<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

六月の僕の詩 「声」

2022年06月08日 15時53分50秒 | Weblog

 「声」

 

四方八方から僕をめがけて

風の中を飛んでくる声があります

声だから

本来カタチはありません

でもカタチを取ることもあります

その方が伝わりやすいからです

 

声が凜とした声を出します

それを少年の僕が耳で聞きます

「きみを好きだよ 僕は」と

そう言いますどの声もどの声も

伝えたいことが伝わります

 

僕は郭公の鳴く森に来ています

声が雲になって浮かんでいます

滝が谷川に落ちてはしゃぎます

夏風が来て梢をくすぐります

たくさんのたくさんの声の中で

僕は僕の六月を過ごします

 

 

この詩をN新聞の読者文芸に投稿していました。佳作になっていました。1席だけが活字になりますから、タイトル名と作者名だけがありました。ブログの読者にも読んでいただきたくなりました。

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「火の車作る大工」

2022年06月08日 15時33分58秒 | Weblog

 「火の車作る大工」

 

 「火の車作る大工はおらねども己(おの)が作りて己が乗り行く」わたしの父の母、つまりお婆さまは、わたしら子供たちに、「悪いことをしたらいかんぞ」ということを、この名言を引いて、教え諭した。「火の車」とは人生の不幸事、地獄の責め苦の比喩だろう。苦しんだり泣いたりするその悪運悪果の原因は自己が責任を負っている、「ゆめゆめみずから進んで悪事に走るなよ」と。

 さてさて、せっかくのお婆さまの説法だったが、わたしは人生で幾度も幾度も不幸に見舞われた。怪我や病気にも苦しんだ。その「火の車」の原因を作って、幾多の重たい結果を引き受けることになったのだ。お婆さまがまだ生きていたら、そんな因果の法則、自業自得の道理なんかは持ち出さずに、ただただいっしょに涙を流してくれたに違いない。

 しかし、なぜこうもたくさんの火の車を作ってしまったんだろうか。そこを過ぎてみて思うことだが、これはこれで大事な役割を果たしてくれたように思う。地獄に下りてそこでたっぷり苦しんで泣いて、そこを超えて出ることができたのだから。

 夏空は青空。老いと病が、朝の光の中で、静寂と休息の椅子に座っている。里山の森では不如帰(ほととぎす)の声。

 

***

 

このわたしのエッセーが、今朝、S新聞の「おとこの星座」欄に掲載された。5月12日に投稿していた分である。

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夕食を美味しく頂くために、畑に。

2022年06月08日 15時10分47秒 | Weblog

空が、やや曇り気味。照ったり翳ったりを繰り返している。それでも、外気温は29℃。畑に出て行ける条件ではない。

 

でも、4時頃には思い切って出て行こう。

 

北の畑が、その4割方は草の藪だ。繁茂して根が深くなって、スコップでないともう根まで掘り上げられない。

 

一日の内、わずかでも野良仕事をしておくと夕食がおいしくなる。

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