いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

<苺> 恋姫

2021-04-26 07:39:46 | 食品

 「恋姫」

 夏いちご「恋姫」の生産
 「恋姫」は一年間収穫可能な「四季成り性」に分類される品種ですが、冬~春のイチゴが盛んな時期は外し、年間でイチゴがない時期である6月~12月にかけて栽培、出荷されています。
 誕生日は一年中あるのに夏に食べるケーキにはイチゴがのっていない!のっていても美味しくない!なんてことのないように・・・
 信州の地形、気候を活かし、太陽の光をたっぷりと浴びた香り高い美味しいイチゴを栽培しています。

 信大BS8-9「恋姫」

 イチゴは一年中同じものが食べられるわけではありません。
 今までの一般的な夏イチゴは糖度が低く、いわゆる酸っぱいだけと感じるか、味が無いと感じるものが主流でした。しかしこの品種は真夏でも一定の糖酸度を保ち、自慢の香り高さは変わりません。
 これほど優れた品種であるがゆえか、栽培は難しく、思い通りの収量にいたらないといった、農家にとっての難点もあります。
 夏秋イチゴの栽培環境は夏場でも夜温が下がる必要があり、伊那市西箕輪はこの気候に適しています。三方を高い山々に囲まれた伊那谷は台風などの天災による被害も少なく、非常に恵まれた栽培環境といえます。

 「恋姫」の魅力

・夏期の高温下でも高い糖度を保つので味が濃い
・食味に大きく影響するという香りが良い
・外観が美しく、切った時に中まで赤い
・比較的硬く、保管や輸送にも都合が良い
・需要の高い大きさの果実を収穫できる期間が長い

 夏秋いちごの収穫期

 イチゴは「一季成り性品種」と「四季成り性品種」に大別されます。
 生食用の多くが「一季成り」で、収穫・出荷は冬から春。
 ほぼ1年を通して収穫が可能なのが、「四季成り」(夏秋イチゴ)です。
 当社では、「春植え → 夏秋どり」となります。

*https://ibgr.jp/agri/seisan/ より

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<言 葉> 春の言葉 春尽

2021-04-26 07:36:55 | 言葉

 「春尽」

 「春尽-しゅんじん」とは、春の終わりのこと。

 「春」が過ぎゆくときを表す言葉もいろいろある。

 その中でも少しわかりにくい言葉のひとつか?

 「尽」という文字がその理由か?

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-ブルース・スプリングスティーン

2021-04-26 07:32:08 | MUSIC

 「ブルース・スプリングスティーン」

 1949年9月23日生まれの71歳

 ブルース・スプリングスティーンを今聴くべき理由とは? 誤解されてきた音楽的魅力を再考 Yuji Shibasaki |2020/11/04 18:00
 

 通算20作目となるニューアルバム『レター・トゥ・ユー』が全世界11カ国で初登場1位を獲得したブルース・スプリングスティーン。今も海外では圧倒的な人気を誇る一方、ここ日本ではなかなか伝わりきっていない「ボス」の音楽的魅力について、音楽ディレクター/ライターの柴崎祐二に解説してもらった。

 世代を超えた影響力(と誤解)

 10月23日に最新アルバム『レター・トゥ・ユー』リリースしたブルース・スプリングスティーン。長年彼に付き添ってきたEストリート・バンドと共に作り上げたその内容は、今彼が何度目かの黄金期を迎えつつあることを高らかに知らしめる圧倒的な出来栄えだ。2010年代を振り返るなら、『レッキング・ボール』(2012年)、『ハイ・ホープス』(2014年)、『ウェスタン・スターズ』(2019年)という充実作をコンスタントに発表してきた他、各地での精力的なツアー、自伝『ボーン・トゥ・ラン』の刊行(2016年)やそれに伴うブロードウェイでの弾き語り公演『スプリングスティーン・オン・ブロードウェイ』の記録的成功など、既にシルバー世代の仲間入りを果たしたボスの活躍は途切れることがなかった。

 

 US本国を始めとして、彼の人気は今や錚々たるレジェンド達の中でも群を抜いた(そして不動の)ものとなって久しく、今回の米大統領選挙に臨んでの様々な発言を含め、その一挙手一投足が音楽ファンにとどまらない幅広い層から注視されてもいる。また、こうした盤石の支持は、ベテラン・ファンからのものに限らず、現役のミュージシャンを含めた後年世代をも巻き込んだものであることは特に重要だ。ここ数年にフォーカスしても、トリビュート作品『Musicares Person Of The Year: A Tribute To Bruce Springsteen』(2014年)へも参加したアーケイド・ファイアやジョン・レジェンドなどのビッグネームを始めとして、常々ボスからの影響を公言しているウォー・オン・ドラッグスや、先日も名曲「ダンシング・イン・ザ・ダーク」をアンディ・シャウフがカバーしたり、ボン・イヴェールがボスを招いた新曲「AUATC」をリリースするなど、彼へのリスペクトを隠さないアーティストが引きも切らない。男性からの敬愛ばかりが目立つかといえばそうではなく、女性アーティストに目を向けても、代表的にはかねてからメリサ・エスリッジの熱い敬愛があるほか、最近でもシャロン・ヴァン・エッテンが昨年リリースしたアルバム『リマインド・ザ・トゥモロー』に収録された「セブンティーン」が明らかに“ザ・ボス”な曲調であることなど、様々な例がある。

