直枉 じきおう 枉〈まが〉れるを直〈ただ〉す
「仏法は直枉の法なり」とは聖徳太子の言である。
わたしの間違いを正してくれるのは仏法である、と。
わたしの判断はわたしの都合が判断の基準になっている。だから自分好みである。好きか嫌いかのそれである。利益になるかならないかのそれである。
当てにはならないのに、それを当てにしている。その場その場その時その時でどうにでも変わる。曲がって歪であるが、そうであることにさえ気が付かない。これをわが分別智としている。
分別智は憎ければ殺していいと判断する。強い者が弱い者を裁く。従わなければ弾圧する。弾圧されれば、報復する。国益を守るためなら戦争をしてもいいと考え、それを正義の戦いとすることに躊躇しない。間違いと判断する者は国家から封殺される。人心は荒廃し、世は戦場となり、血塗れの地獄となる。
これは、聖徳太子の頃の世情も現代の世情も類似していよう。
「仏法は直枉の法なり」とは聖徳太子の言である。
わたしの間違いを正してくれるのは仏法である、と。
わたしの判断はわたしの都合が判断の基準になっている。だから自分好みである。好きか嫌いかのそれである。利益になるかならないかのそれである。
当てにはならないのに、それを当てにしている。その場その場その時その時でどうにでも変わる。曲がって歪であるが、そうであることにさえ気が付かない。これをわが分別智としている。
分別智は憎ければ殺していいと判断する。強い者が弱い者を裁く。従わなければ弾圧する。弾圧されれば、報復する。国益を守るためなら戦争をしてもいいと考え、それを正義の戦いとすることに躊躇しない。間違いと判断する者は国家から封殺される。人心は荒廃し、世は戦場となり、血塗れの地獄となる。
これは、聖徳太子の頃の世情も現代の世情も類似していよう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます