いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

代替レザー

2021-04-19 13:29:48 | 環境問題

 アディダスは昨年来「リサイクル素材」を一部に利用した商品-スニーカーを発売してきた。

 その商品は、「高機能リサイクル素材PRIMEGREEN」を内側に採用。アッパーにはレザーと同じ外観と手触りの「日本製プレミアムPUコーティングを施したリサイクルポリエステル」を、アウトソールには「天然ラバー」や「リサイクルラバー」を使用した。その他、レースやライニング、インソールなども全て「リサイクル素材」で作られている。

*https://www.vogue.co.jp/fashion/article/2020-12-16-adidas より

 そしてこのほど「代替レザー」を使用した商品を発表。

その「代替レザー」は、キノコから作られたレザーのような素材「マイロ(Mylo)」。

カリフォルニア州エメリーヴィルに拠点を置く「ボルト・スレッズ(Bolt Threads)」が開発。

 生産プロセスとしては、温度や湿度を管理した環境で、トウモロコシの茎の上で菌糸体の細胞を培養。細胞同士が強く結びつき立体に成長したものをシート状に圧縮し、なめすとマイロが出来上がる。特徴は、本物のレザーのような見た目と触り心地、そして生産スピードの早さだ。牛などの動物を育てるためには年単位の時間が必要だが、マイロは数日で生産が可能。化学薬品を使用するポリウレタンやPVCとは異なり、植物由来の環境に優しい人工レザーと言えるだろう。

*https://www.fashionsnap.com/article/inovation-leather/ より

 

 何か大きく変わりつつあると感じられる。

まだまだ「理想」の追求は先の話かと思われたが、着々と進みつつある。

「環境負荷が少なく」「サスティナブル」な社会が一歩一歩前進しているのかも。

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<苺> カレンベリー

2021-04-19 08:36:31 | 食品

 「カレンベリー」

 「カレンベリー」は、炭疽病、うどんこ病、萎黄病および疫病に対して抵抗性を有し、果実の揃いがよい。やや晩生で、半促成栽培および露地栽培に適する。

主要特性
1.「カレンベリー」は、萎黄病に強い「はつくに」を母親に、食味が優れ、うどんこ病に強い「てるのか」を父親として交雑して1994年に得られた実生から選抜される。
2.炭疽病および萎黄病に対して中~やや強程度、うどんこ病および疫病に対して強度の抵抗性を示す。
3.草姿は立性で中間直枝型の果房形態を有し、果房当たりの着果数が少なく摘果作業が不要である。
4.果実の大きさと形状の揃いが良く、パック詰め作業が省力化できる。
5.果実は円錐~短円錐形、果皮色は橙赤~赤で光沢があり、果肉色は淡赤である。「とよのか」と比べ果実硬度は高く、糖度と酸度はやや低いが、食味は良好である。
6.やや晩生のため、半促成栽培および露地栽培に適する。

*https://www.naro.go.jp/collab/breed/0300/0301/001367.html より

 

 カレンベリーとは?
 いちごの種類はたくさんありますが、カレンベリーは、病気につよい丈夫な品種です。いちごの4大病害といわれる 「炭素病」「いおう病」「うどんこ病」「えき病」に抵抗性をもっています。そのため 家庭菜園で、いちごの栽培が初心者の方、露地栽培に向いています。ご自分で育てたいちごは格別においしいでしょう。おうちでいちご狩りができます。

 いちごの特長
 カレンベリーの果実のは、大きく、形よく、味のバランスのよい おいしいいちごが収穫できます。

・1果が25〜30gと大きめ(とちおとめが平均15g)
・やや縦長の美しい形
・「甘味」「酸味」のバランスがほどよいので、そのまま食べても いちごジャムを手作りしてもおいしい。

 いちごの栽培方法とポイント
 定植:使用する用土は、市販の野菜用園芸培養土を使用して日当たりの良い場所に定植してください。
 畑の定植は、水はけのよい場所を選び、よく根が張るように深く耕し、たい肥や腐葉土、元肥料を入れてください。株の間隔は30㎝くらいあけて定植します。マルチを張って雑草を抑制すると生育がさらに良くなります。
 プランターの場合は、60㎝プランターに2~3株を定植します。
 鉢の場合は 6~7号サイズに1株を定植します。
 株の地際が埋まらないように浅めに植えてください。株元の加湿や腐敗を防ぎます。


 株の地際がうまらないように浅く植え

 水やり:春の収穫期は、3日に1度程度様子をみながら水やりしてください。夏場は旺盛に生育しますので、乾かないように毎日あげてください。ただし、表面が常に濡れていると腐りやすくなるので注意が必要です。

 肥料:春と秋に野菜用の緩効性化成肥料(かんこうせいかせいひりょう)を株元に規定量施してください。

 ポイント:収穫前の春から夏にかけてランナーという子株がたくさん出てきます。品質の良いイチゴを収穫するために、ランナーが伸びていたら元から抜きましょう。ランナーを抜きとることでランナーから栄養が逃げず、充実した株になり、たくさん収穫がたのしめます。

 収穫期が過ぎ、梅雨頃から夏にかけてのランナーの子株をうまく誘引してあげれば、翌年春にまたたくさんの果実を収穫できます。

 

 アブラムシやダニが発生したら、市販の殺虫スプレーで駆除してください。鉢で栽培されている場合、ダニが発生したら、株自体をひっくり返して水の中には全体をつけこみ、ジャブジャブあらってください。ダニの密度が減ります。

*https://www.mbflora.co.jp/introduction/spring-flowers/%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%94/%E3%83%9F%E3%83%A8%E3%82%B7%E3%81%AE%E3%82%A4%E3%83%81%E3%82%B4/ より

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<言 葉> 春の言葉 春時雨

2021-04-19 08:35:33 | 言葉

 「春時雨」

 「春時雨」とは、春に降る時雨を指した言葉。

 そもそも時雨というのは、急に降りだしたりやんだりするような不安定な通り雨のことを表した言葉です。
 春時雨とは、春に突然降ったり止んだりすることを繰り返すにわか雨のことを意味する言葉となります。

*https://shikitari.net/shikitari/nijushisekki/season/5589/ より

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-大野克夫

2021-04-19 08:28:55 | MUSIC

 「大野克夫」

 1939年9月12日生まれの81歳

 大野克夫が手掛けた『名探偵コナン』オリジナル・サウンドトラック、 初の全世界配信決定! 2021.01.27

 劇場版最新作『名探偵コナン 緋色の弾丸』の4月16日公開を記念して、1997年に公開された劇場版『名探偵コナン』第一作「時計じかけの摩天楼」から、第二十二作「ゼロの執行人」までのオリジナル・サウンドトラックがデジタル配信スタート!

