いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

昨日の藤井二冠-4/16

2021-04-17 16:25:40 | 将棋

 第34期 竜王戦 2組ランキング戦 決勝

 2021/04/16(金) 22:23終局

 VS 八代弥七段

 107手で勝利!

 

 日時の確定している次戦は、

 第80期 順位戦 B級1組 1回戦(持ち時間:6時間)

 2021/05/13(木) 10:00開始

 [先手] 藤井聡太二冠
 VS

 [後手] 三浦弘行九段

 

   

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<苺> かおりん

2021-04-17 08:21:30 | 食品

 「かおりん」

 基礎データ DATA
 親の組み合わせ:「ふくあや香」×「ゆめのか」
 品種登録年:2019年(平成31年)

 かおりんの特徴
 「かおりん」は2019年(平成31年)に品種登録された埼玉県のオリジナル品種です。正式名称は「埼園い1号」で、「かおりん」という名前は愛称になります。「ふくあや香」と「ゆめのか」の交雑実生から選抜・育成されました。

 母親の「ふくあや香」は福島県が育成した品種で、鮮やかな紅色で甘酸がほどよく調和し、果実がかたいのが特徴。そして父親の「ゆめのか」は愛知県が育成した品種で、果実がややかためで食味のよいいちごです。

 なお、埼玉県ではかおりんと同時に「あまりん(埼園い3号)」という品種も育成し、同時に品種登録しています。これらの愛称は埼玉県出身の落語家、林家たい平さんが名付け親となっています。あまりんの詳細ページはこちら。

 小さめの果実で濃厚な味
 かおりんは果実が円錐形で光沢があり、サイズはやや小さめ。果皮は鮮やかな紅色で、果肉は淡い赤色になります。果皮も果肉もかたくて食味がよく、甘味と酸味が強くて濃厚な味わい。名前に「かおり」があるように、香りもよくてジューシーです。また、「炭疽病」や「萎黄病」といった病気に対して抵抗性がある点も大きな特徴になります。

 収穫時期はやや遅めの12月後半くらいから5月頃まで。かおりんとあまりんは、埼玉県の観光農園や地元の直売向けに作られた品種なので、春のいちご狩りや観光地での活躍が期待されています。

 かおりんの選び方(見分け方)
 へたがきれいな緑色でピンとしていて、果皮に張りがあるものが良品です。かおりんの果皮は鮮やかな赤色~濃赤色をしているので、多少濃いめの赤色をした果実でも問題ありません。

また、香りのよい品種なので、甘い香りが漂っているかもチェックしましょう。

 
 かおりんの保存方法
 購入時のパックのままポリ袋に入れるなどして冷蔵庫の野菜室へ。その際、冷気が直接いちごに当たらないようにするのがポイントです。

 かおりんは果皮も果肉もかたく、ほかのいちごに比べると日持ちがよいほうですが、よく熟している果実は早めに食べるのが基本。気温の高い場所に長時間置くと傷みやすいので注意してください。

 
 かおりんの食べ方
 香りの強いかおりんは、さっと流水で洗ってそのまま食べましょう。甘みと酸味が調和したかおりんの濃厚な味を堪能することができます。

 ほどよい酸味があるので、ジャムに加工してもよいでしょう。またケーキやタルトなどにも最適。やわらかくなってしまったものは、スムージーやいちごソースにしてもおいしく味わえます。

 かおりんの旬(出回り時期)
 かおりんの収穫時期は12月頃から5月頃。基本的には晩生種なので、1月以降に収穫量が増えます。

*https://www.kudamononavi.com/zukan/strawberry/kaorin より

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<言 葉> 春の言葉 春日遅遅

2021-04-17 07:59:10 | 言葉

 「春日遅遅」

 「春日遅遅」とは、春の日が長く、暮れるのが遅いさま。春の日がうららかでのどかなさま。▽「遅遅」は日が長く、のどかなさまをいう。

*goo辞書 より

 

 言葉の並びから、「春の日」は遅く遅く暮れていくという「イメージ」が伝わる言葉。

 日々「日長」になり、夜の訪れを待ちわびる雰囲気が伝わる。

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-MALTA

2021-04-17 07:40:40 | MUSIC

 「MALTA」

  1949年9月19日生まれの71歳

 よなごびと第25回「MALTAさん(サックス奏者)」
 ” 自分が手本となって鳥取の音楽レベルを上げたい ”

