<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

死後の我等は、安楽を貪って、お昼寝を続けたりはしていない。

2024年11月22日 14時21分39秒 | Weblog

阿弥陀経経典の中に「倶会一処」の句が出て来る。

われわれは死後に「倶に一処にて会う」ことができると説かれている。

「一つの場所」とは、阿弥陀如来が建設された極楽浄土のことである。

ところがその一つの場所の広さについては触れられていない。

わたしはその場所、極楽浄土は広大無辺な場所だろうと思っている。すくなくとも銀河宇宙の広さくらいはあるだろうと思っている。だとすると、死後に両者がそこでずっと<手を取り合って会っている>ということにはならないのかもしれない。

わたしの勝手な理解では、われわれは自己完成を求めて次へ次へ次へ次へ、前進前進して、死後も、一箇所にじっと立ち止まってはいない、だろうと推量している。

だから後から来る人を同じ場所(=極楽の入口辺り)で長く待っていたりはしていないだろうと思っている。薄情に見えるが。

「安らかにお眠り下さい」と葬儀の折のお別れの言葉に付け加えるけれども、さて、どうだろう? 死後は眠りの時間だろうか?

われわれは、目覚めたのである。悟りは目覚めなのである。自己を仏陀として目覚めを起こしたから、成仏が果たせたのである。それが往生成仏の証明である。

だから、安楽を貪ってお昼寝を続けたりはしていない、はずである。新しくやるべきこと、仏陀となって、するべき利他行が見つかって、その実行実践で、活動に忙しくて、意気揚々、大活躍をしているはずである。

後で極楽浄土に往生できた人を迎えて一度二度くらいは抱き合ったりもするかも知れないが、そこで両者とも満足はしていないで、次の行動指針を得て、すぐさま次のステップへ向かって飛び回るようになる、そんな想像を、わたしは(勝手にだが)している。

「倶会一処」は慰安(慰め)を意味していない。仏陀としての利他の活動拠点を一つの極楽浄土にする、という意味なのではないか、とわたしは勝手に推測をしてみるのである。

 

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