 全作を手掛けた大野克夫氏はこれまで「名探偵コナン」サントラの配信は一切行っていなかったので、今回が初の全世界配信。
 4月16日の最新作『名探偵コナン 緋色の弾丸』公開まで、1月27日(水)より毎週2タイトルずつカウントダウン配信されます。

 大野克夫氏コメント
 「名探偵コナンの楽曲が、一挙に配信されることになりました。是非、名探偵コナンの世界を音楽でご堪能下さい!」

*https://www.universal-music.co.jp/ohno-katsuo/news/2021-01-27/ より

 

 大野克夫先生インタビュー
 大野克夫先生プロフィール

 大野克夫先生
 1939年9月12日、京都生れ。
 京都・大阪のジャズ喫茶を中心に、スチールギター奏者としてデビュー。‘62年、ザ・スパイダースのメンバーとなり、10年間活躍する。
 解散後、沢田研二、萩原健一等と共にPYG(ピッグ)を結成。その後、井上堯之バンドに参加し、解散後大野克夫バンドを結成。
 作曲家としては、沢田研二に「時の過ぎゆくままに」 「勝手にしやがれ」等のヒット曲を提供、特に'77年「勝手にしやがれ」は、レコード大賞・歌謡大賞他、各賞を受賞。
 また、TVドラマのサントラ盤でも「太陽にほえろ!」 「傷だらけの天使」など数多くを手掛け、'96年スタートの人気アニメ「名探偵コナン」の音楽も担当するなど幅広いジャンルで活躍している。

 どんな楽器も自由に使いこなした少年時代は、『堀川の神童』と謳われる
 京都の老舗「呉服屋」で、5人兄弟の末っ子として育った大野先生。父親は、本業のかたわら尺八の名手で、母親も筝の奏者。姉はピアノをたしなみ、兄達は大のジャズ好きというように、大野家の家庭には和洋折衷の音楽が常に飛び交っている環境にあったとか…
 まずは、その頃の楽しい思い出からお話しして頂きました。

 「いま思い出すと、(家には)何であんなに色々な楽器があったのかなァと… マンドリンはあるわ、手風琴(=アコーディオン)はある。勿論ピアノはありましたけど。あとサーカスの球乗りの道具まで置いてあったり(笑)。…そういう遊び好きの親父だったんですね。そこで、(最初に)耳に聞こえてきたのは、2才位の時かな…姉のピアノでしたね。僕は何をしていたかというとピアノから飛び下りる。(鍵盤を)足で踏んずけて飛び下りるぐらいのこと…そんな所から始まったんです。でも姉のピアノを聞いていると、間違いが多いんですね(笑)。本人は気が付かずに譜面をサァーっと通り過ぎるんですが…聞いてる僕のほうが、『あッ、ここ!』とか気付くんです。 ところが、今度は自分でピアノを弾いても、例えば『エリーゼのために』なんかは、左指(のオクターブ)が届かないもんだから、下(の音)は大きくなったら弾こうということで、2つ目の音から弾いていた…そんな事を記憶してますね。」

 他にも、バイオリン、ラッパといった洋楽器はもとより、尺八、三味線、筝など和楽器に至るまで『家には楽器という楽器がゴロゴロしていた』とおっしゃる大野先生。また、それらは『どういう音がするんだろう?』という興味でいじっているうち、どんな楽器もこなせる様になってしまったのだそうです。
 では、そうした色々な趣味をお持ちだったお父様のしつけのほうはいかがだったのでしょう?

 「まったく、“我関せず”というか、こうしちゃいけない、ああしちゃいけない ―――というものは何もなかったですね。勉強しろ!なんて言われないから、よけい自分で勉強しなきゃいけない…。でも上の兄達は、けっこう叱られていましたね。何か家の物がなくなったと言うと、兄が質屋に持っていったりする事があって(笑)。…それで皆並ばされて怒られる。でもそれが、しつけになっていたんでしょうね…。あぁ、こうやったら怒られるんだ、と。僕は末のほうだから直接何か言われるというのは、あまりなかったですね。」

 兄弟ゲンカなどは、されました?

 「三つ上の兄とはやりましたね。殴り合いまではいかないけど…。向こうは手加減しているんだけど、こっちは手加減なしに。もうワイシャツやぶったりとかね(笑)。 …やぶった後は、悪い事したなって思ったけど。」

 さらに大野先生の秀才ぶりは、小学校2年生の時担任だった音楽の先生から、ト音記号(高音部記号)・ヘ音記号(低音部記号)などの基礎を教えられ、早くも小学校4年生の時には、当時の『卒業生を送る歌』を作詞・作曲までしてしまったというエピソードも残されています。
 当時を振り返られて、作曲はそれほど難しくはなかったのですか?

 「そうですね、…最初2年から3年の時、2部形式とか4部形式とかね。簡単なメロディーがあって、次にちょっと違ったメロディーがあって、次にサビみたいな違う展開のものがあって、またA’に戻って終わる。「AA’BA’」の基本形ですよね。というのも…小さい頃から姉のピアノを聞いたり、親父からは尺八、兄達のジャズレコードを聞いたりしていて、それと小学校で習った基本形とが合致したんでしょうね。『あぁ、こういうものだなぁ』って…。だから、その頃はいくらでも作れるわ。という感じでしたね。」

 ところで、小さい頃から夢中だったことに魚釣りもあるそうですが?

