いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

厄介な「マスク拒否おじさん」

2021-04-13 15:47:29 | お粗末な事件・事故

 あちこちで問題行動する「マスク拒否おじさん」。

 飛行機内でマスク拒否をし逮捕されてからも、あちこちで問題行動を続けている。

 昨日も現行犯逮捕。容疑は公務執行妨害。

 

 34歳の男。

 飛行機マスク事件で、全てを失ったという。

 

 でも同情の余地はないのでは?

 何度逮捕されても懲りない男。

 誰か助けてやってくれ!

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<特定外来生物> ナガエツルノゲイトウ

2021-04-13 15:38:11 | 特定外来生物

 「ナガエツルノゲイトウ」

 生態系や稲作への悪影響が懸念される特定外来生物の水草が、兵庫県洲本市五色町都志米山の本田池で確認された。

 河川やため池の保全に努める市民グループ「兵庫・水辺ネットワーク」(神戸市)によると、塩分や乾燥にも強く、わずかな茎や根からも増殖。広がると在来植物の成長を阻害し、水田では稲の収穫量が落ちる。茎や葉が水路に詰まり、他の作物への被害や水害につながる恐れもあるという。

 尼崎、伊丹両市や稲美町のほか、琵琶湖(滋賀県)や印旛沼(千葉県)など国内各地で確認され、ブラックバスなどの生息地で見られることが多いため、釣り人が媒介している可能性が指摘されている。

 本田池では今、水面の約6割を覆うが、完全な除去は難しく、運搬の過程で拡散する危険性もある。このため、光合成を妨げて枯死させる駆除法を選択。11日に住民らと排水口付近の約100平方メートルを遮光シートで覆い、池の外へ流出しないよう周辺を網で囲った。

 11月に効果を確認し、成功していれば、隣接する範囲にシートを移していく。約1500平方メートルある池で全て終えるには、10年以上かかる見込みだという。

*2021年4月13日 13時27分 読売新聞オンライン より抜粋

 

 日本での最初の定着記録は、1989年の兵庫県尼崎市のものである。観賞用の水草として流通していた本種は、本州以南の千葉県、茨城県、神奈川県、静岡県、滋賀県、京都府、奈良県、大阪府、兵庫県、徳島県、香川県、島根県、福岡県、佐賀県、熊本県、鹿児島県、沖縄県といった広い範囲に分布が拡大している。また、アメリカでは1897年にアラバマ州で初めて確認された。

 在来種の植物と競争するほか、水面上にマット状に繁茂することで水流を停滞させたり、船の通行を妨げたりする。そのため、世界中で侵略的な雑草となっている。日本では外来生物法により特定外来生物に指定されている。

*Wikipedia より

 

 「特定外来生物」の第一次指定種(2005年1月31日)植物に指定されている。

*Wikipedia より

 

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「おじぎ」がまた世界中で話題に

2021-04-13 08:30:26 | ええ話やねぇ~

 昨日のマスターズ。

 優勝した松山英樹が称えられる中、それ以上に注目されたことが・・・

 

 「おじぎ」

 

 松山英樹がホールアウトした直後、グリーン上でひとつの行動が世界中の注目に。

 松山英樹のキャディーが、全プレイヤーがプレーを終えた18番グリーン上、最後に「一礼」した。

 偶然にも映し出された「日本の伝統的礼儀行動」。

 以前にも話題になったのが「サッカー日本代表 長友佑都」のおじぎ。サッカー界がその「奇妙にも思えたおじぎ」が何かを世界に伝えた。

 それもあってか、キャディーのとった行動がまた世界に発信された。

 

 偶然映し出されたその映像は、なんとも素晴らしかった。

 もうこれで「今年のマスターズ」は終了。1年は静かになるコース。

 長かったマスターズの4日間。

 厳しい戦いのあと、まだ背中越しに祝福の歓声が残る中、キャディーは静かに「ピン」をホールに戻した。

 

 そして「一礼」。

 

 18番ホールに、いや「コース」に対して頭を下げた。

 いや「コース」だけでなく「全プレイヤー」「観客」「関係者」など全てに対して「敬意と感謝」の意を伝えたのだろう。

 なんとも「神々しい光景」であった。

 

 松山英樹のキャディー「早藤将太」氏。

 1993年10月7日生まれの27歳。

 東京都出身。

 中学時代からゴルフを始め、明徳義塾高校→東北福祉大学へ。

 松山英樹の2つ年下であり、高校の先輩である松山を追いかけて同じ大学に進学。

 卒業後、プロゴルファーになるが2019年より松山の専属キャディーに。

 松山英樹の気心しれた後輩。優勝の陰にこの後輩の力もあったのでは?

