眠りに行くのではあるまい。極楽浄土まで行って、そこで安眠を貪って過ごしているのではあるまい。
もしそうなら、死後の世界の、極楽浄土というところは魅力に欠けるなあ。
死は眠りではない。目覚めである。
往生成仏したら目覚めが起こるのである。仏陀としての目覚めが起こるところが極楽浄土である。
だからわれわれは、じっと死んでなんかいない。いままでの百倍も千倍も生き生きと生きることになるのである。生きて生きて、目的意識に燃えて、光り輝くことになるのである。
歓喜雀躍が起こるところが極楽浄土である。
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この話は、わたしの勝手な推測なのだが。
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惰眠を貪りに行くのなら、わたしは極楽浄土になんか行かなくていい。いまも楽寝をほしいままにしているのだから。
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