 「当時、仲間たちと一緒に二条城のお堀へ(釣りに)行くんですが…。
本当は、あそこ(お堀)は釣っちゃいけないんです。だから見つかると怒られるんですが、警備の人が注意しに来たらあわてて道具を片づけて逃げるんです。 そのスリルが楽しくてね(笑)。でもそのうち、お金を払えば釣らせてくれるという事が分かって…。小さな紙にハンコが押してあるものを買う訳ですよ。あのお金、誰が持っていくんだろうって…(笑)。 そのあとに、琵琶湖へなんかも、よくフナ釣りに行ったりもしましたね。」

 そして、中学校では数学部に入られたそうですが、数学的なものにも興味をおもちだったのですか?

 「あまり意識はしていませんでしたけどね。たまたま担任が数学の先生で、『大野君、数学やりなさい。』と言われて、『ハイ!』とか言って、そこから数学部が始まったんですね。僕はね、そもそも数学と音楽と体操 この三つは、わりと共通するところがあるな、と思ってるんです。体操はスポーツ感とかリズム感という点で、音楽や数学も入ってくるのかなって。少なくとも文化系じゃない、何かあるんじゃないかと思うんですけどね…。」

 地元のジャズコンテストでは史上最年少!!
 高校生バンドで優勝し、周囲の大人たちを驚かせる。
 京都の名門、堀川高校へ進学されてからは、いよいよ才能開花。その後、音楽の道に進まれるきっかけとなられたそうですが、次には、そのあたりのエピソードをお話し頂きました。
 ところで、高校時代は軽音楽部でご活躍されたそうですね?

 「高校に入ると、なんか(校舎から)好きな音楽が聞こえてくるんですよ。当時、軽音楽クラブというのがあって、そこには2年生がいなくて3年生だけの集まりで…。クラリネットがいたり、スチールギターの人がいて、“ペニーグッドマン”(のナンバー)なんかをやってました。ところが、ピアノがいなくて『大野君、ピアノ弾けるの?』 『弾けますよ』と一緒にやってました。そこで2年生になった時には、3年生がいなくなっていよいよ我々の天下だ!という訳で、中学(の時)の数学部の連中を集めてバンドを作ったんです。
 “ウエスタンバンド”で、僕はスチールギターを担当したんですが、実はその前の1年生の時に、3年の先輩が持っているスチールギターにえらく興味を持ちましてね…。手作りで同じものを作ってもらったんです。」

 そこではじめて、ジャズコンテストに出場された訳ですね?

 「“京都ジャズ合戦”というのを毎年やってたらしいんですけど、『じゃあ、一回出てみよう』というんで、5人で出場したんです。演奏したのは『誇り高き男』(当時の西部劇サントラ盤)という曲で、口笛のところをスチールギターの一番高い音で出して…。もう一曲は何をやったのか憶えてないけど、服装は、黒ズボンに白のワイシャツ、グリーンの細い棒タイをリボンに結んで、テンガロンハットも被って。
 あと他(の出場者)には大学生もいたりして、同志社大学はジャズのフルバンドだったりしましたが…そこで、一等賞になったんです。それから、当時審査委員長をされておられた浅田憲二さんの家に呼ばれたりして『キミたち、やるねェ!!』と褒められて、ちょくちょく遊びに行っていましたね。」

 十代でプロのバンドに参加。
 『京都に名スチールギター奏者現わる!』と、業界でも有名に
 ジャズコンテストの優勝がきっかけで、そのテクニックがプロの目にもとまり、当時ロカビリーでは京都の代表格だったゲーリー石黒氏にスカウトされる。そして、高校卒業後“サンズ・オブ・ウエスト”のスチールギター奏者としてプロ入り。昔の新聞記事によれば(ゲーリー氏いわく)、『遊びに来ないかと声をかけたら、またたく間に僕らのレパートリーをコピーしてしまったのにはびっくり。僕にも分からない程のテクニックでした。』 また当時、ゲーリーバンドの専属司会者だったのが浜村淳氏で(浜村氏いわく)、『目のクリッとした美少年が、腕前は三味線でスターダストを弾くほど…』と絶賛しています。
 続いては、十代にして早くもプロ入りするまでのいきさつからお伺いしたいのですが?

 「たまたまゲーリー石黒とサンズ・オブ・ウエストの演奏をベラミ(ジャズ喫茶)に見に行くと、素敵な赤いダブルネックのスチールギターを使ってるんですよ。僕が今使ってるのより『これまたいいなァ』と思って、話しかけたところ…その人(プレーヤー)が、そろそろ職を変えたいので『代わりをやってくれませんか?』と。『だったら、そのスチールギターをわけてくれませんか…。』と、それ(スチールギター)欲しさに入ったのが一番のきっかけでしたね(笑)。その後、『高校を卒業したら、バンドに入ります』という約束で、3年生の夏休みはバンドの手伝いに行ったり、ゲーリーさんの家に通って、レパートリーを練習してました。でも技術的には、僕より2才年上でギターの福田利夫さんと言う人がいまして、彼のテクニックは物凄かったですよ…。全国に知れ渡ってるくらい。日本でも“チェットアトキンス”を弾けるギターリストは福田さんか、スウィング・ウエスト(現・ホリプロ会長の堀威夫氏がリーダー)でベースを弾いていた植田さんぐらいだとか、そういう噂がありましたからね…。」

 ザ・スパイダースに入団。そして黄金のGS時代が到来
 『三つの顔・その(1)…天才キーボードプレーヤー』
 '61年5月、リーダーの田辺昭知氏がザ・スパイダースを結成するが、大野先生はその1年半後にメンバーへ加わる。当時の入団までのいきさつを、阿久悠氏の著書『夢を食った男たち』によれば〈(田辺氏は)新しいスパイダースを成功させるには、この男(大野先生)がキイマンになると見込んだ。それが京都の天才・大野克夫である…。〉と書かれている。また、田辺氏自身も〈スチールギターはバーを持って弾くけど、大野の音の切れはギターみたいだった。能力には自信もあったのに、声をかけてから一年半も待たされた。〉とおっしゃっていらっしゃいますが…。
 そもそも、まずは田辺さんとの出会いからお聞かせ願いますか?

