いいもの見ぃ~つけた!

「いいもの」は探せばいっぱいあります。独断と偏見による個人的「いいもの」情報発信所です。

<苺> あまみつ

2021-04-01 08:53:59 | 食品

 「あまみつ」

■あまみつとは?

●静岡県生まれの希少な品種

あまみつは2011年頃から市場でみかけるようになった新しいイチゴで、栽培が難しく収量も少ないことなどから生産者が限られることから希少性が高く、また、味のよさなどから高級イチゴとして百貨店などに並んでいます。

「あまみつ」での品種登録はされておらず「あまみつ」が品種名なのか商標なのかなど詳細は調査中です。

●あまみつの特徴
果実の外観は整ったやや縦長の円錐形で、形は「紅ほっぺ」と似ています。表皮の赤色は「あまおう」とよく似ています。

そう果の窪みは中くらいで、果肉は固くもなく柔らかくもなく、丁度良い固さといった感じです。果肉は中心近くがほんのり白い以外は全体に橙赤色で、これも「紅ほっぺ」と同じです。中心部の空洞は小さめです。

香りが非常によく、甘く芳醇な香りが強く出ています。食べると酸味が穏やかで、ふっくらとした強い甘味が口に広がります。

●主な産地と生産量
あまみつは静岡県で数軒の農園で栽培されていたようですが、現在では静岡県掛川市の川口氏の農園だけとなっているようです。

*https://foodslink.jp/syokuzaihyakka/syun/fruit/Strawberry-Amamitu.htm より

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<言 葉> 春の言葉 四月馬鹿

2021-04-01 08:53:18 | 言葉

 本日4月1日は「エイプリルフール」。

 毎年4月1日には嘘をついても良いという風習のことである。

 エイプリルフールは、日本語では直訳で「四月馬鹿」、漢語的表現では「万愚節」、中国語では「愚人節」、フランス語では「プワソン・ダヴリル」(Poisson d'avril, 四月の魚)と呼ばれる。*Wikipedia より

 起源は全く不明。諸説あるが、どれもこれも「(エイプリル)フール」かも?(笑

 

 季語には「四月馬鹿」や「万愚節」「愚人節」がある。

 大正時代には民衆にも周知されたとされる「エイプリルフール」だが、日本人の「嘘を嫌う」気質からか、なかなか受け入れられなかったとか。

 戦後からか「四月馬鹿」という言葉から「エイプリルフール」の方が一般的になったのは。私の幼少の頃はまだ「四月馬鹿」が一般的だったように思う。

 近年になり、企業PRなどに利用されるなど「大きな嘘」だが「明々白々な嘘」が世間を賑わすことに。

 

 四月馬鹿ローマにありて遊びけり 山口青邨

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<現役ミュージシャン> 意外な年齢のミュージシャンたち-キダ・タロー

2021-04-01 07:56:22 | MUSIC

 「キダ・タロー」

 誰か忘れていませんか?とずっと気になってたんだが・・・

 ようやく思い出しました(笑

 「浪花のモーツァルト」この人を忘れていたとは・・・大阪人として失格ですな(笑

 代表曲といってもCM曲ですが、「♪ピィ~チ、ピィ~チ、とぉれ、とれカニ料理~」「♪有馬兵衛の向陽閣へ」「♪出前いっちょ」などなど、ワンフレーズのインパクトが強い。その総作曲数は5000曲とも(笑

 

 意外と知られていないのが本名。

 本名は「木田 太良(きだ たろう)」。そのまんまやん!

 1930年12月6日生まれの90歳!まだまだお元気なようです。

 

 【一聞百見】「まだまだ作曲を」90歳迎える浪花のモーツァルト、キダ・タローさん 2020.7.17 16:00

 関西人には特段、説明は要らないだろう。「♪と~れと~れ、ぴ~ちぴ~ち、かに料理~」をはじめ、この人が手掛けたメロディーは関西人の脳内のみならず、DNAに染みついていると言っていい。これまでに「分からんけど、3千曲から5千曲」を世に送り出したという〝浪花のモーツァルト〟は何と今年の12月6日で卒寿(90歳)を迎える。これはぜひ、一度しっかり話を聞かねばと、取材に伺ったのだが、創作意欲に全く衰えはなかった…。

(聞き手・岡田敏一編集委員)

■人生変えたジャズの輝き

 取材はコロナ禍以前の3月上旬に行った。取材場所の大阪府豊中市内のホテルに現れたキダ・タローさんは、テレビでおなじみのにこやかな風貌と親しみやすい佇(たたず)まい。年内に90歳を迎えるとはとても思えない元気溌剌(はつらつ)さと明るさで迎えてくれた。

 今では押しも押されもせぬ超大物だが、五男一女の末っ子として生まれたこともあり、幼少期は意外にも自分が前に出ていくタイプではなかった。「はにかみ屋で引っ込み思案であまえたで、どうしようもない末っ子。食べ物も好き嫌いがあって。人見知りもするし…」