 音楽界以外、例えば映画界においてもこうした状況は同様で、古くは「ハイウェイ・パトロール・マン」を基にしたというショーン・ペンの初監督作品『インディアン・ランナー』(1991年)や、近年においてもインド系の女性監督グリンダ・チャーダによる青春映画『カセットテープ・ダイアリーズ』(2019年)や、ボスの代表曲名をそのままタイトルにしたオフ・ビート・コメディ作『サンダーロード』などがあるし、他のジャンルでも……いや、キリがないのでこのへんでやめておこう。

 もちろん、日本でも古くからのファンを中心に彼への信頼は止んだことはないが、一方で、現在広く若手音楽ファンへブルース・スプリングスティーンの音楽が浸透してるかというと、やや疑問符を付けざるをえないだろう。かつて『ボーン・イン・ザ・USA』(1984年)以降にあった「マッチョなアメリカ保守の代表」的な極端な思い込みはその後ほぼ払拭されたとはいえ、現在において彼の音楽をライブリーな視点のもとに味わうという態度は、残念なことにあまり一般的とはいえないのではないか。独特の歌詞表現の重要性に鑑みても、第一に言語の壁こそがこの状況を醸成してしまったとはいえるかもしれないが、様々なレベルでアメリカ社会の美質と響き合い、あるいは病巣をえぐり出す彼の音楽が、ここ日本におけるリアリティ(生活実感)と隔絶されたものに感じられてしまう(本当はそうではないはずなのだが)ということも大きいだろう。また、彼の音楽に触発され日本で生まれた音楽が、佐野元春や一時期の長渕剛などの優れた例を除いて、きわめて記号的(袖なしGジャンとバンダナ的な意匠など……)に消費されてしまったこともこの不幸の一要因になっているかもしれない。本来の芳醇なストリート・ロック的思想が矮小化され、ときにパロディの対象にすらなってしまったことが、スプリングスティーン本人への評価と乖離した場面で共有されてきたことは、それが仮に無意識的であったとしても、拭い難い集団の記憶として引き継がれてきてしまったふうだ。

 これまで、そのような「誤解」を解こうと様々な批評的努力が積み重ねられ、実際に多くの優れた言説が提出されてきたわけだが、今回のキャリア屈指の新作リリースに伴い、改めて筆者なりのブルース・スプリングスティーン再評価を企図してみようと思う。おそらくそのための正道とは、一般に歌詞面の詳細な読み解きをするという方法なのかもしれないが、本稿ではよりとっつきやすいように、主に彼が作り出してきたサウンドの面に絞った構えで筆を進めてみよう。

 元来からの広範な音楽観

 まず始めに取り上げてみたいのが、ごく初期キャリアについて。コアなファンには知られているが、彼の本格的な演奏キャリアの発端は、10代の頃地元ニュー・ジャージーで活動したザ・キャスティールズというバンドに遡る。ロックンロールの名曲や、ザ・ビートルズ、ザ・フーなどのブリティッシュ・ビート、あるいは同時代のソウルやR&Bから直接的に影響された、今で言うところのガレージ・パンク的なサウンドを聴かせるローカル・バンドで、スプリングスティーンはそこでギターを担当していた。ヴォーカリストとしてではなく、元々彼がギタリストとして始動したという事実は思いの外重要に思う。後に全盛を極めるシンガー・ソングライター・ミュージック的な弾き語り+バック演奏という単純な図式ではなく、あくまでアンサンブル全体を見通そうとするある時期から貫徹されてきた彼の大方針というべきものは、この時期に萌芽を見ることができるだろう。キャステイルズによる貴重な音源は、先述の自伝の副読的作品としてリリースされたコンピレーション『Chapter and Verse』で聴けるので是非聴いてみてほしい。

 今となってはかなり意外な感があるが、この時期の彼は、ニュージャージー・シーン屈指の速弾きギター奏者として認知されていたようで、そのギター・オリエンテッドな方向性がリーダー・バンドでの演奏へ繋がっていく。スティール・ミルと名付けられたそのバンドにおけるスプリングスティーンのプレイは、後の彼の音楽に親しんできた方ほど驚くだろう。巧みなギターさばきは勿論、その音楽性はほとんどグランド・ファンク・レイルロードなどの初期アメリカン・ハード・ロックを彷彿とさせるものだ(これも同じく『Chapter and Verse』で聴ける)。スティール・ミルは当時、あのフィルモア・オーディトリアムのオーナー、ビル・グレアムの目に止まりオーディションを受けたこともあるというから、もしスプリングスティーンがこの路線でレコード・デビューしていたらその後のロック音楽史はかなり違ったものになってのではないか。

 これらの例からわかることは、ときに一辺倒なロックンロール・パーソンだと思われがちなスプリングスティーンが、元来からその実相当に広範な音楽観を蔵した人物であったということだ。後の彼一流のロックンロールは突然に発生したものでなく、様々な蓄積の上での果実であったことがわかるだろう。

 こうした視点と関連してみるとき、一部ファンからは未だ失敗作などと形容されることのある初期ソロ作品、『アズベリー・パークからの挨拶』(73年)と『青春の叫び』(74年)に対する違った評価も呼び寄せるだろう。初期マネージャーであるマイク・アペルとジム・クレテコスがプロデュースを担当したこの2作は、一般的にスプリングスティーン自身が自らの音楽的アイデンティティを確立する前の習作ともされているが、むしろだからこそ、様々な音楽的な懐を開陳しようとした記録として興味深い。まず前提として、CBSの伝説的A&Rマンであるジョン・ハモンドを前にしての弾き語りオーディションでデビューのきっかけをつかんがことが影響し、CBS及びマネージメント・サイドは彼をセカンド・(ボブ・)ディラン的なキャラクターで売り出そうと画策していた(ハモンドはボブ・ディランをCBSにスカウトした男でもある)。あわせて、先述の通り70年代前半はいわゆるシンガー・ソングライター・ブームの真っ只中で、アコースティック・ギターと歌、簡素なバッキングというプロダクションが主流化していた時期だった。そのため、地元で繰り広げてきたタフなロックンロール・レビュー・スタイルでの録音を求めたスプリングスティーン自身との思惑とどうしてもすれ違うことになっているのだ(特に1stアルバム)。

 しかしながら、今あらためてデビュー作を訊いてみると、そのナロウな音質含め、この「控えめな」アンサンブルだからこそ表現された味わいがみなぎっているとも思える。スプリングスティーンのアコースティック・ギター・ストロークはごく小気味よく、フォーク的朴訥(彼がディランからも大きな影響を受けていることは確かに事実だ)とロックのドライブ感が入り混じったネイキッドな質感は、まさに初作ならではというべき青々しい躍動がある。バッキングのリズムを突き抜けて走り進むような速射砲がごときヴォーカルもその印象を一層補完する。

 

 次の『青春の叫び』は、かねてより筆者お気に入りの一枚なのだが、まずは冒頭の「Eストリート・シャッフル」を聴いてもらいたい。R&B的なホーン・リフを交えたパーティー・ナンバーで、1stにあったフォーク的なキャラクターからはみ出ようとする強い気概がある一方、特にリズム面からはソウル・ミュージック的洗練も濃く匂い立っている。初期Eストリート・バンドを支えたデヴィッド・サンシャスのクラヴィネットとヴィニ・ロペスのドラムスはまさに「ファンキー」の見本たるもの。特にヴィニ・ロペスのプレイは当時から批評家筋からの評判が悪かったらしく、確かに後の竹を割ったようなバンドのグルーヴとは似ても似つかないが、ストリート的猥雑と洗練の融合という点から、渾身の演奏と評してもよい気がする(特に3:36〜ブレイク明けからの展開! これはいわゆる「フロア・ユースフル」というやつですらあると思うのだが)。その他、メロウなフォーキー・チューン「7月4日のアズベリー・パーク」の甘辛さ、「57番通りの出来事」におけるフォーク・ロック期のボブ・ディランに通じる爽やかさ、スプリングスティーン流ロックンロール最初の成功形である「ロザリータ」の疾走感、クラシック音楽から拝借したピアノ・フレーズすら交じる壮大な「ニューヨーク・シティ・セレナーデ」など、雑多だからこそ立ち上がってくる若きスプリングスティーンの音楽的包容力と蓄積が聴きものだ。

 ちなみに、時代は飛ぶが「失敗作」関連でもう一つ再評価しておきたいアルバムがある。それは、1987年にリリースされた『トンネル・オブ・ラブ』だ。一般にこの作品は、スターダムを極め尽くしたボスが一瞬の安らぎを求めた「例外的」な作品とされることが多く、相変わらず大セールスを記録したとはいえども、場合によっては音楽的な「低迷期」の入り口とする論調もあるようだ(AOR風のジャケット写真に戸惑ったファンも多かっただろう)。確かに、今作でもEストリート・バンドを従えているにせよフィジカルな質感は希薄で、デジタル楽器/録音特有の質感が前景化したプロダクションだ。しかし、今になって考えてみると、このマイルドな質感はむしろ、昨年リリースの『ウェスタン・スターズ』における西海岸ポップの趣味に通じるようなミドル・オブ・ロード路線の端緒としてみることも可能なのではないか。特に注目したいのが、ひときわソフトな「ウォーク・ライク・ア・マン」や「ワン・ステップ・アップ」、もはやバレアリックとすらいえそうなイントロが意外すぎるタイトル曲などだ。シンセサイザーによる柔和なアトモスフィアとスプリングスティーン流ポップネスの融合は他の作品では得難い本作だけの特徴であり、それこそ、ウォー・オン・ドラッグスの音楽と本作との間に補助線を引いてみたい誘惑にも駆られるのだった。