 「京都のジャズ喫茶ベラミで“スウィング・ウエスト”と共演した時が、田辺さんとの最初の出逢いでした。例えば僕が難しい早弾きの曲をコピーして来て、そのレコードを福田さんに渡すと、次の日にはステージで演奏可能でしたので共演の時に『チビちゃん!(福田さんにニックネーム)あれやって!』とおどかしの早弾き演奏をする訳です。すると、スウィング・ウエストも『あッ、やられた!』と。田辺さんもそんなところを見てられたんじゃないですかね。」

 そして、誘われてから1年半もためらわれたというのは、どういう理由からだったのでしょう?

 「たしかに田辺さんがおっしゃってた様に、ゲーリー石黒さんに遠慮していたのも一つありました。それにもう一つは、当時バイオリンの木村さんと言う人が1年位で東京から帰って来られて、その人が『東京へ行くなら、腕をみがいて行けヨ』って、その一言で。誘われたからハイッて行くんじゃなくて、もっと徹底的に腕をみがいて行ってやろうと…だからそれだけ時間がかかったんです。そして2回目(田辺さんから)誘われても、まだ返事が出来なかったのは、いよいよゲーリーさんに言わなければいけない。『明日からやめます』じゃぁダメだし、半年という期間を持ったんです。それで次に会った時、『もうスパイダースが始まるんだけど…』と言われて、『7月なら行けます!』と返事して、ついにゲーリーさんに話をしたんです。」

 それから10年間位のあいだ、世はまさにグループサウンズの全盛期を迎えられる訳ですが…
 スパイダース時代のエピソードとしまして聞くところではギターの裏演奏までされてたとか?

 「もとスリー・ジェット(ホリプロ所属のヴォーカルグループ)のヴォーカルだった井上堯之はスパイダースへ入ってからギターに転向したので、エレキ(ギター)のテクニックが今ひとつだったんです。でも当時はベンチャ―ズもやらなきゃならない…スパイダースはベンチャーズが大嫌いでしたが、そうも言っていられない。そこで、あの♪テケテケテケを演奏する時、彼がさり気なくアンプの方へ回って、チューニングする様なふりををする…その時、僕が代わりに♪テケテケテケテケーとスチールギターでやる訳。まぁ、良きも悪しきもそうゆう時代でしたからね。(笑)」

 歌謡曲の作曲でデビューするや、「勝手にしやがれ」でたちまち音楽賞総どり
 『三つの顔・その(2)…時代をになうヒットメーカー』
 作曲家としては、作詞・阿久悠氏とのコンビによる沢田研二の一連のヒットシリーズ「時の過ぎゆくままに」「勝手にしやがれ」「サムライ」等々-まさに沢田研二のヒット曲全盛時代を作り出されてこられました。
 続いては、大野先生のもうひとつの顔である、時代をになうヒットメーカーとして、沢田さんとの思い出などお伺いしてみました…

 「彼(沢田研二)は、ヴォーカルとしては絶品の楽器ですね。(僕が)まだスパイダースの頃から、彼の声の強さを羨ましいと思ってましたね。日劇ウエスタンカーニバルなんかは、ぶっ続けで一週間もあるんですが、スパイダースのマチャアキ(堺正章)なんかは、3日目位で声がかれちゃうんですよ。ところが彼は、まったく平気で、その強さたるや…物凄いものがありましたね。」

 大野先生が、歌手・沢田研二の曲を初めて手掛けられたきっかけは、TVドラマ「悪魔のようなあいつ」の挿入歌「時の過ぎゆくままに」からでした。 しかし、この曲が大野サウンドに決まるまでには、当時、阿久悠氏の作詞を、当代の人気作曲家たち6人が競作の末、みごと大野作品が選ばれたというだいそれた逸話が残されています…。
 その時のいきさつからお聞かせ願いますか?

 「当時、久世さん(ドラマ演出家の久世光彦氏)のところに、井上堯之と一緒に打合わせに行ったんですが…彼はコンペ(競作)と知ってカンカンになって怒りましてね。(笑)『とんでもないよッ!』て。でも僕は、打ち合わせの段階で早く(家へ)帰りたいなって…というのも、もう頭の中で(作曲した)メロディーが充満してるんですよ。だから(久世さんの)話し半分位聞いて、もう家へ帰ったらすぐ作って、あくる日持って行きました。さすがに久世さんも『もう出来たの!?…』と驚いていましたけどね。(笑)」

 その後は、作詞家・阿久悠氏とのゴールデンコンビにより、沢田研二の大ヒットブームを巻き起こす訳ですが…そもそも、沢田さんの曲を作られる時は、どの様なことをイメージされたのでしょうか?

 「彼(沢田研二)の曲を作る時には、まず歌う姿が頭の中にでてきて…テレビの映像ですね。 どういう音程から声を発しているか?が聞こえてくるんですよ。この音だッ!ていうそんな所から発想するんですけどね。
 例えば“勝手にしやがれ”だと、あまりデレっとしたものじゃあない、ちょっと強いもの。それに阿久さんとのコンビは、殆ど詞が先(に作られること)が多かったですね…
当時“勝手にしやがれ”というタイトルが、ちょっとキツいんじゃないかって言うんで、もしボツになった時、もうひとつ代わる曲を用意しとかなきゃならない。そこで2曲目はメロ先(=先に作曲すること)で作って、詞をあとでつけた…それが、次に出すシングルのB面になって、結局(1曲目の)『勝手にしやがれ』を出すことになった。
でもあの時は、『勝手にしやがれ』のレコーディングを明日にひかえて、普通ならアッという間に出来るはずの大野克夫が…出来ないんですよ、曲がね。
 井上堯之に『あすレコーディングだけど、まだ出来ないんだよ…』って言ったら『出来なきゃしょうがない。スタジオ、キャンセルだよね』と。
そういう話をしながら家に帰ってピアノに向かうと、あっという間にイントロが出てきた…ちょっときわどかったですね。
 でもそんな具合なのに、当時沢田研二のLPを年間2枚も出していましたからね。僕は『2枚は無理じゃない…1枚でいいんじゃない?』と言ったんだけど、当時所属していた事務所が、いや2枚出すと言って譲らなかったですね。」

