<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

大塚文彦先生の現代文の授業をもう一度受けてみたい。

2022年06月01日 16時00分15秒 | Weblog

わたしは幸せ者である。

 

大塚文彦先生がわたしを見ていて下さったのである。

 

高校一年生の頃のわたしを。

 

ことさらにわたしだけをそうされていたはずはないが、わたしはわたしを見ていて下さっている先生の目を感じていたのである。

 

否定の目ではなく、肯定の目を。

 

で、わたしは得意の目をしていることができたのである。

 

先生に肯定されているという、その得意顔の、目をしていられたのである。

 

先生はわたしたちに国語の現代文を教えて下さった。

 

そのお陰で、その時間の間は、わたしは現代文が得意になっていられたのである。

 

先生は、「きみだったら、この質問に答えられるだろう」という目を向けて来られるのである。そして、答え終わると、「それでいい」と言って下さるのである。いつの時間でも、この先生の方針は不変だった。

 

それでは間違っている、という場合もあったはずである。間違っているという指摘ですらも、わたしの素直な感情、先生に愛されているという感情が、「それでいい」に聞こえてしまうのである。

 

わたしは幸せ者である。そのときも幸せだったが、過去形ではなく現在形で、それから60年が経過していても、それでもそれが引き継がれているのである。

 

 

そういうことを今日は思って過ごした。

 

これはわたしだけの、もしかしたら、ただ少年らしい思い入れだったのかも知れない。

 

大塚文彦先生の現代文の授業をもう一度受けてみたくなった。

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腰の両側に蚊取り線香をぶら下げて。

2022年06月01日 15時54分39秒 | Weblog

さ、そろそろ、外に出るか。

 

16時。こころもち曇って来た。

 

日照りではなくなった。

 

北の畑に出て野良仕事をしよう。

 

南瓜苗を3株買って来ている。3種類の。

 

草を取って、耕して、これを植え付けよう。

 

7時までは作業ができる。北の畑の半分はまだ草藪だ。

 

椅子に座って、農具を動かして、ゆっくりゆっくり作業しよう。

 

ただ、蚊がいる。これに煩わされる。

 

蚊取り線香を腰の両側に下げて対処しよう。

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そんなケハイを感じる。大塚文彦先生を感じる。

2022年06月01日 15時35分04秒 | Weblog

大塚文彦先生のお子様がどこかにいらっしゃるのだろうか。

 

いらっしゃるはずである。

 

そして、先生に代わって、わたしのブログを読んでいてくださっているのかもしれない。

 

そんなケハイを感じる。

 

嬉しいケハイである。

 

 

人から肯定されているという漠然とした感覚は、漠然としているが、嬉しい感覚である。

 

ほんのしばらく、それも授業の間だけ、わたしは大塚先生から肯定されて過ごすことができた。

 

わたしを発掘してくださっていた。丁寧に土の中から掘り出してもらっていた。

 

間違った解答をしても、それでもちゃんと受け入れてもらっていた。それを感覚が理解していた。

 

それからもう60年が経っているというのに、そのときの肯定感、大掴みにぐいと肯定をされているという感覚は、いまでも流れ去って行っていない。わたしをいまだにあたためている。

 

好かれていたのだ。先生に好かれていたのだ、そのときのわたしは。先生は僕という田舎坊主の、生意気生徒の、生意気国語理解を大切に育てていて下さっていたのだ。

 

わたしも高校の教師となったが、わたしは大塚先生にはなり得なかった。生徒をそんなふうに理解し肯定してあげたことがなかったように思う。それを恥じている。

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ジャガイモ畑の初収穫。

2022年06月01日 15時25分05秒 | Weblog

昨日、夕方、北の畑のジャガイモを初収穫した。

 

2株だけ。

 

2列ある。そのうちの1列の。

 

地上部が枯れていたので、堀りどきを迎えていた。

 

さっそく夕食のテーブルにジャガイモが列んだ。

 

ボイルしただけの。

 

薄い皮はするすると剥けた。スプーンでバターを塗って食べた。

 

うはうはになった。

 

今夜はスマッシュドポテイトーのサラダらしい。これも楽しみだ。それに加える胡瓜も昨日初収穫した。赤玉葱も収穫済みだ。

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高校時代の国語の先生、大塚文彦先生を慕う。

2022年06月01日 15時01分56秒 | Weblog

大塚文彦先生。わたしの国語の先生。高校一年生のときの。現代文を担当して下さった。島崎藤村によく似ていらっしゃった。もう50代後半ではなかっただろうか。

 

決して大声を出されない。でも、みんなしんとして耳を傾けていた。われわれやんちゃ坊主たちは、すういと先生の井戸の底に引き込まれていたのだった。

 

わたしは国語の授業が楽しみだった。先生が好きだったからだろう、きっと。生徒に質問をされる。で、最後に、「では、さぶろう君、きみはどうだね?」とわたしを指名される。

 

わたしは得意げに答える。先生は、「それでいい。それでいい」と言われる。涼しげに言われる。わたしはますます得意げになる。得意げは、責任重大だ。明日の授業でも先生の「それでいい」を確保しなければならないからだ。

 

わたしは復習を怠らない。予習もしておかねば次の授業にでも出られない。お習いしている現代文の作者についても調べたくなる。つけあがる。理解が深まったような錯覚に落ちる。

 

わたしは先生をお慕いした。男性と男性であるから、恋心ではない。先生をお偲びすると、いまでも先生はわたしの顔を見て「そうだよ」と肯定をしてくださるような気がしている。

 

わたしは結局は高校一年生の時だけ先生にお習いした。しかし、2年次も3年次も、その後も、先生の教化の国語がわたしを誘惑して止まなかった。

 

わたしはそれから60年経過した後も、その路線を降りていない。先生の電車にまだ乗っている。今生きておられたらとうに100歳は超えておられるかもしれない。

 

卒業後、先生の家を訪ねたことがあった。そこはお寺だった。しかし、先生はもうそこには住んでいらっしゃらなかった。推定だが、子供さんに呼ばれて遠くへ行かれたようだった。

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