 MALTAさんは中学生のころにアルトサックスを始め、地元である倉吉市から東京藝術大学へ進学しました。卒業後はジャズの名門・米バークリー音楽大学へ。同校で教鞭きょうべんをとった後、ニューヨークで演奏活動を展開し、数々の楽曲を制作するなどサックス奏者として世界的に活躍してきました。

 しかし、インターネットの普及した今、活動拠点はどこでも構わないと考え、昨年、ご兄弟の住む米子に移住されました。

 移住後は地域のイベントに数多く出演するなど精力的に活動しましたが、新型コロナウイルスの影響で多くのコンサートやイベントが中止に。「今は我慢のとき。ただ、アーティストは発表の場を失うと徐々に腕が落ちてしまう」と、コロナ禍での困難を感じる一方で、「観客がいてこそ良い演奏ができる。もう少しでお客さんは戻ってきてくれると思う」と前を向きます。

 今年9月にはMALTAさんが作曲し、米子市出身の声楽家・山本耕平さんが歌う『アイラブ大山』をリリース。「大山の自然の豊かさや雄大さをイメージし、明るく元気が出る曲にしました」。軽快なリズムと口ずさみたくなるメロディーが印象的な同曲は、美しい歌声と躍動的なサックスが情熱的なハーモニーを奏でます。

 「米子の若者には音楽で世界へ羽ばたき、自分を超えるミュージシャンになってほしい」とMALTAさんは目を輝かせます。

 掲載日:2020年12月18日

*https://www.city.yonago.lg.jp/32993.htm より

 

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<日本酒> 山梨 甲斐の開運/井出 與五右衛門

2021-04-17 07:34:15 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(東京国税局)】
 〈山梨〉 甲斐の開運/井出 與五右衛門 

 

 「酒 蔵」 清酒「甲斐の開運」醸造元  井出醸造店
 甲斐の開運」醸造元 富士山湧水仕込み 井出醸造店
【ご挨拶】
  新しい時代の流れと共に日本人の生活スタイルも様々に変化している現代、日本らしさ、日本人らしさの見直しが問われているのではないでしょうか。
 日本の美しい四季、日々変わって行く季節の風景の中で、旬の味を生かした日本食文化は息づいています。その中に国酒としての日本酒があります。
 春の桜、夏の若葉、秋の紅葉、冬の雪化粧に代表されるさまざまな景色の中で楽しまれてきた日本酒の良さ、「稲の国の稲のお酒」まさに日本が凝縮されたスローフードの癒しの酒造りをこれからも追求していきます。

 井出醸造店 代表 井出與五右衞門

【 酒蔵の歴史 】
 井出醸造店は、江戸中期(1700年頃)に始めた醤油醸造が前身です。江戸末期(1850年頃)に、当家16代の與五右衞門が、標高850mの冷涼な気候と、豊富に湧き出る清冽な富士山湧水に着目し、従来の醤油醸造に合わせて清酒の製造も始め、現在に至っております。

 江戸末期、皇女和宮の婚姻と同時期に製造を始めた為、それにちなんで「開運」と命名し、その後「開運正宗」として長期間親しまれてきましたが、昭和60年より「甲斐の開運」を正式名称としています。

 私 た ち の 酒 造 り
 【水】について

 酒造りにもっとも大切な仕込み水は、富士山の伏流水です。戦前には、井戸水をくみ上げて使用していましたが、戦後上水道の整備により水道がひかれ、現在は水道水を仕込み水として使用しています。富士河口湖町の水道水は、標高1150m付近にてくみ上げた富士山湧水です。私共が住んでいる850m地点より、より純粋な富士山伏流水であるということが言えます。

 米洗い・蒸米・発酵・加水・瓶洗い・道具の洗浄など、水は蔵の作業全てに関係してきます。どの蔵でも一番苦労するのが水ですが、当蔵で使用する水は富士山の溶岩層が天然の濾過槽の役目を果たしている為に濾過や殺菌をする必要がなく、まさに富士山の恩恵を一身に受けた、恵まれた環境での酒造りといえます。


 【洗いに始まり、洗いに終わる】
 「洗いに始まり、洗いに終わる」、よく耳にする言葉です。酒造りには欠かせないこの言葉、造りの始まる前には蔵内全てをピカピカにし、造りが始まれば日々清潔を心掛け、すべてが終われば次期仕込みに向けて、完璧な清掃をする。井出醸造店では有言実行です。(日光浴は乾燥、殺菌にはGOOD!)

 【米】について
 日本酒は米と水から造られます。米の中にあるデンプンを麹によって糖化させ、酵母によってその糖分をアルコールに変えてできたものが日本酒です。飯米とは種類が違います。食べるお米として適した品種があるように、酒造りに適した品種「酒造好適米」があります。皆様が良く耳にする「山田錦」などがそうです。

 ここ富士北麓の地は、大変冷涼な気候であるため酒米づくりには適していません。しかし、富士山の水で育まれた米を使い、正真正銘の「地酒」を造りたいとの思いから、地元米農家の皆様と協力し、試行錯誤の末2003年、富士北麓産酒米を使用した日本酒が製造できるようになりました。日本で一番標高の高い酒米の産地となり、農家の皆様のご苦労は、計り知れないものがあったと思います。

 【風土】について
 井出醸造店は、富士山の北側、河口湖の南岸に位置します。夏は涼しく、冬は「極寒」という言葉がぴったりです。11月に入ると気温はぐっと下がります、今でこそ、暖かい日も多くありますが、一昔前は年を越すと最高気温が2~3度、最低気温はマイナス10度を下回る日が多くあり、最高気温が零度以下という真冬日もありました。生活するには非常に厳しい条件ですが、お酒を造るうえでは最高の条件なのです。気温が低いと、空気中の雑菌の繁殖を心配をしなくて済みます。そして、それは水に関しても言えます。また、お酒は低温発酵ですので外気温が低いと温度管理も容易になります。肌を刺す冷たい空気は、酒造りには最適なのです。

 【和をもって酒を成す】
 もの造りは往々にして、一人では成しえません。一人一人が黙々と自分の役割を果たしながら、皆と協力・協調して作りあげていくものだと思います。酒は ”生き物” といいます。蔵人の和が乱れればそれを感じて酒もまずくなる。このような考えのもと「和をもって酒を成す」の精神で丁寧に酒を醸してまいります。

 【温故知新】の精神
 守るべき伝統の技術をかたくなに踏襲し、また、新鮮な感覚での技術の向上にも目を向ける。まさに「温故知新」の精神で、大切に受け継がれてきた匠の技を未来につなげていきたいと考えています。

 【皆様に美味しく飲んでいただくために】

 美味しくできたお酒をなるべく質を変えずに皆様のお手元に届けるまでが、蔵の仕事だと思います。いいお酒が出来ても適切な管理と作業と熟成が行われなければ何の意味もありません。「火入れ」(殺菌)は品質保存の為の大切な作業です。火入れ作業に於いて、お酒に負担をかけずいかに味や香りの変化を最小限に抑えるかが重要です。当蔵では火入れをしたお酒をいかに早く冷ますか等、できうる限りの手を打って味、香り、質の保存に努めています。
 お酒にとっての大敵は温度と光、写真は、貯蔵タンクの倉庫です。通年13℃、最小限の光源のみにして大切にお酒を管理し、出荷を待っているのです。


 【造り手・売り手・買い手】
 いいお酒が出来ても、それを管理し、瓶に詰め、宣伝し、販売する人がいなくては、お酒は皆様に飲まれることはありません。造り手と売り手、そして地元の皆様、全国のお客様のご愛顧により井出醸造店「甲斐の開運」は成り立っていると考えています。

 私たちは、富士山の恩恵に敬意をはらいつつ、「個性をもちながら飲み飽きのしないお酒」を信条とし、いつまでも信頼され、ますます安心なお酒を皆様にお届けできるよう、全力で取り組んでいきます。

 井出與五右衞門 井出醸造店 山梨県南都留郡富士河口湖町船津8

 ラインナップ

 「冨麓」純米大吟醸

 「甲斐の開運」大吟醸・大吟醸斗瓶囲い酒・純米吟醸 など

 

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<伝統野菜> 北海道 札幌黄たまねぎ

2021-04-17 07:30:24 | 伝統野菜

 「札幌黄たまねぎ」-(さっぽろき、さっぽろきい)

 【生産地】札幌市東区(旧:札幌村)(札幌伝統やさい)

 【形状】1個の球の重さは200 g に達する。外皮は茶色がかった黄色。形が不揃いで病気に弱く、長期保存が利かない。

 【食味】辛味、甘味ともに濃く、肉質が軟らかい。貯蔵性にも優れている。

 【来歴】明治11年(1878)に札幌農学校のアメリカ人の教官によりタマネギの栽培が始まったのが、日本のタマネギの栽培の先駆といわれている。「札幌黄たまねぎ」イエロー・グローブ・ダンバースから生まれた品種で、明治時代には品種として確立しており、札幌村から北海道中に広まった。昭和時代に生産の最盛を迎えたが、その後F1種の台頭で生産量が激減。昭和45年(1965)頃までは主力品種であったが、病気に弱く、栽培が難しいなどの点から昭和55年(1975)以降、生産が減少してしまい「幻のタマネギ」と呼ばれるようになったが、そのおいしさが見直され、近年、再び栽培農家が増えている。遺伝的に多様性があり、貴重な遺伝資源。

 平成19年(2007)※「味の箱舟」に認定。

 ※「味の方舟」:スローフード協会国際本部(イタリア)が世界共通の基準で認定している通称「食の世界遺産」。同認定は、各地方の伝統的かつ固有の在来種等の生産や消費を支援するで、地域における職の多様性を守り育てることを目的に行われている。

 【収穫時期】9月初旬

*https://tradveggie.or.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E9%87%8E%E8%8F%9C%EF%BC%8D%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93/#i-7 より

 

 札幌黄、その始まり
 北海道に玉ねぎがもたらされたのは、明治4年、開拓使によって札幌官園(偕楽園内の試験場:現在の札幌市北区北6条西6丁目)で、アメリカから持ってきた種子を栽培したのが最初とされている。しかしながら、この栽培の結果が記録として残っておらず、またその当時に紹介されていた栽培方法と札幌黄の栽培方法が異なっているため、これが札幌黄の原種だとは考えられていない。
 明治10年、ウイリアム・P・ブルックス博士は、「青年よ、大志を抱け」で有名なクラーク博士の後任として、札幌農学校に着任した。残念ながら、ブルックス博士が、札幌黄の原種と言われる「イエロー・グローブ・ダンバース」を持ってきたという直接の証拠は無いが、この品種が博士の故郷であるマサチューセッツ州原産であること、栽培方法(春に種を直に畑にまく)が同じであることなどから、彼が札幌に「イエロー・グローブ・ダンバース」を持ち込んだことは間違いないと考えられている。
 このころ、札幌にはいくつもの開拓地があったが、大友亀太郎により開拓された札幌村(現在の東区南西部)は、最も古くから入植が進んでおり、また札幌農学校から比較的近かったため、ブルックス博士が地域の農家に作物の栽培を指導して回ったことも多かったという。その結果、多くの農家が玉ねぎ栽培を始めたとされ、札幌村が玉ねぎ栽培の発祥の地となった。しかし、当時は玉ねぎを見たことが無い人が大多数であり、また交通網が発達していない時代であったため、ほとんどは自家用として消費され、販売されるには至らなかった。

 販売への挑戦
 そんな中、明治13年に、札幌村の中村磯吉という農家が、一町歩(≒今の1ha=100m×100m)の畑で玉ねぎ栽培に成功し、ちょうど東京に北海道物産取扱所ができたことから、水路にて東京へ運搬して販売を試みた。しかし、見慣れない野菜は全く受け入れられず、泣く泣く全て廃棄して帰ってきたという。
 その後、道内の炭鉱の従業員用として、また他の葉物野菜より長く保存できることから、航海用としての需要が高まり、少しずつ販路が広がってきた。やがて、同じく札幌村の武井惣蔵が、直接販売ではなく商人に販売を委託することで商業的にも成功を収めた。明治13年の末、札幌―手宮(現在の小樽)間に鉄道が開通し、流通面が整備されてきたことも一因となり、これ以降、玉ねぎ栽培は急速に拡大していくこととなる。

 玉ねぎ栽培の拡大と札幌黄の登場
 札幌の玉ねぎの収穫量は、天候による上下はあったものの、開拓が進み、畑が開墾されたこと、また他の作物より商業的に有利と考えた農家が、果樹栽培などから玉ねぎ栽培に鞍替えしてきたことにより、年々増加していった。また、明治19年の10アール当たりの収穫量は、約1トンであったが、時代が下り明治36年から38年の平均の収穫量は、おおよそ3倍の約2.9トンまで増加するに至った。
 ここまで収穫量が増加した要因としては、需要の増加により、玉ねぎ農家が札幌村からさらに篠路村(現在の北区篠路)や白石村(現在の白石区)などへ広範囲に増えてきたことと、農家による品種改良が進んだこと、また、札幌村で生まれた「種まき機」や「乾燥機」などの発明が、農家の作業を効率的にしたことも見逃せない。
 そんな中、明治35年に北海道農事試験場が開場され、玉ねぎの研究が進んで、ついに文献にて札幌黄の文字が登場することとなる。明治39年に同試験場から発行された「北海道農事試験場彙報」がそれだ。ここに「『エロー・グローブ・ダンバース』なる原種が多年栽培の結果、本道の風土に馴化せるものとす」と書かれており、このとき同時に優良品種に認定されている。
 札幌黄という品種名が、北海道農事試験場によって名づけられたのか、それとも当時から農家の間でそのように呼ばれていたのか、今となってはわからないが、ともかく歴史上に札幌黄が正式に登場し、以後、北海道中で栽培されることとなる。

 世界に羽ばたく札幌黄
 現在の日本の食料自給率の状況からは考えにくいが、札幌黄は本州だけでなく、遠くロシアやフィリピン、香港や台湾などに輸出されていた。
 中でも、ロシアの沿海州地域は、北海道から距離的に近く、冬の野菜の不足が深刻であったことから、明治30年頃にはすでに輸出が始まったとされている。記録に残っているのは明治35年からであるが、明治後期から大正時代にかけて、平均して2千トンほどの輸出量があった。
 昭和に入ってもなお海外への輸出は続いたが、戦時中の統制経済や第2次世界大戦の敗北により、輸出はほとんど無くなってしまった。しかし、輸出があったことにより、札幌黄の生産量がさらに増大したことは想像に難くない。

 札幌黄の系統分化について
 明治時代に導入された「イエロー・グローブ・ダンバース」がどのようなものであったのか、今では想像ができないが、熱心な農家により代々品種改良が重ねられてきた結果、現在の札幌黄とは姿・形が若干異なることが推測される。
 札幌黄は、その家の好みにより代々選抜されてきたため、家によって形や性質が異なるものであった。著名な系統としては以下の5つがある。

(1)坂野系…伏古の坂野彦太郎が昭和8年、在来種と輸入種を掛け合わせ、
 選抜を繰り返すことにより確立した品種。品質・数量ともに
 優れていて、空知地方にも伝わっている。
(2)阿部系(北海黄)…元町の阿部義弘が選抜。俵型で外皮が薄いが、耐病性に
 優れているとされる。昭和27年に、北海道農業試験場の山本正五氏により
 「北海黄」と命名された。
(3)黒川系…大正時代、種子不作の時にアメリカから輸入した
 「イエロー・グローブ・ダンバース」を基礎に選抜されたものを、元村の黒川正臣が
 さらに改良を加えて完成させた。収穫量が多いことが特徴で、日本一の収穫量として
 賞賛を受けたこともある。昭和30年代の中ごろから栽培面積が急速に広がり、
 札幌黄の生産量が激減するまでは最も栽培面積の広い系統であった。
(4)高木系…札幌村の高木圭助が完成させた系統。病気に弱いが、大形であることが特徴。
(5)河島系…岩見沢の農家、河島暹が、昭和7年ごろ輸入種と札幌黄を掛け合わせて
 選抜したもの。岩見沢を中心に空知で幅広く栽培されていた。

 また、明治後半から昭和初期にかけて、札幌黄は全道各地で導入され、「空知黄」や「北見黄」のように地域の名前で呼ばれるようになり、それぞれの地域に合った玉ねぎへ変化していった。このように、札幌黄はその農家・地域によって個性豊かであるのが特徴であったが、今では聞くことが無くなってしまった系統もあるという。