 TVドラマ「太陽にほえろ!」から、人気アニメ「名探偵コナン」まで知られざるサントラ盤の名手!!
 『三つの顔・その(3)…話題のサウンド・トラック盤作曲家』
 '72年(昭和47年)スタートした、日本テレビ系放送のTVドラマ「太陽にほえろ」の主題曲を担当された大野先生。当時このテーマを人気バンドのPYGが演奏したことから、ドラマ共々テーマ曲も全国的に大ヒット!!そして2年後、萩原健一主演のTVドラマ「傷だらけの天使」(同じく日本テレビ系放送)のテーマ曲も担当、さらに6年前からは、人気TVアニメ「名探偵コナン」の音楽とまさに異色のサウンド・トラック盤作曲家としてのご活躍もされていらっしゃいます…。
 大野克夫・三つめの顔は、知られざるサントラ盤作曲家として、まずは「太陽にほえろ!」が始まった頃のエピソードからお伺いしてみました。

 「その(企画の)話があってから、たまたま5日間位親戚の家に遊びに行っていて、ピアノで確か5曲位作ったと思うんですよ。それを、オールラッシュを見たあとの打合せで、笛か何か持っていって…『こんなメロディーが出来ているんですが?』って、聞かせたんです。
 そしたら岡田さん(元日本テレビプロデューサー・岡田晋吉氏)や梅浦さん(元東宝プロデューサー・梅浦洋一氏)が『ああ、いいじゃない!』って言ってくれたんです。
でも一番最初の打合せの時、岡田さんに『これは何クールですか?(テレビ業界用語で1クールとは3ヶ月間放送のこと)』と聞いたら、『半永久的だ!!』と言われて、初めて覚えた業界用語使って恥をかいた記憶がありますけど(笑)…。
 こういうドラマの音楽をロックグループが演奏したのはこれが最初なんです。それまでは、スタジオミュージシャンの弦(楽器)だったり、ジャズミュージシャンによる―――いわゆる劇判だったりするんですが、「太陽にほえろ!」の場合このロックサウンドが良かったんだと思ってますね。
 でも、石原裕次郎さん(=ドラマの主役)も、最初こういう音楽がタイトルになるんだと聞いた時、『えッ!』とびっくりされていたそうですよ(笑)。
 ショーケン(萩原健一)の推薦で、こういう音楽になったと聞いて、納得したらしいですけどね…ショーケンの頭の中には、こういう音楽があったんでしょうね。
 それに、そもそも「太陽にほえろ!」の音楽にしても、最初、岡田さんや梅浦さんとショーケンが打合せをした時から、僕の話をしておいたらしいんですよ。」

 ところで、お話にも出ていた萩原健一さんとは、ずいぶん昔からのおつきあいと聞いていますが?

 「彼がテンプターズの頃から、同じプロダクション(当時、スパイダクション)でしたから…。
 それに、彼は面白いところがあって、いきなり電話かけてきて『曲作って欲しい』とか言ってね…いま、下の喫茶店に来ているなんて言うんですよ。
 あるいは突然、夜中に誘われて、一緒に車で京都へ行ったこともあります。その時、自分でもけっこう好きな曲ができていて…『ロンリー・ウルフ』って言うんですけど、そのデモテープを何の気なしに車の中で聴いてたんです。すると、一緒に聴いていた彼が『いいなァ…これ!!』って、有頂天で喜んでるんで、『ごめん、実は沢田の曲なんだ』と言ったらガッカリ。悪いことをしてしまったと思っています…。」

 そしてこのたび、いよいよ14年ぶりに『太陽にほえろ!2001年』がスペシャルドラマとしてよみがえった訳ですが、ドラマの人気もさることながら、テーマ曲がなんと30年ヒットし続けているのも音楽業界では大変な記録となるのだそうです…。
 今回のテーマの特色としては、どういったところでしょうか?

 「'97年と'98年にも、2度スペシャルバージョンとして出しましたが、その時はかなり(アレンジを)いじった音楽にしている。ところが今回は、最初に戻ったシンプルなもので行けないかなと思って…梅浦さんに相談してみたら『たしか、1分50秒にイントロ20秒だっけ?』と言われたんで、ピンときました。イントロが20秒と決まったら、あとは決まってしまうんですよ。
 だから、昔聴いた方にとっても懐かしいと思いますよ…。
 それから、新人刑事のテーマについては、今までやった事ない様なものになっているので、ぜひ聴いてみて下さい。」

 そしてもうひとつ、日本テレビとの関わりで大野先生といえば、人気アニメーション「名探偵コナン」(読売テレビ系)の音楽をすでに6年前から担当して頂いております。
その間、発売されたCDは全10枚にのぼるそうですが、このコナンに対する思い入れのほどはいかがでしょうか?

 「子供向けの番組だというのと、アニメだというのと、コナンがかわいいというのとで、何か自由に作れるという感じですね。
 最初この話を頂いた時、頭の中は“シンセサイザー”の音でもう出来上がっていました。でも、シンセだけじゃダメだから… やっぱり将来の子供たちに向かって『生音ってこういうもの』 『生ギターってこういうもの』 『手で弾く音楽はこういうものだ』と伝えてあげたくて、思わず… “ハモンド”って声を出したら『行きましょう。それで!』とスタッフの言葉が返ってきました。
 (仕事の)依頼者側としては、よほど「太陽にほえろ!」のイメージが強かったらしい。それで、メインテーマには絶対♪タランタランタランを使わないぞってやってたんですが、中には『ぜひアレを…』というリクエストも多くある。だから形をかえて作っても、やはりあの形は変わらないんですよ…。
 譜面上は変えても、聞いている人には同じに聞こえる。この前も、'97年の「太陽にほえろ!」のテーマを初めて聞いた子供が、『この曲、コナンのまねしてる!!』って言ってるんです(笑)…。」

 人生生涯の趣味は、音作りとフィッシング
 『仕事だと思うと何か制約される…音楽の仕事も、趣味のうちだと考えたいな』とおっしゃる大野先生ですが、続いては人生生涯の楽しみとしていらっしゃる、音作りとフィッシングの話題についてお伺いしました。

 ところで聞くところでは、簡単なお仕事を頼まれても先生のご性格からかなり手のかかった作品にしてしまわれるというお噂なんですが?