 そんなキダさんが音楽の道に入ったきっかけがアコーディオンだった。太平洋戦争真っただ中の当時、不治の病といわれた結核で亡くなった兄(長男)の遺品だった。「自宅の2階で療養していた兄が欲しがったのがアコーディオンでした。親父(おやじ)は警察官で、本格的な物を買う経済的余裕はなく、おもちゃに近いものでしたが、出てくる音は本格的でした。亡くなったとき、両親は大層悲しみ、床の間にずっと飾ってあったんです」。小学生だったキダさんは、流行していたハーモニカを吹いて遊んでいたが「アコーディオンの教読本にはハーモニカの楽譜が併記してあった」ことから、たまたま、興味本位で演奏すると「姉に褒められましてね。まあ、おだてられて始めたようなもんですわ(笑)」。

 戦時下の日本。ラジオから流れてくる歌謡曲といった大衆音楽に親しみながら、アコーディオンを楽しむごく普通の少年だったキダさんの人生を決定的に変える出来事が起きた。終戦と、それに伴って日本に流れ込んできた米国の音楽、ジャズとの出会いだ。「終戦直後、旧制中学の4年生の時だったと思います。ラジオから流れてくるジャズを初めて聞きました。今まで聞いたことのない輝きと楽しさと明るさを持っていましたね。世の中にこんな音楽があったのかと。カルチャーショックという文字が色あせるほど新鮮な驚きを受けたのをはっきり覚えています」。その驚きや感動は、単に楽曲のメロディーからではなく、音楽が持つ本質的な部分から受けたものだった。

「これまで日本で親しまれた海外の音楽は、イタリアの歌曲やドイツのオペラみたいなクラシック音楽。要するに、ありがたい音楽ばっかりやった。なのに、これほど人生に密着した心から楽しめる音楽があったんやと…」

 トランペット奏者のハリー・ジェイムスやカウントベイシー楽団、女性歌手ダイナ・ショア、男性歌手フランク・シナトラらのジャズ・サウンドに夢中になった。作曲家キダ・タローさんの原点は、実はここにあった。

■浪花のモーツァルト誕生

 「後にも先にも、これを超える衝撃はありませんでした」と振り返るジャズとの出合いを経て、音楽活動を本格化させたキダ・タローさん。ちょうど、周辺では第1次ギターブームが到来し、バンド活動が活発化。アコーディオンが弾けるキダさんも同級生から誘われてバンドに。「バイオリン奏者もいたので、アコーディオンとバイオリンというわけで、タンゴバンドを組むことになりました」

 5人組のこのバンド、バイオリン奏者が俳優の藤岡琢也氏だったのは有名な話だが、レパートリーはたった3曲。しかし「関学の大学生主催のダンスパーティーに週1回くらい呼ばれたりして。みな金持ちやから、でかい家ですねん。そこで3曲演奏してお金をもらえました」。

 珍しがられて、演奏の場はどんどん増えた。神戸のダンスクラブでも専属扱い。しかし、アコーディオンでの作曲作業に限界があるので、同じように鍵盤が付いているピアノに転向。十数人編成のジャズのビッグバンドのピアノ奏者として、大阪にできたばかりのダンスホールや進駐軍のクラブなどで腕を上げた。


 そんなある日、大阪・ミナミのパラマウントというキャバレーでバンドマスターから初めて作曲を依頼された。「18歳か19歳でしたね」。その曲を歌ったのが後の「かしまし娘」の長女、正司歌江さんだった。それにしても、なぜ、すぐに作曲できたのか? 「ジャズバンドでピアノを演奏すること自体が作曲作業なんです。楽曲はコード(和音)とメロディーとリズムでできており、決められたコードとリズムにアドリブ(即興)でメロディーを乗せる。すなわち、演奏中は絶え間なく、強制的に作曲してるわけですわ」。おまけに編曲もしっかり学んでいた。「ジャズピアノの楽譜には、コード進行とリズムのほか、各セクション(楽器)の動きが書いてある。どんなアホでも毎日、それを何万回も見て演奏してたら楽曲の構造が手に取るように分かって、編曲のノウハウが身に付く。当時、はやっていた映画音楽も簡単に楽譜に起こせましたよ」

 関西学院大学も中退し、そんな〝毎日が作曲と編曲〟の日々を30歳あたりまで過ごしたが、そんな頃、キダさんのバンドが在阪テレビ局の音楽担当プロデューサーの目に留まり、テレビ関係の仕事が増えた。ちょうどテレビが新媒体として影響力を発揮し始めた頃。テレビの番組やCMに音楽は不可欠とあって、キダさんには仕事が殺到するようになった。局側から「何でもええから数を作ってくれ」と注文を受けたキダさんは、夜のニュース番組のテーマ曲をはじめ、注文に素早く応えた。そんな芸当ができたのは関西ではキダさんだけだった。

 「名曲1曲で似たのは20曲は作れますからね。屁のような1曲も含めたら1日40曲くらい作ってましたかなあ(笑)」。〝浪花のモーツァルト〟キダ・タローの誕生だ。一体、これまでに手掛けた楽曲は何曲か知りたいところだが、当人は気にも留めていないらしい。「取材なんかで尋ねられたら、3千曲から5千曲いうてますけど、1万曲かも分からん。けど、あんまりアホなこと言うのもなんやし、3千曲くらいですかな~」