 フォーク路線における豊穣な歌世界

 次に、既に本稿で幾度か言及した「フォーク・ミュージック」的要素について突っ込んで考えてみよう。初期作での「やらされていた」弾き語り風スタイルを離れて、初めて自発的にそうした表現へ全面から取り組んだのは、やはり1982年の傑作『ネブラスカ』だろう。本作はバンドのデモとしてスプリングスティーンの自宅でテープ・レコーダーへ吹き込まれていた音源をもとにしており、弾き語りを軸に曲によってごく簡素な音が加えられているものだ。50年代に実際に起こった連続殺人事件の未成年犯の視点で歌われたタイトル曲をはじめとして、まさしくマーダー・バラッド的な沈鬱さを湛えた作品集であるが、そういったダークな色彩を演出するにあたって、この寒々とした簡素な編成がこの上なくマッチしているように思う。曲想自体は(バンド用デモという性格ゆえ)一部ロックンロール的なものもあるが、最も印象深いのは、アメリカという「バッドランド」の奥底に蠢いてきた地霊を掘り起こすような手付きだ。これは、必然的にアメリカン・ルーツ・ミュージックの豊穣と触れ合う作業でもあるし、現在に続く彼の創作スタンスの重要な要素が現れた記録でもある。

 その音像も興味深い。深いリバーブを伴ったヴォーカルが、アコースティック・ギターの金属弦と共鳴するように滲み出してくるとき、本作を一種アンビエント的と形容することにしくはない(その意味で、これは後にダニエル・ラノワのソロ作や、彼がボブ・ディランと共同作業した作品に通じるようにも感じる)。

 そしてこのフォーク路線は、1995年の『ザ・ゴースト・オブ・トム・ジョード』で最初の完成を見せることになる。予てよりジョン・スタインベックの小説、並びにジョン・フォードによる同名映画『怒りの葡萄』(1940)年に描かれた「ダスト・ボウル」時代の大不況におけるアメリカの風景と主人公トム・ジョードの姿にインスピレーションを受けてきたスプリングスティーンが満を持して吹き込んだ本作は、『ネブラスカ』に描かれた物語と長く時代に抑圧されてきた「市井の人々」の精神史を接続するかのような見事な話法によって、彼をあのウディ・ガスリーの正統的後継者の座へと着かせるような遠大な世界を作り上げたのだった。そう、フォーク・ミュージックの芳醇を、現代的な詩作とプロダクションによって蘇らせるに至って、今作によってスプリングスティーンは同時期のボブ・ディランに比肩すべき存在へ上り詰めたと言って過言でないだろう。これ以降ボスは、もうひとりのフォーク界のスターであるピート・シーガー翁との共演で話題となった『ウィ・シャル・オーヴァーカム:ザ・シーガー・セッションズ』(2006年)や、『デビルズ・アンド・ダスト』(2005)をはじめとして、折に触れてフォーク・ミュージック色の濃い作品をリリースしていくのだった。

 パンクとも共振してきたロックンロール・サイド

 ここまで様々な要素について概覧してきたが、やはりここで、その胸のすくようなロックンロール・サイドの魅力についても触れなくてはなるまい。

 3rdアルバムにしてブレイク作にあたる『明日なき暴走』(1975年)は、今も昔もボスの代表的傑作として聴き継がれてきた作品だが、改めてこの名盤にふれると、その曲の粒揃い(かつ鉄壁)なことはもちろん、スタジオ作家としての彼の偉大さが再確認される。かつて本作の発表にあたって「僕はボブ・ディランのような詩を書き、フィル・スベクターのようなサウンドを作り、デュアン・エディのようなギターを弾き、そしてなによりもロイ・オービソンのように唄おうと努力したんだ」と語ったように、オリジナル極まりない音楽を生み出した事実とともに称賛すべきなのが、優れたバランス感覚によって実現した極めつけのハイブリッド性がごときものだ。フィル・スペクターとは同時期にディオンのセッションを見学した際に邂逅しているスプリングスティーンだが、当然60年代の少年期からロネッツやクリスタルズなどを通じてスペクターの仕事に憧れ以上の敬愛を抱いてきたこともあり、ここでの取り組み方も生半可なものでない。ギターやホーンの執拗なオーバー・ダブはもちろん、ミックスにあたっても「ウォール・オブ・サウンド」へオマージュを捧げているのは瞭然で、改めて彼のマニア性のようなものが染み出してくる(個人的にも、その事実を強く意識しながら表題曲を聴き直した時のパッと視界が晴れたような感覚は忘れがたい)。他にも、ボス本人が言及した上述のアイドルたちからの影響はもちろん、60年代のスタックス等のサザン・ソウルやボ・ディドリーなど、敬愛する音楽遺産を換骨奪胎しまくる青年スプリングスティーンの姿には、ロックンロール・パフォーマーであると同時になによりも清々しいほどのミュージック・ラヴァーであることが力強く脈打っている。

