午前中は雨。午後からも雨。それで古湯温泉の隠れ家に遊んで来ました。わたしと同年配くらいのお爺さんたちが<ぬる湯>につかって裕福なお猿さんのように「ゆっつらーと」しておられました。「ゆっつらーと」は佐賀弁です。「ゆっくりと」です。わたしもできるだけそうしていようとしましたが、40分が限界でした。里芋のようにとろけてしまいました。
午前中は雨。午後からも雨。それで古湯温泉の隠れ家に遊んで来ました。わたしと同年配くらいのお爺さんたちが<ぬる湯>につかって裕福なお猿さんのように「ゆっつらーと」しておられました。「ゆっつらーと」は佐賀弁です。「ゆっくりと」です。わたしもできるだけそうしていようとしましたが、40分が限界でした。里芋のようにとろけてしまいました。
所欲害身者 念彼観音力 「妙法蓮華経観世音菩薩品第二五」より
しょよくがいしんじゃ ねんぴかんのんりき
いまし身を害されんとすれば、彼(か)の観音の力を念ぜ。
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「所」は受動態にする助詞。「欲」は進行形にする助詞。「者」は仮定法にする助詞。
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身に危害が加わろうとしているのなら、そこですぐさま観世音菩薩とその救出する力に思いを致しなさい。
方策があるのである。わたしには対抗策があるのである。超えて行く方法があるのである。打ち勝っていく手立てがあるのである。観世音菩薩をこころに思い浮かべることがそれである。念ぜよ。観世音を念ぜよ。ひたすら念じて安らげ。
それから先は観世音菩薩のお仕事である。信頼をしていればそれでいいのである。
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害身の実態はないということがわかるであろう。観世音の世界に踏み込めばそこには現世の害身はない。実態はない。空ということが体現せられるであろう。空を導き出すためであったのだ、それは。
観世音菩薩はわたしを導いて導いて、とうとう仏界に導き出してくる。空の世界に導き出してくる。平安な仏界へわたしの足を踏み入れさせる。そういう力を持っているお方である。
空は無執着である。空は絶対平安界である。わたしを放下してしまえるところである。
どなた様もおはようございます。曇り空がやや明るくなって来ました。日射しと言うべき日射しはまだありません。草ホトトギスが庭先に咲いています。地味な花ですね。濃い紫をしています。asakawaさんのように写真の技術があればここに取り込んでみせられるのですが・・・。
野生の花は何を考えているのでしょうね。感情というのがあるのでしょうか。終日同じ表情をしています。ということは? 落ち着いていられるということですよね。わたしたちには感情作用があって、揺れています。不安になったり安心をしたりしています。人間も座禅を組んでいるときには草ホトトギス状態です。
草ホトトギスばかりではありませんね。野原のススキも竜胆も、小川のジュズダマもミゾソバも、森林の落葉樹も針葉樹も、みんな座禅をしています。座禅なんか組んでいないように見えているのですが、安定を見ています。さぶろうのように煩悩によって掻き乱されるということがありません。彼らは楽ちんだなあと思います。
これから日本シリーズ広島カープ対日本ハムファイターズの第三戦を見ます。今は1回の裏。広島は今季限りで引退する黒田が投げています。日本ハムの大谷がバッターボックスに立ちました。ツーベースヒットを打ちました。さすがです。今夜はこの第三戦をに釘付けです。4番中田が打って三塁から一人がホームイン。日本ハムが先制点を挙げています。
6)しょぼんとしょぼくれたり、こうして元気を涌かしたり、この男さぶろうは変ですね。劣等感の塊になったり優越感の塊になったり、この男さぶろうは気が狂っています。
5)わたしはそんなことはしませんが、わたしを透かせばわたしはあっさりした淡泊な光になっているはずです。仏さまがご覧になればそれがちゃんと見えているはずです。法華経を呑み込んだ人間は光り輝いているはずです。これで凱旋が出来ます。仏さまの国に意気揚々と凱旋が出来ます。
3)わたしは法華経を理解しているのではありません。鵜呑みしているだけです。鵜が魚を丸呑みしているようにぐるっと呑み込んでいるだけです。まだ咀嚼はしていません。牛の胃袋のように反芻しては大声で読み上げています。唯仏与仏。仏さまでないと法華経の真義は分かりません。わたしは分からなくていいのです。仏さま方が分かっておられるだけでいいのです。
2)といいましても、法華経に通じているわけではありません。それは次の任務、次の仕事になります。ともかくこれに出遭ったというところまでで十分だったのです。40歳で出遭って50歳で法華経が説かれた霊鷲山の山頂に辿り着きました。これはインドにあります。お釈迦様がここで法華経を説かれました。
1)そうでした、そうでした。わたしは法華経に出遭うことで今生なすべきことが終わっています。それ以上はありません。それ以外を望むことは無用になっています。わたしは法華経に出遭いました。これでわたしの全部です。今朝、わたしはコンプレックスの塊だと言うことを告白しました。でもこれから逃れることも予定には入っていません。そうでしたそうでした。法華経でわたしの今生のすべてが成就していたのです。