わたしは幸せ者である。
大塚文彦先生がわたしを見ていて下さったのである。
高校一年生の頃のわたしを。
ことさらにわたしだけをそうされていたはずはないが、わたしはわたしを見ていて下さっている先生の目を感じていたのである。
否定の目ではなく、肯定の目を。
で、わたしは得意の目をしていることができたのである。
先生に肯定されているという、その得意顔の、目をしていられたのである。
先生はわたしたちに国語の現代文を教えて下さった。
そのお陰で、その時間の間は、わたしは現代文が得意になっていられたのである。
先生は、「きみだったら、この質問に答えられるだろう」という目を向けて来られるのである。そして、答え終わると、「それでいい」と言って下さるのである。いつの時間でも、この先生の方針は不変だった。
それでは間違っている、という場合もあったはずである。間違っているという指摘ですらも、わたしの素直な感情、先生に愛されているという感情が、「それでいい」に聞こえてしまうのである。
わたしは幸せ者である。そのときも幸せだったが、過去形ではなく現在形で、それから60年が経過していても、それでもそれが引き継がれているのである。
☆
そういうことを今日は思って過ごした。
これはわたしだけの、もしかしたら、ただ少年らしい思い入れだったのかも知れない。
大塚文彦先生の現代文の授業をもう一度受けてみたくなった。