さ、また外に出よう。
ままごと遊びに興じよう。
この老爺のやっていることは三歳児のままごと遊びの領域の内側。
野良仕事という砂遊び、土遊び。ほっかりほっかり。
畑に、黒大豆の種を植え付けようかな。
種物屋さんで買って来た。1袋で480円もした。どうぞみな発芽して下さいね。
さ、また外に出よう。
ままごと遊びに興じよう。
この老爺のやっていることは三歳児のままごと遊びの領域の内側。
野良仕事という砂遊び、土遊び。ほっかりほっかり。
畑に、黒大豆の種を植え付けようかな。
種物屋さんで買って来た。1袋で480円もした。どうぞみな発芽して下さいね。
お昼は釜揚げうどんだった。
丼の底に鰹節を2袋も敷いてもらっていた。
お醤油だけで、つるつるつると啜って食べた。
おいしかった。
寒い日は素麺や冷や麦を食べるが、寒い日には熱々のうどんがいい。
天使。天のみ使い。天からの使者。
天界と地上界を結びつける役割をしてくれる存在。
☆
神様と人間の間にいてそれぞれの言語や思想を双方に翻訳してくれている翻訳者。
或いは実行部隊員。救済しようとする神の意志を、実行してくれる実行実演者。
英語ではangel。エンジェル。訳して天使。天(あま)つみ使い。
☆
目に見えているエンジェルには背中に翼がある。
目に見えていないエンジェルだっている。でもやっぱり神の意志を内在させていて、これを行使してくれる役目についている。
翼が見えないが、明らかに天使ではないかと思える存在にも出遭う。
そういうふうな目で見ていると、この人はたしかにその役目の人に違いない、などと思ったりもする。
そんなふうに思わせないで、そこに居てくれたりもする。
その人の助力があって己が此処にいるんだなあなどと、後で回想することもある。
☆
自力ではなくて他力だった、己の力だけではできなかった、明らかに助けが入っていた、などと思うような出来事もある。
☆
仏教では「天使」とは言わないで、「化身」と呼んでいる。仏さまの化身、もしくは分身。「天」「天王」「明王」「権現」「菩薩」などと名を変えて出現されることもある。やはり仏さまの意思を酌んだ実行部隊員である。衆生救済の任務に就いて行動される。徹底して守護をし、良い方へ良い方へと導いてくれる。
☆
いつもわたしの傍に居て下さっているが、目には見えない。目には見えていても、そうだとは気づかない。気づかせない配慮がしてあることもある。
☆
名前はどっちでもいいけれど、とにかくわたしを守っていてくれている。導いている。助けてくれている。
己の力でものを為しているとわたしは思っているのだが、実はそうではなかった、すべてわたしにそれをなす為の力を授けられたいただけだった、ということに気づかされる時が来る。
☆
安心をしていていいのだよ、恐がらなくていいのだよ、と天使が耳元にささやきかける。
生まれるのも安心の中、生きても安心の中、死んでも安心の中なのだよ、と菩薩が語りかける。
うふふ。うふふ。
何がうふふ?
うん、なんとなく。なんとなくのうふふ。
僕一人にだけこっそり贔屓をしてもらっているのではないか、という疑い。
なんとなくの疑い。
☆
ほんとうはもっともっともっと、うふふふをしていいのかもしれない。
この世に誕生をさせてもらったってことは、誰かがこっそり僕だけを贔屓にして特別扱いをしてくれてたからなんじゃないかな、という疑惑が湧く。
そうではなくても、僕はとにかくこの世に誕生をした。それを許された。そしていま五月の風を受けている。
その事実を、僕はもっともっと嬉しく噛みしめていいんじゃのかな、ってふっと思う。
☆
あれこれ<損をしている>ように思うことがあるけれど、その同じ回数くらい、<得をしている>ように思っていいことがいっぱいあるんじゃないのかな。
<自分だけが損をしている>っていう感情と、その逆の、<自分だけがたっぷりたくさん得をしている>っていう感情。二つの相反する感情が交錯する。
うふふ、うふふ。これは後者。
<自分だけが愛されている>という受け取りができたときに生まれる微笑。
誰から?