 大正から昭和の札幌黄
 明治42年の「全国及び主要産地におけるタマネギの収穫高」調査において、全国の収穫量3,639,629貫(約13,650t)の中で、北海道は2,060,766貫(約7,730t)と半分以上を占めており、まさに北海道が玉ねぎの一大産地であった。しかし、大阪府や兵庫県などの関西地方にて、米の裏作として栽培する農家が急激に増えたことにより、大正9年の同調査では大阪府に抜かれてしまった。
 さらに昭和に入ると、大戦中の統制経済による作物の強制割り当てなどにより、北海道の玉ねぎ栽培は大きな打撃を受けた。昭和25年の調査では、北海道の収穫高は2,168,500貫(約8,132t)と明治時代の収穫量に戻り、全国の収穫量の3%にも満たない有様で、もはや主要産地と呼ばれることは無いように思われた。
 しかし、状況を憂えた関係者が札幌黄をさらに改良し、官民一体となって増産に励んだ結果、ようやく昭和40年代になって「日本一の玉ねぎ産地」の称号を取り戻す(ピーク時の収穫量は71,100t/年)。道内のほとんどの産地で札幌黄とその系統の玉ねぎが栽培されていたこの時期が、まさに札幌黄の絶頂期と言えよう。

 F1種の台頭~札幌黄の冬の時代~
 北海道では、長らく、札幌を含めた石狩管内が北海道の最大の玉ねぎ産地であったが、昭和46年にオホーツク管内に生産量で抜かれてしまい、現在に至っている。原因としては、札幌の人口が急増し、宅地化が進んで畑自体が減ってきたことが挙げられる。
 そして、ちょうどこの時期、新しい波がやってきた。それがF1種である。F1種とはFirst Filial Generation(一代交配種)の略称で、要するに「親のいいところだけを子に引き継がせる」技術を使ったものだ。現在では野菜だけではなく、家畜などにも使われている技術であるが、この技術を使うと「日持ちがして病気に強く、かつ収量が多く、大きさが揃っている」という夢のような玉ねぎを作ることができる。特に、遠隔地であるがゆえに、輸送中に玉ねぎを腐らせることが多かったオホーツク管内で早期に導入され、ますます石狩管内とオホーツク管内の生産量の差が開く原因となった。
 札幌でも昭和53年ごろからF1種が導入されはじめ、その有用性の前に、札幌黄はなすすべなく生産量を激減させていくこととなる。年号が平成になると、玉ねぎ畑の宅地化がますます進み、札幌における玉ねぎ自体の生産量が大きく減少し、札幌黄という玉ねぎの存在はおろか、かつて札幌が玉ねぎの一大産地であったことすら忘れ去られようとしていた。

 札幌黄の復活
 生産量が激減した札幌黄は「幻のたまねぎ」とまで言われるようになってしまったが、何軒かの農家そして関係者が「絶やしてはならない」という使命感を持って、細々と作り続けていた。そういった中、近年の「地産地消」運動や「在来種」の見直し、何より「味の箱舟※」の認定を受けたことにより、再び札幌黄が脚光を浴びることとなったのである。
 また、現在、北海道内で作られているF1種の多くが札幌黄や北見黄、空知黄を片方の親にしており、種は変わっても札幌黄のDNAは脈々と受け継がれている。明治時代に生まれ、大正時代に育ち、激動の昭和時代に絶頂と凋落を味わい、そして平成になって復活した稀有なこの玉ねぎは、時代に寄り添いながら生き抜いてきた。今後も、札幌の玉ねぎの象徴として、末永く市民に愛されていくことだろう。

※地方の伝統的かつ固有な在来品種のうち、消えてしまう可能性のある希少な食材を世界的な基準の下で認定し、地域における食の多様性を守ろうというプロジェクト。

*http://www.sapporoki.net/history より

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<漢字検定> 1級 読み 51.回答 52.出題

2021-04-17 07:26:21 | 漢字検定

 前回の回答

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 剪除  -せんじょ-切って取り除くこと。

 

 問2 嫩緑  -どんりょく-若葉の緑。新緑。

 

 問3 駁論  -ばくろん-相手の論を非難し、反対意見を述べること。また、その議論。

 

 問4 庖丁  -包丁-ほうちょう-
 1 料理に使用する刃物。出刃 (でば) 包丁・刺身 (さしみ) 包丁・薄刃包丁などがある。包丁刀。

 2 一般に薄刃の刃物の称。畳包丁・紙裁ち包丁・裁縫用の裁ち物包丁など。

 3 料理をすること。料理。割烹 (かっぽう) 。

 4 「包丁人」の略。

 