 こうした路線は、マイク・アペルとの訴訟騒ぎもありお蔵入りしてしまった70年代後半のセッション(2010年に『ザ・プロミス』として発掘リリース)や、次作『闇に吠える街』(1978年)でも更に深められてくことになるが、最も充実した形で結晶したのは、1980年リリースされた2枚組大作『ザ・リバー』においてだろう。最高のコンディションにある「世界最大のバー・バンド」ことEストリート・バンドとの演奏は、まさしく恍惚的ともいえるレベルで、豪快ながらも非常に緻密。疾走感と清涼感、重量感と余裕が入り混じった、黄金期ならではというべきものだ。例えば、ザ・バーズなどのフォーク・ロックを下敷きに鋭角的かつポップにアップデートしたような楽曲(「タイズ・ザット・バインド」や「トゥー・ハーツ」など)を始めとして、70年代後半以降に現れたパンク・ロック/パワー・ポップなどとの共振度も並でなく、名曲「ビコーズ・オブ・ザ・ナイト」を提供したパティ・スミスをはじめ、ロバート・ゴードン、グレアム・パーカー(更に、一時期のルー・リードやデヴィッド・ボウイなども含めてよいだろう)らとの交流からも得たであろう「バック・トゥ・ベーシック」な質感が漲る。

 ちなみに、本作収録のフィル・スペクター風の大ヒット曲「ハングリー・ハート」は、当初ラモーンズのために描き下ろしていたものだ。近年の『ハイ・ホープス』では、オーストラリアのパンク・バンド、ザ・セインツの「ジャスト・ライク・ファイア・ワールド」を取り上げ(渋い!)、更にはあのカルト・デュオ、スーサイドの「ドリーム・ベイビー・ドリーム」をもカバーし当時から彼らのファンだったことを公言するなど、パンクへのシンパシーと興味は極めて深く、広い。こうした点は、70年代当時各シーンの情報が断片的にのみ紹介されてきた日本のファンにはあまり浸透しなかった事柄なのだが、常に労働者階級よりのカウンター・カルチャーを牽引してきたスプリングスティーンにあっては、ある種当然の事実であるともいえる(デビュー時期がもう少し遅ければ、彼もパンク・ロックの一群にカウントされていたのでは、とすら思う)。こうした視座も、この『ザ・リバー』はじめ、今あらためてボスの音楽をより深く味わうための誘導線になるだろうし、なぜ彼の音楽がいわゆるインディー(DIY)系のミュージシャンから長く支持されているのかを理解する鍵にもなるだろう。

 

 なお、この「バー・バンド」路線は、その後のEストリート・バンドとの共演機会の減少と解散により一時絶たれていたのだが、バンドの再結成ライブを記録したライブ盤『ライブ・イン・ニューヨーク・シティ』(2001年)を経て、スタジオ作においても『ザ・ライジング』(2002年)で鮮烈な復活を遂げた。続く『マジック』(2007年)、『ワーキング・オン・ア・ドリーム』(2009年)、『レッキングボール』(2012年)などもそれを継ぐ充実作といえるだろうし、まさに新作『レター・トゥ・ユー』こそは、デモを参考にせずバンドの一発取りを中心にした内容という点からも、この路線を自覚的に追求した作品といえるだろう。

 また、こうしたバンド・サウンドの魅力は、当然ながらライブ演奏によってその本領を発揮するものであるといえる。本来は実際のステージに接するのが一番ではあろうが、それが難しいここ日本でも、大作『“ザ・ライブ”1975-1985』(1986年)から近年の実況録音盤まで、激烈なパフォーマンスを追体験できる各種作品(映像含む)が数多くリリースされているので是非チェックしてほしい(「スプリングスティーン入門にはライブ作品から」は今も昔もよく言われるが、かなり当を得ていると思う)。

 ブルース・スプリングスティーンの音楽とは、ことほどさように様々な側面から評価しうるものであり、まだまだ紹介しきれていない魅力も多いのだが、さらなる探索は読者の皆さんの愉しみとしていただくとして、そろそろ筆を置こう。

 昨今のインディー・ロック・シーン(特にロックの「終焉」が言われて以降)においては、かつてのロック・キッズ(インディー・キッズ)たちが、いわゆる「編集感覚的」それ自体に没入し、更にそれを倍加的に追求することによって、ある種の袋小路に落ち込んでしまったという見取りが相応の説得力を持っている。そうした「実験」の複雑化(という名のもとに行われる矮小化)を尻目に、ブルース・スプリングスティーンは、かつて自らが約束を交わしたロックンロールをあくまで追い求め、編集感覚を駆使するにせよロックンロールとルーツ・ミュージックに確かな軸足を起き続けることで、ついには様々な文化的小部屋の壁を跨ぐ絶対的存在へと上り詰めた(その地位に相当のストレスを感じるときもあったようだが、今の彼は自然体で楽しんでいるようにも見える)。「アメリカの良心」とは、同時にカウンター・カルチャーの良心でもあり、ロックンロールの魔法は、自身がそうと信じている限り誰にも解けるものではないのだろう。実際にその魔法は今、ブルース・スプリングスティーンの疾走の記録によって、混迷の時代(アメリカはいつでも混迷とともにあるわけで、だからなおさら)において最もアクチュアルな効力を発揮しようとしているようにも思う。その姿に勇気づけられるのは、アメリカで音楽を奏でている者たちとそれを聴く「普通の」者たちに限らず、ここ日本で暮らす「普通の」我々においてもきっと同じだろう。一度でもロックンロールの魔法を信じたことがあるのならば、それはいつでも、再び私達の元にやってくるのだから。