 「たとえば(仕事が)歌もののメロディーにしても『ピアノとハミングでいいですよ』って頼まれても…ピアノの弾き語りじゃ、自分が聴いたとき面白くないし、聴きたくない。だからなんとか聴くにたえるものって、カラオケを作ってしまったり。詞が出来たらすぐ歌いたい。そして歌ってしまう。そんなところから、デモテープ作りに凝ってしまうんですよね…(笑)。
 ただ発注を受ける際、僕の方も『ピアノメロ(ディー)だけでいいですか?』って一応言っておいて(相手を)安心させて、余裕があると『またやってしまいました。』ってね(笑)。本当は向こう(発注先)も、『困るんですヨ!』と言いたいんじゃないかな…。
 だってアレンジャーに持って行く時、メロディーだけの方が色々と発想がふくらむのに、『また、やってくれたな…。』という声は蔭ながら聞こえてくる。でも、ついつい自分が楽しみたいから作ってしまうんですよ…(笑)。」

 もうひとつのお楽しみのフィッシングについて、本格的にはいつ頃から始められたんでしょう

 「'86年の時ですから、15~16年前ですか、初めてカジキマグロのトーナメントに出場して500ポンド(約227kg)の大物を射止めたんですよ…。重さは小錦ぐらいで、馬か牛の腹ぐらいの太さがありましたね。それがきっかけで、面白いと思いやみつきになりました。でも、あれはただのスポーツじゃない。大変な重労働ですね―――というのも、(釣る時の)針は大きいんですが、その尖った先がちょっと引っ掛かってるだけで、たぶん1mmも入っていないでしょう。そんなもんで、どでかい魚がこっちへくるんですからね。また敵もさるもので、泳いでゆるめて放そうとする。それがこわいので、たえず緊張感がある…。
 だから釣りの魅力というのが、今やっとわかりましたね。たえず音楽のことが頭の中にあるので、一回そこから離れて“無”になってしまえるというか…魚と対話できるというか…アジ釣りの時なんかは、何とかエサを食べさせようと試行錯誤しながら、それ(釣り)だけに没頭できる時間が面白いですね。」

 これからの夢、抱負は?
 「僕は(将来のこと)何も決めないんです。自分を制約しないで、いつも自由にいたいと思いますね。決めてしまうと、がんじがらめでいいものが見えてこない…。だから一つの仕事が終わると、しばらく何もしない。ボケッと…そのボケッとした中で作る仕事以外の音楽で、いずれCDを出したいですね。
 でも今は、この仕事が終わったらハワイへフィッシングに行くのが楽しみかな…。」

 一見、物静かで理知的な語り口の大野先生でしたが、その奥には「勝手にしやがれ」の様な大胆かつ情熱的な発想もお持ちでいらっしゃいます。
今後も素敵な大野サウンドを、大いに期待しております…。

 大野克夫先生プロフィール
 京都出身。
 高校時代より関西のジャズ喫茶などでスチールギター奏者として活動し、'62年からザ・スパイダーズのメンバーとなり10年間活躍。P.Y.G(ピッグ)、井上堯之バンド解散後、大野克夫バンドを結成。
 作曲家としては、'77年レコード大賞ほか各賞を受賞した沢田研二の「勝手にしやがれ」ほか、「太陽にほえろ!」「傷だらけの天使」をはじめ、ドラマの音楽としても数々の名作を生み出している。「木村家の人々」のほか「コミック雑誌なんかいらない!」「エロティックな関係」など内田裕也主演作品ほか、映画音楽も手掛けている。
 「電撃戦隊チェンジマン」「五星戦隊ダイレンジャー」など子供向けヒーロー番組の主題歌も作曲するなど、作・編曲家、音楽プロデューサーとして幅広いフィールドで活躍中である。最近では、大ヒットアニメ「名探偵コナン」の音楽を手掛け、大野克夫バンドの10年ぶりの復活が話題となっている。

 代表作
●歌
『時の過ぎゆくままに』
『勝手にしやがれ』第19回(1977年)日本レコード大賞・大賞受賞
『LOVE(抱きしめたい)』『ヤマトより愛をこめて』『カサブランカ・ダンディー』
『ダーリング』『ブーツを脱いで朝食を』『可愛いい人よ』『横浜いれぶん』
『ローリング・オン・ザ・ロード』『居酒屋』 ほか
●映画音楽
『パリの哀愁』『炎の肖像』『水のないプール』『十階のモスキート』『野獣刑事』
『俺っちのウェディング』『鍵<THE KEY>』『コミック雑誌なんかいらない!』
『木村家の人々』『魚からダイオキシン!!』 ほか
●TVドラマ音楽
『太陽にほえろ!』『傷だらけの天使』『悪魔のようなあいつ』『祭ばやしが聞こえる』
『寺内貫太郎一家』『ただいま放課後』『夢カメラ』『本当にあった怖い話』『ザ・刑事』
『揺れる想い』『いらっしゃい』『遠山の金さんvs女ねずみ』 ほか
●CM音楽
サントリー<樹氷>
コカコーラ
ボンカレーゴールド
日石ダッシュ
金鳥蚊取線香 ほか