 問5 膺懲 -ようちょう-うちこらすこと。征伐してこらしめること。

 

 今回の出題

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 痙攣  

 

 問2 鶉居  

 

 問3 箭眼  

 

 問4 啖呵  

 

 問5 剽疾

 

 

 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書  より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 福井 越前焼 

2021-04-17 07:17:48 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「越前焼」

 Description / 特徴・産地

 越前焼とは?
 越前焼(えちぜんやき)は、福井県丹生郡(にゅうぐん)越前町で作られている陶磁器です。日本六古窯(にほんろっこよう)の一つに数えられ、古い歴史を持っています。
 日本六古窯とは、平安時代から鎌倉時代に始まり、現在まで生産が続けられている6つの窯のことです。越前焼のほかに、愛知県瀬戸市の瀬戸焼、愛知県常滑市の常滑焼(とこなめやき)、岡山県備前市の備前焼、滋賀県甲賀市の信楽焼、兵庫県篠山市の丹波焼があります。
 越前焼の特徴は、釉薬(ゆうやく)を使わずに焼かれていることです。絵付けもされないことが多く、素朴な風合いが楽しめます。高温で焼かれる際に薪の灰がかかり、溶けて器に流れ込む自然釉も魅力の一つで、陶器と磁器の中間的な存在である炻器(せっき)で、「焼締め」や「半磁器」とも呼ばれます。
飽きのこない茶褐色で良く焼き締まった器。水を通さず丈夫なため、壺や甕(かめ)、酒器や茶器など日常生活で使う製品を中心に製作されてきました。

 History / 歴史
 越前焼 - 歴史

 越前焼の歴史は古く、今から約850年前の平安時代末期に遡ります。現在は、新しくさまざまな技法を用いた作品もありますが、基本的には昔ながらの素朴な器が中心です。
 水や穀物を保存するための甕(かめ)、酒や油などを貯蔵する徳利(とっくり)、すり鉢など、台所用具が長年に渡って作られてきました。
 室町時代後期になると、北前船(きたまえぶね)によって、北は北海道から南は鳥取県まで輸送され始めました。北前船とは、北海道から日本海を南に向かい瀬戸内海を通って大阪へ商品を運んでいた船のことです。こうして越前焼は広く普及し、発展していきました。しかし明治時代に入ると、日本全体が近代化され、甕や壺などの需要が一気に減りました。他の古窯は江戸時代以降、茶器などの高級品も焼き始めましたが、越前焼は一貫して雑器を製作していたため、衰退の一途を辿ります。ようやく第2次世界大戦後に古窯跡(こようせき)調査が行なわれたことをきっかけに、越前焼の歴史的価値が見直され、1970年(昭和45年)に越前陶芸村が建設されると窯元が急増し、大勢の観光客も訪れて越前焼は復興を遂げました。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/echizenyaki/ より

 極上の土が新しい感性を育てる越前焼
 越前焼といえば自然釉の大きなカメを思い浮かべる陶芸ファンが多いかもしれない。しかし、各地から多くの陶芸家を招き入れた現代の越前は、ありとあらゆる手法・作風が混在した自由闊達な風土の陶芸産地に生まれ変わってきた。

 
 中世から続く由緒ある産地は今でも進化を続けている
 陶芸ファンならよくご存じだろう。越前といえば瀬戸、常滑、信楽、丹波、備前とならぶ六古窯のひとつ。中世から続く歴史ある産地だ。窯の中で灰が降りかかって現れる黄緑の自然釉も特徴とされている。壷、カメ、すり鉢などの雑器中心で茶器は少ないとされてきた。そんな越前焼も昭和46年宮崎村に越前陶芸村ができることで、若手の陶芸家が全国から集まり、様相が一変する。


 全国でも屈指の良質せっ器質陶土が陶芸文化を発展させる
 「今や越前焼は特徴がないのが特徴ですね。」地元で生まれ育った越前焼職人の北野隆康さんは言う。「越前は土がとても良い。せっ器質陶土で、よく焼き締まるし、成型時の粘りもいい。その土を使っていろいろ自由にやるのが現代の越前焼だと考えています。」現在も全国から陶芸を志す若者がこの地に集まっている。