 この「おじぎ」には重鎮がコメント。

 ゴルフを始めた頃は「青木功ジュニアクラブ」に所属。

 青木氏曰く「礼儀が一番」と教えたという。

 

 日本人ゴルファーの夢を達成しただけでなく、陰で支えたキャディーの行動で、「日本人」が見直されたことだろう。

 なんともいい話である。

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<苺> おおきみ

2021-04-13 07:48:15 | 食品

 「おおきみ」

●「おおきみ」とは
◆「おおきみ」の来歴
 「おおきみ」は独立行政法人 農業・食品産業技術総合研究機構 九州沖縄農業研究センターにおいて、大粒で品質に優れる「さつまおとめ」に、極めて果実が大きい「いちご中間母本農1号」を交雑させてできた実生から選抜育成されたイチゴです。2008(平成20)年に登録出願及び公表され、2011(平成23)年に品種登録されています。

 名前は『高品質なイチゴ品種の中で特に大きな実であること』にちなんでいるそうです。大きい実=おおきみ?

 ちなみに特に漢字での表記はされていませんが、「おおきみ」を表す漢字には「大王」「大皇」があります。いちごの「大王」というのも合いそうですね。


 
◆おおきみの特徴
おおきみ オオキミ いちご イチゴ
 農研機構のホームページによると「おおきみ」の果実は平均果重が20g以上といちごの中ではかなり大きく、形は円錐から短円錐形で粒ぞろいに優れているとのこと。

 果皮の色は光沢がある橙赤色から赤色で、果肉は淡い燈色から赤色。

 果実は硬めで、日持ち性に優れており、糖度が高く、香りも有り、食味は極めて良好とのことです。

おおきみ オオキミ いちご イチゴ
農林水産省の品種登録データベースには以下の通り記載されています。

『-----

 果実の縦横比は縦長、

 果実の大きさはかなり大、

 果形は円錐、

 果皮の色は橙赤、

 果実の光沢は強、

 そう果の落ち込みは果皮並、

 がく片の着き方は反転、果径に対するがく片の大きさはかなり大、

 果実の硬さは硬、

 果肉色は橙赤、果心の色は淡赤、果実の空洞は小、

 季性は一季成りである。 -----』 以上、抜粋。

◆実際に食べてみたおおきみの食味
おおきみ オオキミ いちご イチゴ
 今回入手したものは京都大丸百貨店で販売されていたもので、高知県産12粒化粧箱入りで税込み5,400円の贈答用でした。

 一粒一粒が綺麗な円錐形でとても大きく、実全体に艶があり、むらなく赤く色づいていて、フィルムをはずすとたちまちとてもいい香りがしました。

 食べてみると比較的しっかりとした食感があり、果汁は多く甘味、酸味のバランスが良い感じでした。ただ、価格から期待される程の感動は残念ながら得られませんでした。

●主な産地と旬
◆主な産地と生産量
おおきみ オオキミ いちご イチゴ
 「おおきみ」は農研機構が開発し、一般の種苗メーカーによって販売されており、どこの産地でも栽培は可能となっています。

 主な産地は高知県、宮崎県、岡山県などですが、その他のいちご産地でも個々の農園で作られています。全国的に生産量は少なく、希少ないちごです。

◆おおきみの収穫時期と旬
 「おおきみ」は着花数が少ないこともあり収穫時期は他の品種よりも遅くなる傾向があり、出回り始めるのは1月中旬頃からとなります。出盛りの旬は2~3月あたりです。

*https://foodslink.jp/syokuzaihyakka/syun/fruit/Strawberry-Ookimi.htm より

 