誰からかは定かではないが、とにかく。その事実がある。
☆
もしもその事実がありながら、それを認めないでいるとしたら、これもまた不都合なことじゃないかな。
夏ツバメがすいすい飛び交っている。
僕はそれを見ている。元気よくすいすいすいと飛び回っている。
僕に見よ見よ見よという具合に。
僕はそれを見て元気を起こす。明るい感情を呼び戻す。
そして、うふふになる。
☆
なにも僕にだけ見せているのではあるまいが、僕にだけ幸福を運んで来て見せているような錯覚に陥る。
この世には幸福がある。気づく気づかないにかかわらずたくさんお幸福がある。幸福がツバメになって語りかけて来る。
あのね、きみは幸福な人間だよ、特上の幸福を感じられるだけの人間なんだよ、って語りかけて来る。
☆
僕は、うふふになる。
さ、作業着に着替えよう。
寒そうだから、ジャンパーも着込んでおこう。
日は照ったり照らずに隠れたりしている。
種から蒔いて育てていたトマト苗がようやく移植してもいいほどに成長した。
小さな種蒔きようポットから白い根が食み出してきている。
畑に移植をしてあげよう。
よろこぶだろうな。
僕を神様くらいに思って崇めるだろうな。
やあ、やあ。
なんてことになるのだろうか。
死んだ先でも。
☆
人は肉体と幽体と霊体の三つのボデイを乗り回している。もっともっとあるかもしれないが。
☆
肉体が死んでも、幽体と霊体が残って、これを補ってくれる。
幽体はこころ(heart)のボデイ。霊体は魂(soul)のボデイ。もう一つspiritのボデイ精神体の「神体」もありそうだ。
☆
命は豊かなのだ。そうそう壊滅することはない。
Aの次にはB、Bの次にはC、Cの次にはDといった案配に、転回して行く。幾つものステップがある。幾つものステージがある。
☆
なぜだ? なぜそうなるのか?
宇宙生命体だからだ。
われわれは生きている宇宙の生命体なのだ。そのセパレイトなのだ。
☆
宇宙生命体は統合と分散独立を繰り返している。
独立する力が弱体化すれば、統合に移行する。そこでまた力を溜めて独立へ向かう。
☆
ミクロの目で見ると肉体の死があって、それがまるで全体生命体の死のように受け取られる向きもあるが、マクロの目で見るとそうではない。飛び石の石の1個を飛び越えたくらいなのだ。
ミクロの目の奥にはマクロの目があるのだ。
それを取り戻してみると、まったく別の風景だって見えてくるのだ。
人は死なねばならない。肉体を死なねばならない。
でもそれは、生きたから。生きることができたから。
お借りしていた肉体をお返しをするときが来る。
欲張ってはいけない。お返しして元の命の1に戻る。
生きることができたのだから、死ぬこともできる。
生まれて来なかった人には、死も授からない。
そうなんだ、生も死も授かりものだったんだ。どちらも、己の意思の及ぶところではない。
及ぶところでなければ、お任せしかない。
ともかく、こうやってお任せをしていれば、最善を尽くしてもらえるのだ。
一任された信頼に応えて、「一番いいこと」「わたしの最上最高最良」を組み立てて下さっているのだ。寸分の狂いもなく。
じゃ、にこりにこりしていよう。若葉に降り注ぐ光のように。遊んで跳ねて。
今日から5月。今日から5連休。周りの山々の新緑がいよいよ緑を深くする。
連休といっても、一年中いつも休日の老爺には、不変。変わるところがない。
このところ連日、雨が降ったり止んだり風が出たり雷が鳴ったりしている。気温は低め。軽症の春の嵐か。
庭に大山レンゲの白い花が咲いている。花房は純白で小さい。地味。新緑の若葉がこれを隠そうとする。
時刻は9時半を回る。大地は光であふれているが、ヒューヒューと風の音がしている。首の長い金魚草が大きく傾く。
遅い朝ご飯を食べた。8時過ぎに。卓上に玉葱の味噌汁。新玉葱がおいしかった。もちろんこれは我が家の畑の産物。口に含んだだけで元気になれる。
晩生の玉葱が畑の一角に育っている。赤玉葱も育っている。収穫にはもう少し日にちが必要だろう。