 「晴耕雨陶、毎日がベトナブリ」
 「今日は雪だから陶ですかね。」と窓を見ておどけてみせる北野さん。もともと実家が農家で作陶活動のかたわら農業を続けている。その名刺には“晴耕雨陶、毎日がベトナブリ”の文字が。「ベトはこのあたりの言葉で土のこと。」
 「トラクターに乗って田んぼを起こしてるときに、次はどんなものをつくろうかと考えています。」半農半陶の生活は北野さんの創作活動のペースにマッチしているようだ。


 “イッチン描き”と“掻き落とし”の技法
 北野さんの代表的な作品は、イッチン描きと呼ばれる「ケーキの飾り付けと同じで白い泥を絞り出して模様を描く方法」と掻き落としと呼ばれる「白い化粧土を掻き落として模様を表す方法」。この分野で全国にも名を知られる職人だ。
 「もともと絵や模様を描くのが好き。以前は細かい模様をぎっちり描いていたけれど、最近はラフな感じの絵で深みを出していきたいと思っています。」墨絵を学ぶことで、のびやかで力強い線も作品に活かされている。
 「デザインはパターンが手になじむまで、何度も練習します。それまでは(商品にならず)ダメになるものも多いです。」厳しい目で自らの仕事を見つめる。窯の周りにならんだ“失敗作”は素人目にはどこが悪いのかわからないものも多い。頑とした職人のこだわりを感じさせる。


 奥が深い急須作り、いい色に“育つ”焼き締め陶
 さらに83年から87年まで信楽で急須作りを学び、越前の陶土を使った急須も手がけている。急須のみの個展を開いたこともあるという。越前のよく焼き締まる土で作った器は使っていくうちに手の平で磨かれ、すばらしい色つやが生まれる。
 「急須は奥が深い。使ってなんぼのもんでしょ。(口の部分の)水切れがいいのができたときは“やったぁ!”って思います。お客さんも店で買うときにはいいか悪いかわからない。家に戻って使ってみて、“あの急須、よかったよ”って。そういうのを聞いたときはうれしいです。」
 やはり何よりうれしいのはお客さんの反応。「こんな山奥ですからここらは冬場は雪に埋まります。そんな中わざわざ町から買いに来てくれるお客さんもいます。本当にうれしい。それに、焼き締めの土瓶を買ってくださったお客さんが何年かたってから(ツヅラフジ製の取っ手部分の)修理の依頼で送ってくださった時など、しっかり使い込まれていて“いい色に育ったなぁ”って。」


 「考える職人」が信条
 数をこなすだけの仕事はやりたくないという。「考える職人が信条。現代生活に合ったもの、使う人の生活を考えたものを作っていきたい。」自身を“器用貧乏”と表現される北野さん。非常に多才で作品の中にはペン立てなど斬新で現代的な物も。また恐竜や自動車、かわいい猫の置物の姿も見える。「たくさん作ってみて、良い物ができてきたら商品に仕上げます」とのこと。もっともっといろいろなことをやってみたいという北野さんの挑戦は尽きることがない。


 職人プロフィール

 北野隆康 (きたのたかやす)

 越前焼の地元、福井県織田町生まれ。27歳から焼きものを始める。「考える職人」が信条。

 こぼれ話

 越前陶芸村で焼きもの三昧の休日

 越前焼発祥の地、福井県宮崎村に越前陶芸村が昭和46年に誕生。広い敷地に焼きものにまつわる施設が集合した、全国でも珍しい“村”です。豊富な展示物で歴史も学べる福井県陶芸館では、陶芸教室で家族そろって土にふれるのも楽しいし、広々とした公園でののんびりしたピクニックやお昼寝で羽を伸ばせそう。周囲には地元の陶芸家の窯元も多く、陶芸村内には直売所もあります。山々に囲まれた自然いっぱいのフィールドは陶芸ファンでなくてもゆったりした休日を過ごすのにもってこいの場所ですね。さらに毎年5月には陶芸祭りもあるのでぜひ一度訪れてみてはいかが。大自然のなかで育まれた歴史ある越前焼の深い味わいを、あなたもきっと感じとることができるはず。

*https://kougeihin.jp/craft/0412/ より

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