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<言 葉> 春の言葉 春うらら

2021-04-13 07:44:41 | 言葉

 「春うらら」

 ♪みぞれまじりの 春の宵

  二人こたつに くるまって

  ふれあう素足が ほてりほてり

  誘いかけよか まってよか

 

 これは「田山雅允」が昭和51年にヒットさせた曲。

 歌詞をよく読むと、「こたつ」「やかん」「冷たい肌」と、まだ「春の初め」の情景が浮かぶ。

 

 しかし、

 ♪春のうららの 隅田川

 「春」の歌いだし。

 春の穏やかな陽射しを表した言葉ととらえられる。

 春の晴れた空から、穏やかな陽の光が照らす春らしい天候を表現しています。

 うららという言葉は春の陽射しだけを表しているわけではなく、穏やかな心の様子も表している言葉です。

 語源は、明るく穏やかな陽射しという意味の「うらうら」が変化した言葉だと言われています。

*https://folk-media.com/2858129#i-2 より

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-南こうせつ

2021-04-13 07:36:32 | MUSIC

 「南こうせつ」

  1949年2月13日生まれの72歳

 元気で最後まで見て 20年ぶり福岡でサマーピクニック 南こうせつさん 2019/6/8 13:41 (2019/6/22 13:30 更新)

 1980年代、多くのミュージシャンが集まり九州で開かれた野外コンサート「サマーピクニック」が今年9月、20年ぶりに福岡市に帰ってきます。中心にいるのはもちろん、今年デビュー50年の南こうせつさん。ただ副題に「さよなら、またね」とあるように今回が最後かもしれません。

 ‐今年70歳です。

 ★南 歌を歌いながら人生を歩んできて、結果としてまだ現役でいられる、ということはとてもラッキーです。30歳になったころに、東京圏から大分に移住してきたわけですが、ちょっと早かった。当時の自分を振り返ると、「神田川」が売れすぎ、達成感に満ちていた。そして自分と向き合って出てきたテーマが「幸せって何だろう」。僕の中では、日々の暮らしの中で風を感じて季節の花をめでたり、畑を耕したりとかしながら、それ以上のものがあるかな、という価値観に行き着いたんですね。もう一回緑の田舎の中に入っていこうと移住しました。

 ‐新アルバムとベスト盤、エッセー出版と濃密な1年ですね。

 ★南 70歳が一つの節目ということはあったと思います。これからミリオンセラーを出すのは考えられない。そういう中で今までの自分の音楽人生をちょっと区切りたかった。

 ‐新アルバムとエッセーの題名は共に「いつも歌があった」。

 ★南 歌は自分の中のどこにあったんだろうと考えてみると、小っちゃい頃は母の歌であったし、記憶がだんだん出てくる頃には、ラジオからいろんな歌が流れてきて。貧しかった日本のGDPがどんどん上がっていく。そこにいつも歌があるんです。例えば「いつでも夢を」にみんな励まされた。ヒット曲が日本中で共有できた。でも今はどうでしょうか。

 ‐新アルバムの「おかえりの唄」は祭り囃子の音が印象的です。

 ★南 この曲は40年以上前に星野哲郎さんからいただいた詞です。当時は「時代じゃない」とお蔵入りしました。2年ぐらい前に本棚を整理していたら出てきて。平成になって日本中で災害が起きてふるさとがあちこでつぶされました。そんな今読んだら感動したんですよ。ふるさとを思うメッセージソングです。

 ‐サマーピクニックはそもそもどういうきっかけで始まったのですか?

 ★南 1975年につま恋(静岡県)で吉田拓郎さんとかぐや姫で開いたオールナイトコンサート。その淵源は68年のウッドストックですが。つま恋の興奮が忘れられず、九州に移ってきていた僕が夜通しやって感動できるコンサートを九州の人にも味わってほしい、と81年に第1回を熊本・産山村でやりました。お客さんとの約束だった10回やり、その後もリクエストがあって何年かごとにやってきました。全国からお客さんも来てましたので、12回目(2009年)はつま恋で、13回目(14年)は万博公園(大阪府)。自分の中では毎回これで終わりだ、と思ってやってたんですけど、50年で70歳という記念の年にスタッフやファンから「もう一回」という声が上がって。「今の体力ならできるかもしれない」と決断しました。アルバムとか本もいいんですけど、記念として野外コンサート。最後かもしれないと思って「さよなら」と付けたら、スタッフが「寂しくない?」。それで「またね」を付けました。そして、九州で始まったので九州に戻ろうと。しかも「令和」に縁がある福岡。もっともこれはこじつけです(笑)。

 ‐こうせつさんにとってサマーピクニックとは?