*https://rollingstonejapan.com/articles/detail/34825/4/1/1 より

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<日本酒> 岐阜 百春/小坂酒造場

2021-04-26 07:27:56 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(名古屋国税局)】
 〈岐阜〉 百春/小坂酒造場

 小坂酒造場について
 小坂家は、濃尾平野の北部にある地方の小都市、美濃市の中心街に位置し、江戸時代より酒造業を営んできた旧家である。

 建築時代は、大戸口の楣に打ち付けた多くの祈祷札の中に安永二年(1773)と記したものがあり、構造手法その他からも安永初年頃と推定され、当地に多く見られる卯建構え町家の代表的な慣例である。

 建築後、明治初期に土間の中仕切り、「おかって」の周辺、「みはりの間」の新設などの諸改造がなされた。次いで明治20年頃に屋根の中卯建の北側を撤去し、二階の「北の間」の新設や一階「みせざしき」の床を上げるなど、現在に近い形に大改造した。その後「みせ」のユカを低くし背面の庇を改造したりして現在に至った。

 小坂家住宅の魅力の第一は屋根にある。美濃市内に卯建造りの町家は20指にあまるが、小坂家の三本卯建をあげた美しい起り屋根は他に比べるものがない見事さである。

 もっとも前述のように中央卯建の北側は撤去され現在は表通りから見ると二本卯建になっている。卯建の軒飾りも東西で形を異にし、東側が古く西側は鬼瓦を加え、鳥ふすまも改造されたものだった。現在は古い形にそろえてある。いずれにしても江戸時代の製作で、破風瓦の幅が狭く懸魚瓦も小さくひきしまり簡素な美しさがある。

 この主屋の特色の一つは東側の奥行きを短くして中庭を設定した点である。この中庭のために「おく」の間が明るさとゆとりを生じている。三本卯建もこの構造上必然的に造られたものであろう。

 内部は「中の間」あたりに建具、調度、神棚など、よく古風を残し、中仕切の「のれん」や樽部屋にも趣がある。「中の間」を見下ろす位置に二階の「みはりの間」がある。これは明治初年の改造であるが、主人がここに居て奉公人たちの仕事ぶりを監視したところという。

 二階は、当初男女奉公人たちの部屋があったり薪部屋になっていたものらしいが、明治以降に一部は立派な部屋に改造されている。

 近年建物の不同沈下による傾斜が著しくなったので昭和57・58年にわたって半解体修理がなされた。工費約6500万円で江戸時代の姿を完全に近い形で再現することができた。貴重な美濃市の町並みの代表的民家として大切に保存していきたいものである。

 株式会社 小坂酒造場 岐阜県美濃市相生町2267番地

 ラインナップ

 「百春」純米上撰・純米吟醸・吟生・大吟生・大吟 など

 「さんやほう」特別純米酒

 「梲(うだつ)」純米大吟醸 など

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<伝統野菜> 青森 阿房宮

2021-04-26 06:53:55 | 伝統野菜

 「阿房宮-あぼうきゅう」


 【生産地】八戸を中心に三戸に至る青森県南部

 【形状】食用花。花色が黄色で花肉が厚い。

 【食味】香気がよく、甘く、苦味がない。歯ざわりもよい。大きな花びらを野菜として食べる食用菊。生の花は茹でてお浸しや味噌汁の具として利用されることが多い。蒸してから干した「干しギク」は、湯がくだけで冬の食卓を賑わす料理となる。

 【来歴】天保年間(1830~1844)に八戸の商人・七崎半兵衛が大阪から取り寄せた鑑賞ギクを改良した栽培品種であるという説と、南部藩主が京都九条家の庭に香り高く咲いていた阿房宮を株分けしてもらい、南部の藩内に植えさせたのが始まりだという説がある。

 明治14年(18811)に酢漬け缶詰が開発されており、おそらく、それ以前から食用とされていたと思われる。秦の始皀帝の阿房(内南市)という豪華絢爛の宮殿にちなんで、阿房宮と命名された。

 【収穫時期】収穫時期10月下旬~11月上旬

*https://tradveggie.or.jp/%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ae%e4%bc%9d%e7%b5%b1%e9%87%8e%e8%8f%9c%ef%bc%8d%e9%9d%92%e6%a3%ae/#i-6 より