*https://www.ntvm.co.jp/interview/archives/05.html より

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<日本酒> 富山 若鶴/若鶴酒造 鶴庫

2021-04-19 08:22:26 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(金沢国税局)】
 〈富山〉 若鶴/若鶴酒造 鶴庫

 飲み手に感動を与える「美味い酒」をめざして。

 自然・風土

 広大な平野に散居村の風景が広がる、富山県砺波市。
 夏はさわやかな風が稲穂を揺らし、冬は一面の銀世界に包まれる、自然豊かなこの地で、若鶴酒造の酒は生まれます。
 酒造りの命ともいえる仕込み水は、長い時をかけてゆっくりと大地に磨かれた庄川の伏流水。
 ミネラルがとけ込んだ湧水と豊穣な大地に恵まれた砺波平野は、昔から銘酒のふるさととしても知られています。

 

 米

 酒の出来を左右する米は、富山の大地に育まれた「雄山錦」や兵庫県三田地区で契約栽培する「山田錦」など選りすぐりの酒造好適米。
 品質はもちろん、安心・安全であることも大切にしています。
 酒米の持ち味をあますところなく引き出すため、研究と吟味を重ねた原料で丁寧に醸しています。

 

 杜氏

かつて若鶴酒造では、越後流と南部流、
ふたつの地域の杜氏がそれぞれ蔵を持って技を競い合い、より良い酒造りをめざした時期がありました。
双方の技術を受け継ぎ、それぞれの長所を活かす技を身につけたのが現杜氏です。南部流の濃醇さと越後流の淡麗さがこの上ないバランスでとけあった、若鶴酒造独自の味わいをお楽しみください。

 

 若鶴酒造株式会社 富山県砺波市三郎丸208

 ラインナップ

 「若鶴」 瑤嶺38・瑤嶺35・瑤雫・純米大吟醸 瑤雫50 あらばしり など

 「苗加屋」玲黒・玲橙・玲碧 など

 「辛口 玄」プラチナラベル・金ラベル など

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<伝統野菜> 北海道 サッポロミドリ

2021-04-19 07:56:47 | 伝統野菜

 「サッポロミドリ」

 【生産地】北海道 札幌市(札幌伝統やさい)

 【形状】茶色の産毛がなく、鮮やかな淡緑色が特徴。草丈はややコンパクト。

 【食味】実入りがよく甘みがあり、枝豆の風味がある。

 【来歴】雪印種苗株式会社が開発を進め、1974年に種苗登録された札幌発祥の枝豆で、安定した品質と収量性で、国内でもトップクラスの人気品種になっている。

 【収穫時期】8月上旬〜9月初旬 8月上旬から収穫期を迎える早生品種

*https://tradveggie.or.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%BC%9D%E7%B5%B1%E9%87%8E%E8%8F%9C%EF%BC%8D%E5%8C%97%E6%B5%B7%E9%81%93/#i-11 より

 

 エダマメ品種のロングセラー!

 特性・特徴
・葉は濃緑色で、茎が太く作りやすい。
・草丈がやや低く分枝が少ない。
・莢は鮮緑色で退色が遅い。
・3粒莢の割合が高い。

 極早生

*https://www.snowseed.co.jp/products/pd-0200082/ より

 収穫時期8月上旬〜9月初旬
 雪印種苗株式会社が開発を進め、1974年に種苗登録された札幌発祥の枝豆です。8月上旬から収穫期を迎える早生品種で、茶色の産毛がなく鮮やかな緑色が特徴。実入りがよく甘みがあるため、国内でもトップクラスの人気品種になっています。

*https://www.ja-sapporo.or.jp/agriculture/traditional/index.html より

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<漢字検定> 1級 読み 53.回答 54.出題

2021-04-19 06:59:39 | 漢字検定

 前回の回答

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 輻射  -ふくしゃ-車の輻 (や) のように、中央の一点から周囲に射出すること。

 

 問2 倥偬 - こうそう-慌ただしいこと。忙しいこと。

 

 問3 奢侈  -しゃし-度を過ぎてぜいたくなこと。身分不相応に金を費やすこと。また、そのさま。

 

 問4 燧烽 -すいほう- のろし。とぶひ。烽火(ほうか)。

 

 問5 阡陌 -せんぱく-南北の道路と東西の道路。縦横の道路。また、縦横に道路の交錯する所。ちまた。

 

 今回の出題

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 嘲戯  

 

 問2 帑幣  

 

 問3 拇印  

 

 問4 黯然  

 

 問5 誣告

 


 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書・精選版 日本国語大辞典  より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 福井 若狭塗

2021-04-19 06:43:28 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「若狭塗」

 Description / 特徴・産地

 若狭塗とは?
 若狭塗(わかさぬり)は、福井県小浜市周辺で作られている漆器です。江戸時代初期に、若狭湾のそばに領地があった小浜藩の御用職人が、美しい海底の様子を図案化したものが起源とされています。
 若狭湾は狭い湾がいくつも入り込んだリアス式海岸で、日本三景のひとつに数えられる天橋立(あまのはしだて)や、日本三大松原のひとつである気比松原(けひのまつばら)など、多くの景勝地がある風光明媚な場所です。
 若狭塗の特徴は、卵の殻や貝殻、マツの葉などで模様をつくり、その上に漆を塗り重ねて研ぐ「研ぎ出し技法」を用いていることです。そのため、漆器のなかでも独特な風格と重厚感を持っているので、美術品として珍重されています。水や熱に強いことから日用品としても普及し、若狭塗箸は国内で生産されている塗箸の多くを占めているほどです。また、分業ではなくすべての工程をひとりの職人が一貫して行なうので、それぞれの職人の個性が強くあらわれることも若狭塗の魅力となっています。