 ★南 人と出会って、お互いの命をたたえ合うパーティーですね。

 ‐来場されるファンへアドバイスを。

 ★南 元気で最後まで見ること(笑)。だって、いいですか、万博の時に思ったんですけど、最初は「待ってました」とばかり50代、60代の方が「イェー」と少年のような顔をして手を挙げる。だけど5曲目ぐらいになると、ぜぇぜぇ言って座り込んで。まあ、それがかわいいんですけど。午後2時から5時間、お互い元気にやりましょう。

 ▼みなみ・こうせつ 1949年2月13日生まれ、大分市出身。大分県在住。70年「最後の世界」でソロデビュー。71年、伊勢正三さん、山田パンダさんと「かぐや姫」結成。73年「神田川」がミリオンセラーに。「サマーピクニック~さよなら、またね」は9月28日、福岡市の海の中道海浜公園。伊勢正三さんやイルカさん、海援隊、BEGIN、長渕剛さんらが出演予定。BEA=092(712)4221。

*https://www.nishinippon.co.jp/item/n/516939/ より

 

 直近でも「第15回 母に感謝のコンサート」に出演予定。

 まだまだ「おいちゃん」は元気に歌い続けるようです。

 

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<日本酒> 千葉 東薫/東薫酒造

2021-04-13 07:32:21 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(東京国税局)】
 〈千葉〉 東薫/東薫酒造

 

 佐原の歴史
 酒造佐原は古社 香取神宮がある歴史の古い街です。
 又、豊かな自然=水の里であり利根川(坂東太郎)との密接な関係があり、古代から中世まで佐原周辺は「香取の海」と言われ、霞ヶ浦、北浦と鬼怒川水系の水を湛えており、鹿島神宮と共に香取神宮の存在は大きく中央(京都)や先進地との交流が盛んにあった。
 東京湾に注いでいた利根川が、近世初期(1654年)幕府が江戸を水害から守る事、利根川水運の発展を図る事、新田開発による年貢米の増収などの理由により、銚子口から太平洋に注ぐようになった。(利根川の東遷)
東北や関東各地の年貢米や諸物資は利根川を遡り江戸川を下り、江戸の蔵前や日本橋へ運ばれた。物資と共に人の往来も非常に盛んになった。
 「お江戸見たけりゃ佐原へござれ、佐原本町江戸まさり」といわれ隆盛を極めた。

 昭和初期まで船運が盛んであった時代、川面は貨客の船で埋まった。川岸には回漕店、汽船会社、旅館、米穀肥料商、八百屋、菓子たばこ店、川魚店、酒屋、醤油の製造屋等々が軒を連ねていた。ほとんどの家毎に荷物の積み下ろしや人の乗り降りの為に「だし」と呼ばれる船着き場が作られ「昼夜止む時なし」と言われ水陸往来の群集で賑わっていた。
 醤油造りも盛んで1839年に14軒が名を連ねていたが、現在「正上」が他所で製造委託の1軒のみとなってしまった。

 水の里であるため昔から川魚漁が行われ、又肥沃な農地からは米や野菜、落花生、梨などの農産物が生産され、「うり」「きゅうり」「しょうが」「小なす」「梅」などを上質な酒類、みりんで漬込み、酒粕が効いた風味豊かな漬物(忠敬漬、てっぽう漬など)が作られ名物となっている。これらの特産物は、現在も川魚を使い「すずめ焼」、わかさぎの「いかだ焼、」鯉の「すがた煮」、などそのものの形、或いは手を加え「佐原の味」として売り出されている。

 

 佐原の酒造り、東薫酒造の歴史
 良質な水江戸初期(1661~73年)に伊能三郎右衛門(伊能家の先祖)が常陸(茨城県)の牛堀平八郎から70石の酒造株を買い受けて始めた。
 江戸中期(1787年)には一村で35軒の酒造家がおり、他に類例が少ない「関東灘」の異名を持っていた。
当時もっとも大きな酒造屋は永沢次郎右衛門の1675石、次いで伊能三郎右衛門の1480石で千石酒造屋が2軒もあった。(両家とも1826年には酒屋株を他へ譲り渡している。
 現在は香取街道沿いにある、東薫酒造と馬場本家の2軒となっている。

 下総佐原に東薫酒造は、江戸時代の華やいだ文政8年(1825年)に創業しました。
 日本地図を作りあげた偉人 伊能忠敬。その伊能家は前述の通り、佐原で酒造業を営む名主であり東薫酒造の創業者は、伊能家に弟子入りし、酒造業を習得発展させたと伝えられております。
利根川の船便と水郷地帯の良質の早場米、良質な水と言う酒造りに好適な条件のもとで、約190年の歴史と伝統を誇りに酒造り一筋に歩んで参りました。

*http://www.tokun.co.jp/kuramoto/ より

 

 東薫酒造株式会社 千葉県香取市佐原イ627

 ラインナップ

 「叶」大吟醸

 「卯兵衛」純米吟醸

 「夢とまぼろしの物語」大吟醸 などなど

 

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<伝統野菜> 北海道 大野紅かぶ

2021-04-13 07:01:04 | 伝統野菜

 「大野紅かぶ」

 

 【生産地】北海道 北斗市(旧:大野町)を中心に道南一帯。

 【形状】扁球型の赤かぶで直径10㎝位。外皮全体は鮮やかな紅色。葉の軸まで紅色に染まっているのが特徴。

 【食味】肉質は緻密で甘みと特有の香気があります。主として塩漬けや酢漬け、糠漬けなどの漬物向けですが、サラダや煮食にも適している。

 【来歴】江戸時代から栽培している日本種の代表的紅かぶ。関西地方の赤かぶの種が近江商人の行商の過程で北前船で北海道に持ち込まれたとされている。道南の気候は15℃から20℃と冷涼でかぶの生育に適しており、この地域での栽培が盛んになった。

 ちなみに大野紅かぶは、滋賀県の地域野菜である「蛭口(ひるぐち)かぶ」や「万木(ゆるぎ)かぶ」などと同系といわれている。

 【収穫時期】11月~12月頃

*https://tradveggie.or.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E9%87%8E%E8%8F%9C%EF%BC%8D%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93/#i-7 より

 

 大野紅かぶとは

 北海道の南部にある函館平野は、山が多い渡島半島には珍しくなだらかな土地が広がり、気候が温暖なことから、江戸時代から稲作が行われてきた地域。いまも稲作や野菜の栽培など農業が盛んである。大野紅かぶは、函館平野に位置する亀田郡大野町(現在は北斗市)を中心に道南一帯で栽培されている赤かぶの品種で、江戸時代から栽培されていたといわれている。その始まりは関西の赤かぶの種が、北前船に乗って蝦夷地に行商にやってきた近江商人によって持ち込まれたとされており、滋賀県の地域野菜である「蛭口(ひるぐち)かぶ」や「万木(ゆるぎ)かぶ」などと同じ系列の品種である。

 大野紅かぶの特徴

 大野紅かぶは、濃紅色をした扁球形の赤かぶで葉柄も赤いのが特徴である。根の外皮は、上から下まですべて赤く、切ると中もほのかに赤く染まっている。直径は10㎝ほどで、きめ細やかな肉質で甘みに富み、特有の香りを持っている。8月下旬~9月に種が蒔かれ、11~12月に収穫の時期を迎える。

*https://www.olive-hitomawashi.com/column/2019/08/post-6098.html より

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<漢字検定> 1級 読み 47.回答 48.出題

2021-04-13 06:53:45 | 漢字検定

 前回の回答

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 扼腕  -やくわん-残念がったり憤慨したりして、自分の腕を握りしめること。

 


 問2 蠹害  -とがい-
 1 虫が物を食って害をなすこと。

 2 物事を害すること。また、その者。

 

 問3 歎美  -嘆美-たんび-感心してほめること。

 

 問4 怱忙  -そうぼう-忙しくて落ち着かないこと。

 