 

 王宮の名をもつ食用菊 「阿房宮(あぼうきゅう)」 特産品・お土産 | 2006-01-20 16:31

 南部地方を代表する作物に、秦の始皇帝が菊を愛でたという宮殿の名を与えられた食用菊があります。目に鮮やかな色合い。独特の芳香と甘味。そして歯ざわり。南部地方に古くから伝わる「阿房宮」です。

 エディブルフラワーと言ってしまえば西洋文化のようですが、日本人はもともと花を食用としていました。江戸時代にはかなり大衆化していたようです。食用菊というと、関東以西では刺身と一緒に盛られる「つま菊」が一般的ですが、東北地方では大ぶりな花びらを野菜の一種として食べます。

 現在、食用として栽培されている菊は約60種。山形で「もってのほか」と呼ばれる淡紅紫の「延命楽」と青森県南部地方特産で黄色の「阿房宮」が代表的です。

 一説によると、江戸時代に南部藩主が京都の九条家から観賞用としてもらい受けたのがきっかけで、旧相内村(現南部町)で栽培してみたところ、花に苦みがなく、芳香と甘味があり、シャキシャキとした歯ごたえで実においしかったため、食用として藩内に広められたと伝えられています。


 「阿房宮」の花は、初霜が降りる直前の10月下旬~11月にかけて満開となり、その時、名峰名久井岳に向かうゆるやかな斜面は純黄色の絨毯に覆われます。
 菊の刈り取りは、太陽で蓄えられた甘味をいっぱい取り込むため、冷気に包まれる前の午後3時頃から始めます。菊の花はひとつずつ鎌で刈り取られ、農家に運んだ後は、花びらをむしる「菊ほかし」が続きます。花びらだけになった「阿房宮」は、蒸され、干し上げられて干し菊となります。

 生品が料理されることもありますが、大半が干し菊となるところに「阿房宮」の文化があります。冬の食膳にもこのあでやかな色香をあしらえることとなった干し菊づくりは、名川町東円寺の板橋太観住職が開発し、教え聞いた清光寺の高山恵輪住職が地域へ普及させたと伝えられます。今から百年あまり前の明治30年頃のことだそうです。
 南部の秋を閉じこめた干し菊は、さっと湯がくだけで鮮やかな彩りと味わいを取り戻し、一年中味わえます。この地方では、古くからさまざまな菊料理が食卓を飾っていますが、菊の風味を手軽に味わえるのはみそ汁。鍋のおろしぎわ花びらを散らすだけで趣のあるおいしいみそ汁になります。
お酢との相性も良く、湯がいて水気を絞り、ダイコンおろしと混ぜて二杯酢などで和える「菊なます」も絶品です。
 伝統的な料理として見逃せないのは菊巻き。一夜漬けしたニンジンやダイコン、タカナなどを菊で巻きます。

 子供の頃には分からなかった、やさしくて香しい南部の伝統野菜です。

*https://www.marugotoaomori.jp/blog/2006/01/617.html より

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<漢字検定> 1級 読み 60.回答 61.出題

2021-04-26 06:46:04 | 漢字検定

 前回の回答

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 雨潦  -うろう-降雨によってできた水たまり。または、あまみず。

 

 問2 鴆毒  -酖毒-ちんどく-鴆 (ちん) という鳥の羽にある猛毒。転じて、猛毒。毒物。

 

 問3 咄嗟  -とっさ-ごくわずかな時間。

 

 問4 揶揄  -邪揄-やゆ-からかうこと。なぶること。嘲弄 (ちょうろう) 。

 

 問5 蛹虫 -ようちゅう-⇒さなぎ-蛹-完全変態を行う昆虫類で、幼虫から成虫に移る直前に形態を変え、食物をとらずに静止状態となったもの。ガ・ハチのように繭の中にこもるもの、チョウ・カブトムシのように裸のものがある。また特に、蚕についていう。蛹虫 (ようちゅう) 。

 

 今回の出題

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 眩惑

 

 問2 毫末  

 

 問3 赭顔

 

 問4 淫風

 

 問5 諂諛

 

 

 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書 ・ 精選版 日本国語大辞典より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 山梨 甲州手彫印章

2021-04-26 06:38:06 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「甲州手彫印章」

 Description / 特徴・産地

 甲州手彫印章とは?
 甲州手彫印章は、山梨県甲府市、富士吉田市などで作られている印鑑です。印面彫刻業者や販売業者、印材メーカーなどが山梨県内に業者が全て集まっているように、他県には見られない地場産業となっています。
 甲州手彫印章の特徴は、印材に柘(つげ)、水牛(すいぎゅう)、水晶(すいしょう)が指定されている点です。水晶研磨の技術があった甲州地方の特性を生かして、水晶の印章が生まれました。
 印材が柘(つげ)または水牛(すいぎゅう)の場合は、起低刀を用いて文字部分を残すように粗彫りをし、判差刀を使って文字を整えます。印材が水晶の場合はタガネの丸刀を叩いて印面を掘り出し、同じくタガネの平刀を叩いて文字を仕上げていきます。印面は砥石を使って平らに仕上げ、文字は枠内に左文字で描きます。
 甲州手彫印章で大切にされているのは、伝統的な道具と技法の継承です。完成した美しい印影を表現するために、印刀製作も伝承されています。