 History / 歴史
 若狭塗 - 歴史

 若狭塗は、江戸時代初期の1596~1615年(慶長年間)に、小浜藩の漆塗り職人だった松浦三十郎が若狭湾の海底の模様をデザインし、中国から伝わった漆器を参考にして作ったのがはじまりと伝えられています。この原型を改良したものが「菊塵塗(きくじんぬり)」で、その後、弟子がさらに「磯草塗(いそくさぬり)」という技法を編み出しました。現在に伝わる技法が完成したのは1658~1660年(万治年間)のことです。この技法を当時の小浜藩主が若狭塗と名付けて、下級武士である足軽(あしがる)の内職として保護・奨励しました。
 歴代の小浜藩主が藩の財政を支える中心的な産業として若狭塗の生産を積極的に推進したため、多くの優れた職人が出て、さまざまな美しい図案が誕生しました。
 江戸時代の中期から後期にかけての時期が、若狭塗の最盛期といわれています。明治時代以降も、この地域の特産品として人気を集めました。現在は、時代の流れに合った新しいデザインの研究も進められています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/wakasanuri/ より

 美しい海底を漆器で表現、若狭塗
 若狭塗は、透明度の高い海を思わせる神秘的な模様で有名だが、もう一つの大きな特徴がある。若狭塗は、各工程が分業されておらず、一人の職人が木地作り以外のすべてを行っている。細かな模様の色艶すべてに職人の思いが込められている。

 
 塗りと研ぎ出しの繰り返しが生む、自然の美
 美しい海底とも夜空の星々とも形容される独特の模様は、卵殻、貝殻、松葉、桧葉、菜種、籾がらなど様々な自然の素材をうまく使った“研ぎ出し”の手法で得られる。「ここらは海が近いですから、風が強くて、塗りの作業の最中に風が吹いて籾がらや砂などが付いてしまい、そこから生まれたという言い伝えがあります。」と話される古川光作さんは祖父の代から続く古川若狭塗店の三代目で伝統工芸士。
 若狭塗は約400年ほどの歴史がある。「この特徴的な模様は、その昔、塗師の若者が、(小浜湾の外側にあたる景勝地である)蘇洞門(そとも)に出たときに海底のあまりの美しさに感動して、若狭塗で表現したと伝えられています。」若狭塗は自然の素材を使って、自然の美しさを表現した工芸品なのだ。


 冬の間しかできない“模様つけ”
 研ぎ出しで浮かび上がる模様は、木地に下地の塗りを施した後に行う“模様付け”の作業で決まる。
 「(この作業が)一番神経を使います。この模様が若狭塗の基本ですし、もちろん(ここでの作業の善し悪しが)仕上がりにも影響します。模様は漆を塗った後、乾く前に松葉などをつけて作りますが、このとき漆の乾きが速すぎると漆がうまく集まってこなくて模様になりません。だからこの作業は12月から3月の温度と湿度が低いときにしかできません。」漆が乾くには湿度が必要だが、梅雨時などは乾きが速くなりすぎてしまうという。
 模様付けを行った後はひたすら塗りと研ぎ出しの作業を繰り返す。「若狭の馬鹿塗りなんて言われます。馬鹿になるほど塗っては研ぐという意味。」ひとつの品物が完成するのにだいたい1年はかかるという。


 下地から売りまですべて一人の職人が行う
 若狭塗のもう一つの特徴は、木地の下地から上塗りまですべての工程を一人の職人が行うことにある。
 「木地のみを仕入れて、その後はすべてやります。分業されていないのです。うちもそうですが、職人は仕事場のすぐ横に店を構えて、自分で作ったものを自分で売っています。」そのため自分の作った品にはとことんまで責任を持つという。
 「若狭塗の全行程は66にもなります。覚えなきゃならんことがとても多いですから、とりあえず品物が作れるようになるまで5年はかかります。実際にお客さんが買ってくれるようなものが作れて、仕事としてやっていけるようになるには、まぁ10年はかかりますね。」

 店ごとに違う個性的な模様
 すべてを一人がやることで、職人それぞれの個性が製品に強く表れてくる。「店ごとに少しずつ模様が違うんです。おこし模様(松葉や菜種でつけた模様)が細かったり粗かったり。それぞれの店に伝わる伝統の図柄もあります。だから見る人が見れば“あぁ、これは古川の仕事だな”とわかるんです。例えばこの梅も古川独特の図柄です。」お客もその図柄によって好みが分かれてくる。だから、何軒かある若狭塗店の中でも、“古川の店のお得意様”というのが生まれてくるのだという。

 見えないところの作業が値打ちを生む
 漆器は作業工程上どうしても高価になってしまう。だからといって、せっかく買ったものをもったいないから使わないというのでは意味がない。「毎日使うものだからこそ高価なものを選んでほしいですね。漆塗りは見えないところにちゃんと下地の作業をしているから値打ちがあるんです。値打ちがあるものは壊れないし、使うほど良い艶がでる。それに壊れたら修理すればいいんです。うちのもんであればとことんまで責任を持って直させていただきます。」
 お客さんからいろいろ注文をつけてもらえるのがうれしい、という古川さん。子供の頃から親の仕事を見て育ち、ものづくりへの純粋な気持ちからこの仕事を始めた。その情熱はまだまださめる様子はない。

 職人プロフィール

 古川光作 (ふるかわこうさく)

 古川若狭塗店三代目で伝統工芸士。27歳から33年間の職人歴。良いものを作り、残していきたいという。

 こぼれ話

 愛着のある自分専用の塗箸を持ち歩こう

 若狭は全国の塗箸の8割以上を生産しています。塗箸は丈夫なので毎日使っても5年は持つとのこと。もちろん若狭塗独特の研ぎ出しの技法による美しい模様も入っています。この伝統的で美しいお箸を自宅だけで使うのはもったいないと思いませんか。ぜひ持ち歩いて外食時にもお気に入りの一膳を使ってみてはいかがでしょう。最初は少し気恥ずかしいかもしれませんが、食へのこだわりを追求すれば、当然道具にも気を使うべき。ここ数年、若者を中心に人気を集めているコーヒーショップでは、自前のカップに飲み物を注いでくれるサービスも実施しているそうです。ならば、お箸はもちろん、味噌汁用にお椀の持ち歩きさえも自然に感じられる時代が来るのかも・・・・?

*https://kougeihin.jp/craft/0518/ より

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