 問5 綽然 -しゃくぜん-ゆったりとして余裕のあるさま。綽々。悠然。

 

 今回の出題

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 慳貪  

 

 問2 鹹味  

 

 問3 澆薄  

 

 問4 瀉出  

 

 問5 慊焉

 

 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書  より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 石川 金沢漆器

2021-04-13 06:51:13 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「金沢漆器」

 Description / 特徴・産地

 金沢漆器とは?
 金沢漆器 (かなざわしっき)は、石川県金沢市周辺で作られている漆器です。百万石にもなる大名の大藩である加賀藩の保護のもと、大名好みの伝統工芸品として生まれました。
 金沢漆器の特徴はほかに類を見ないと言っていい程の品位の高さ、華麗さを持ち合わせているところです。「蒔絵(まきえ)」の高度な技法を駆使し、豪華絢爛な美を創造しています。
 漆器はもともと中国から伝来したといわれていますが、「蒔絵」の技法が創り出されたのは日本。金沢漆器では、現在伝承されている「平蒔絵(ひらまきえ)」、「研出蒔絵(とぎだしまきえ)」、「高蒔絵(たかまきえ)」、「肉合研出蒔絵(ししあいとぎだしまきえ)」などすべての「蒔絵」技術が使われています。
 金沢で「蒔絵」が多様に発展してきた理由は、藩政時代において漆が武具に盛んに取り入れられていたためだと言われています。金沢の漆工というのは、蒔絵師、鞘(さや)師、靭(うつぼ)師、塗師の4つに細分化されています。このことから武士の大切な小道具ゆえに頑丈さと華やかさの両方を重視していたことがわかります。太平の世になってからは、武具から実用品にまで武士の象徴となる加飾が施され、塗りの技法も発展していったと考えられています。

 History / 歴史
 1630年(寛永7年)頃、加賀藩は加賀百万石の勢力に恐れをなしていた徳川幕府の目をそらすために、美術工芸に財力を投じることで平和政策をとったと考えられています。第三代藩主前田利常は、全国各地より積極的に名工を指導者として藩に招き入れました。中でも桃山時代を代表する「蒔絵」の巨匠である五十嵐道甫がその技を伝えたことが「加賀蒔絵」の始まりになります。以後五十嵐家は、代々の藩主のもとで門人の指導にあたり、子弟の育成に力を注ぎ、加賀文化の基礎を築きあげました。
 江戸時代から明治、大正時代にかけては多くの名工が輩出され、塗りの技術が開発されていくことになります。代表とされる「紗の目塗り」をはじめとして高度な漆塗りの技法が花開き、金沢漆器特有の技というものが確立していきます。
 幕末から維新への移行する時期は現存する作品が少なく、藩財政が破たんしたことによる工芸品衰退が要因と言われています。しかし250年にわたって引き継がれた金沢漆器の技は、戦後になって経済復興と共に見直されました。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/kanazawashikki/ より

 

 武家文化の力強さを表現する加賀蒔絵
 美術工芸的な漆器として名高い金沢漆器。その華麗で重厚な仕上がりは、加賀蒔絵と呼ばれる高度な加飾技術によって実現されている。とくに、図柄を部分的に盛り上げる肉合研出蒔絵(ししあいとぎだしまきえ)は加賀蒔絵の特徴的技法だ。

 
 若いお弟子さんに追いつけ追い越せ
 「蒔絵は最後の工程。自分が仕上げた物がそのままお客さんの手に渡ります。お客さんに喜んでいただくのがこの仕事の楽しみですね。」清瀬一光さんは父親から受け継いだ2代目の加賀蒔絵師。「32歳のとき、実家に戻ってきました。それからこの仕事を始めたので、最初は自分よりずっと若いお弟子さんたちに負けたくないという気持ちで必死に打ち込みました。蒔絵の面白いところは自分の技術があがることでどんどん表現の幅が広がっていくところですね。」
 金沢漆器は数ある漆器産地の中でも、高度で華麗な蒔絵によって美術品としての価値が高く評価されている。全国の多くの漆器が庶民の生活道具から生まれた漆芸であるのに対し、金沢漆器は藩主前田家によって育成された貴族的な工芸という歴史があるためだ。加賀蒔絵の特徴はなんと言ってもその豪華さ優美さにある。


