふ    松平修文 「トウオネラ」

 

NHK五月号よりピックアップしました。登場しているのは彼と彼女です。若い人なんでしょうね、たぶん。

 

「それ」はそれとしてあって謎です。もしかしたら、それは互いの心の奥に潜む「恋」或いは「恋心」?

 

ともかく彼の方はまだ堅い青い柿のようだと受け取っていますが、彼女にしてみればそれは熟した無花果です。受け取り方が違っています。

 

違っているのなら、喧嘩をしているかもしれませんが、そうではなくて、僕は互いの異質な部分に惹かれ合っている、というふうに考えて読みました。

 

おんなの人からすればもう恋を打ち明けてもらいたくてしようがないけれど、おとこの方からすると、これからをもっと楽しんでみたい。入口と出口にいる二人だから、やや危険と言えば危険ですが、あやうさと恋にはつきものです。

 

 

短歌はこんなふうにも詠める、っていう刺激を受けました。直截な表現ではありませんね、ともかく。しかし、不分明だと深さが深まってきますね、否応なしに。

 

 

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わたしの短歌鑑賞、その2。呼び合って、向かい合って。

2021年05月13日 14時46分15秒 | Weblog

やっぱりNHK短歌五月号から一句取り上げて、わたしの短歌鑑賞を続けます。

 

呼びあってようやく会えた海と椅子みたいに向かいあってみたくて

笹川 諒 「水の聖歌隊」

海と椅子は呼び合っていたらしい。そこで永らく呼び合っていたらしい。椅子は海辺のテントの内側に置いてある椅子。だから幾ばくかの距離がある。

もしかしたら海にいて泳いでいる人と、椅子に座って眺めている人なのだろうか。

ともかく両者は呼び合っている。向かい合って声を掛けあっている。そういう間柄だ。

 

 

呼び合っていたいのだ、人間と人間は。向かい合っていたいのだ、人間と人間は。距離を縮めてもいいし、縮めなくてもいい。ともかく相手を消去しないでいたいのだ。

 

これは恋人同士なんだろうね。それをわざわざそうではない風に詠んでいる。そうした方が普遍性が広がってくるだろうから。

 

 

短歌は感情が籠もっている。蒸し風呂のように蒸し蒸ししていて先が見えてこない。それを掻き分け掻き分け、向こうの風景が見えるように詠んである。

 

 

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わたしの短歌鑑賞。この人の時間に入り込む。

2021年05月13日 14時31分34秒 | Weblog

このひとのこの世の時間の中にゐて額(ぬか)に額あてこのひとに入る      河野裕子  

NHK短歌5月号にこの歌が紹介されていた。手が止まった。

 

「このひと」というのはどんな人? 好きな人? しかしそうではないらしい。高齢の母親のことらしい。

 

母親は高齢だけど、まだこの世の時間を過ごしている。そこへ入って行く。母親はどうも熱を出しているらしくて、幼い頃に母親にしてもらったように、額にぬかを付けて熱を測ったというのである。

 

死んでしまったらこの世の時間を出てしまう。だったら、この世の時間にいるあいだに、同時に等しくこの時間内に侵入して共有していなければならない。そこで、その世界にすっと入って行ったというのであろう。

 

このひと、つまり母親はもしかしたらもう作者が額を当てているということにすら気づいていないのかも知れない。無自覚かもしれない。そうであれば、どんどんと奥へ奥へ入り込んで行かねばならなくなるだろう。

 

「このひとのこの世の時間」を共有共用するにはどうすればいいか。互いの垣根を取り外して、一線を越えていかねばならない。素足のまんま、ずずずずっと入り込んでいかねばならない。

 

ふふ、僕は最初勘違いをして読んでしまった。「このひと」を異性にして読んでしまった。卑猥な読み方をしてしてしまった。ああ、高齢で死にそうな母親だと分かって、読みが一変した。

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灰色の雲が頭上を半分ほど覆っている。

2021年05月13日 14時11分43秒 | Weblog

午後2時を過ぎた。からりと晴れていた空が、そろろそろりと崩れて、いまは曇り。灰色の雲が頭上を半分ほど覆っている。この分だとまもなく雨になりそう。

 

昼のご飯を食べた後はゆっくり読書をして過ごしている。ご飯を食べていた頃は快晴で気温も上がっていたので、長袖の下着を脱いで半袖にした。いまはその上に長袖シャツを重ねた。

 

午前中、退屈を覚えて、ふらりとドライブに出た。出たのはいいが、行くところがない。人を訪ねるのも億劫だ。第一、いまはコロナ自粛だから、邪魔にされるのがオチだろう。

 

で、結局は苗物屋さんに落ち着いた。薩摩芋の蔓を探したが、あいにく売り切れてしまっていた。オクラの苗を4株だけ買って来た。オクラは花も実もどちらも好きな植物である。

 

雨が降り出してこないうちに、だから、オクラの苗を植え込む仕事が待っている。そうしてもいいが、腰が重たい。急ぐほどのこともないから。そこで、今日届いた葉書の返事を書いた。

 

わたしの短歌の指導的役割をしてくださっている方がただいま入院中である。病院の部屋番号まで書いてある。返事をくれということだろうと推察した。もうずいぶん元気回復のよう。

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