 History / 歴史
 山梨県の甲州手彫印章は、御岳山系から巨大で良質な水晶が発掘されたことから始まります。1837年(天保8年)には、甲府近郊の御岳に水晶の加工工場が設立されました。加工技術も数多く生まれ、加工職人や業者が増えていきます。板木師の彫刻技術が発達し、印材として水晶をはじめ柘(つげ)や水牛(すいぎゅう)も使われるようになりました。1854年(嘉永7年)の甲州買物独案内などの文献に山梨県の印章産業の発展をみることができます。
 文献には甲府市内に御印版を取り扱う版木師という職人の存在の記載があり、別の文献では草などが混入した珍しい水晶の印材である「極上草入六角」や、水牛の印材の注文の記載などが見られます。当時には既に熟練した職人が存在し商売をし、様々な印材が流通していたことが推察できます。
 1873年(明治6年)の太政官布告によって一般市民にも印章の需要が急に広がり、山梨県独特の出張販売や通信販売によって市場を拡大していきました。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/koshuteboriinsho/ より

 世界でたったひとつのハンコ、甲州手彫印章
 ハンコなんて安くてもいいという風潮のもと、機械でできたハンコが日本中に溢れている。そんな中、ハンコに深い愛着をもち、ハンコの持つ意味を考えながら手で彫り続ける職人が山梨にいる。この道45年の横森省三さんにお話を伺った。

 
 「新しい」伝統的工芸品のもつ歴史
 甲州手彫印章は平成12年に194番目に認定されたばかりの「新しい」伝統的工芸品だ。「認定を受けるために、印章技術が江戸時代からの歴史を持っているということを証明しなければならなかったんですよ」と横森省三さん。早速見せてくれたさまざまな資料から、甲州と手彫印章との関係が見てとれる。「山梨には水晶鉱が見つかったんです。それで江戸時代から水晶細工が始まって、水晶の研磨技術の中で印材も一緒に作るようになったんです。」水晶と印章、そして印伝。山梨で代表的なこの3つの伝統的工芸品はそれぞれの道を歩みながらも親密に関わりあってきた。横森さんのお店、日進印章のショーケースには、水晶でできた印章が印伝のケースに入って売られている。今では「印章王国」の名を欲しいままにする山梨。中学校などの卒業時にもらう印章の9割は山梨での生産だというほどだ。


 ハンコは唯一無二だからこそ、本当の意味がある
 職人は愛着を込めて印章を“ハンコ”とよんでいる。「ハンコが急速に日本に広まったのは明治以降。太政官布告の中で、一般市民、国民はハンコを使えといって以来です。それまで一般市民は苗字もなかったからね。」だがハンコ自体の歴史は鎌倉でも平安でもない、なんとメソポタミア文明の頃からあったのだ。そんな伝統あるハンコの世界も、今や機械化が進んできている。ではなぜ横森さんは手彫にこだわっていくのだろうか。「ハンコは唯一無二でこそ本当の意味があるんです。自分を証明するものなんですからね。機械に読みこまれている文字を使うやり方だと、誰が彫っても「山」は同じ「山」になっちゃう訳ですよ。でも手彫だと、同じ人が何回彫っても決して同じものはない訳ですよね。ハンコというのは2つと同じものがあっちゃいけないっていうのが当然の話だからね。」だからこそ、同一性をつくりづらくするために、あの難しい篆書(てんしょ)が使われているのである。「あなたの財産全部をこれ一つが守っている」ハンコにはそんな重みがある。

 印影を押してこそわかる手彫りの素晴らしさ
 印影。ぜひ一度本物を見てみていただきたい。さて、この手彫印章、印影を見させてもらうとその字の細さと美しい線に、ただただ驚くばかりである。鉛筆よりも細いくらいの文字がハッキリと、美しく赤でうつる。印章そのものを見ただけでは気づきえない繊細な文字の曲線美。これが自分の名前だったら。自分では決して書けないこの文字で、自分の名前を彫ってもらう。それを自分が好きに使える。一枚の紙に押された印影をみただけで、そんなワクワクした気分になれる。
 それにしても、これだけの細い文字をペンでもなく、筆を使って、はじめから左文字(鏡文字)で書くだけでなく、わずかなミスもおかすことなく、この細く美しい文字を彫り上げる。これこそまさに「職人芸」だ。
 横森さんは日本の文字の美しい線を表現してゆく芸術性に心うばわれているという。「仕事とは違うんですが、よく書道展の篆刻(てんこく)の部に応募して、そこで自分の技術を磨いてるんです。」お店の中には力強くて大きな判の作品が飾られている。

*https://kougeihin.jp/craft/1408/ より 

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