 表現・磨き・金の色が腕の見せ所
 「蒔絵は“絵”である以上、まず表現がポイントになってきます。美しい濃淡が出ているか、うまくぼかせているかを見て欲しいですね。」蒔絵は、塗上がった漆器に絵柄をつけるために、漆で絵を描き、その上に金粉を蒔き、もう一度漆をかけてから、磨いて絵を浮き出す加飾技法。よって、「磨きの見極めが大切です。磨きが足りないと色が出ないし、磨き過ぎると金を傷めてしまいます。こればかりは人から教わるものではありません。経験と勘で極限まで磨き上げます。とくに金を盛り上げる肉合研出蒔絵は熟練の技を必要とします。盛り上げ方にも場所によって角がピンと立っていなければならないところや、逆になだらかになっていなければならないところなど、うまく表現できていないといけません。」
 そして、職人のオリジナリティとも言える重要なポイントがもう一つ。「金の色です。自分なりの色、つまり“清瀬の色”を出していきます。」客も“清瀬の色”に惹かれてファンになる。「ひとりで品物を仕上げられるようになるまでに10年。そこから自分なりの金の色を出していくのに10年はかかります。私なんかまだまだかけだしですよ。」


 色と値段に職人のこだわり
 「うちの工房から出す以上は金の色には徹底的にこだわります。清瀬の色であること。」その断固とした口調に職人としての揺るぎないこだわりが感じられる。「そして値段。親の代から図案ごとに決まった値段があるので、今でもそれを変えないでやっています。もちろん苦しいですよ。でもバブルだからといって値段をあげたりしていてはお客さんに迷惑がかかります。“商売人に儲けさせろ”が親の教えです。利幅は売る人がとればいい。そうすることで職人の仕事に切れ間がなくなって、作ることに徹することができるのです。」


 火事になったら真っ先にこれを持ち出す
 「火事になったらまず筆を持ち出します。もう、手に入りませんから。」蒔絵用の筆はネズミの毛が用いられている。この筆を作る人がもうほとんどいないのだという。「次は金粉。蒔絵師の仕事場にはたいていある程度の金のストックがあります。作業の途中で金が切れたら仕事にならないからです。漆が乾いてしまって、(それまでの作業の)すべてが無駄になります。だからあらかじめ必要な金の量を計算してから仕事にかかります。」そして3つ目に持ち出すのが「図案。清瀬家に伝わる図案です。これがなくなったらたいへん。非常に貴重なものです。作った物は必ず写真にとって図案と一緒に保管しています。」
 話の随所に職人としての厳しいこだわりが感じ取れる清瀬さん。「とにかく(この仕事を)できるだけ長く継続することが大切だと思っています。」そのために、ガラス・象牙・べっこうに蒔絵をほどこすという新しい試みも始めている。
仕事場には、職人として着実に腕をあげている将来の3代目(息子さん)の姿も見える。加賀蒔絵職人のこだわりもしっかりと受け継がれていくに違いない。


 職人プロフィール

 清瀬一光 (きよせいっこう)

 頑とした職人気質を感じさせる清瀬一光さん

 32歳から26年の職人歴。親の教えをきっちりと守りながら自分ならではの新しい分野も挑戦して切り開く。


こぼれ話

 新しい素材が拓く蒔絵の世界

 従来、蒔絵は漆器に施されるものでした。しかし、加賀蒔絵職人、清瀬一光さんはその高度な技術で新たな可能性を拓いています。それは、ガラス・象牙・べっこうへの蒔絵。自分自身で素材の調達先も探しだしたという“新”蒔絵です。もちろん素材が違うことで出てくる新たな問題もあったそう。「ガラスだと接着剤の問題。象牙は多孔質なので漆がそこへ入って真っ黒になってしまいます。」これらの問題を解決することで、伝統的な蒔絵の技術からまったく新しい世界を切り拓いてゆきました。伝統工芸は職人の絶え間ない工夫から発展してきたもの。21世紀に新しく始まる伝統工芸があってもいいのでは。加賀百万石の歴史を伝える工芸王国でそんな楽しみも見つけることができました。
*https://kougeihin.jp/craft/0515/  より

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