■実はモーツァルトが大嫌い

 30歳あたりから作曲活動を始め、昭和39年、女声コーラスグループのメンバーだった木田美千代さんと結婚。この年に作曲した「ふるさとのはなしをしよう」(作詞は伊野上のぼる、歌は北原謙二)から、プロとして数多くの仕事を引き受けてきた。テレビ番組では「プロポーズ大作戦」や「ラブアタック!」(いずれも朝日放送)、「バラエティー生活笑百科」(NHK総合)、CM曲だと「アサヒペン」や「出前一丁」、「チキンラーメン」(いずれも日清食品)など、関西人なら誰もが一度は口ずさんだことがあるメロディーを世に送り出した。

 そんなキダさんの代表作のひとつが「かに道楽」(歌はデューク・エイセス)だが、名作になった理由を尋ねると意外な答えが。「歌詞が良かったからです。あの歌詞は(作詞家の)伊野上のぼるさんが手掛けられたのですが、商品名や会社名より先に〝とれとれぴちぴち〟が前に来ていて、社名は一番印象の薄い場所にあった。ウリは〝とれとれぴちぴち〟やなと分かったので、あれができたわけです」。どんな時も、歌詞が全てを導いてくれるのだという。「歌詞が〝こう曲を書いてくれ〟と私にいうてくれるんですわ。素晴らしい歌詞を頂くと、それに導かれるんです」

 こうした創作活動に向かう真摯(しんし)な姿勢は大御所になった今も変わらない。「大抵の曲は恐怖から始まるんです。注文を受けたものの〝できなんだらどうしよう〟〝俺にできんねやろか〟と恐れおののきながら〝多分何とかなるやろう〟との思いで乗り切ってきましてん」。にわかには信じがたいが、この言葉に偽りはなさそうだ。「せやから、しゅっちゅう夢をみますねん。もうじき番組の本番やのに、曲ができてなくて、楽譜が真っ白なんですわ…」

 テレビの素人歌合戦に審査員として出演した際のユニークなコメントが受け、平成元年に「探偵!ナイトスクープ」に「岸和田の音痴な信号機」のネタで審査委員長として初登場。後に顧問を経て最高顧問に就任し、同番組が名付けた〝浪花のモーツァルト〟の愛称で存在感を高め、タレントとして茶の間の支持を集めた。辛辣(しんらつ)さの中にも愛とユーモアがあり、決して下品にならないトークは、文字通り人柄のなせる技といっていいが、実は、その根底には静かな反骨精神が宿っていた。

 「僕は〝浪花のモーツァルト〟と呼ばれてますけど、モーツァルトは大嫌いです。ああいう一見、冷(ひや)こい音楽は嫌いです。ショパンみたいに、切ったら血がガーッと出るような情熱のほとばしる音楽やないとあきません」。その反骨精神の源をたどると、戦時中の体験に行きつく。「あの頃、ラジオから流れてきたクラシックは、荘重で重々しくて、肩肘張っていた。権威主義といいますかね…。それに反感を抱いていました。その裏返しやと思います」

 年末に卒寿(90歳)を迎えるが、まだまだ現役。「仕事の依頼が来ると嫌で仕方ないんですが、いざ書き始めると楽しくて。まだまだ曲を書きたい。良い作曲をしたいですね」

【プロフィル】きだ・たろー 本名・木田太良(きだ・たろう)。昭和5年生まれ。兵庫県宝塚市出身。関西学院高等部時代にタンゴバンドを結成。その後、プロのピアニストに転向し、作曲活動をスタート。「プロポーズ大作戦」や「ラブアタック!」(いずれも朝日放送)といったテレビの人気番組のテーマ曲や、「かに道楽」をはじめとするCM曲など3千曲以上を作曲。〝浪花のモーツァルト〟の愛称で親しまれている。夫人はタレントの木田美千代。

*https://www.sankei.com/premium/news/200717/prm2007170005-n1.html より 

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<日本酒> 長野 深山桜/古屋酒造店

2021-04-01 07:50:02 | 日本酒

 【平成30酒造年度全国新酒鑑評会 金賞銘柄一覧(関東信越国税局)】
 〈長野〉 深山桜/古屋酒造店

 

 ■蔵の歴史・背景・銘柄の由来
 皇女和宮の行列が歴史の道、中山道を往った頃、弁財天の森を後ろに抱いて「青葉まじりにみずみずしく咲く深山桜」とうたわれた酒蔵が生まれ、今に地酒を伝えている。

 ■蔵元の方針
 伝統と技の生きる地で地酒「深山桜」「浅岳 軽井沢」は育まれる。よい米とよい水をきたえて、磨かれた酒のもつ、絹のような飲み口、端正なうま味、岩清水の後口 は、まさに”生粋の地酒”のキレ味を持っている。そんな酒を造るのをモットーに、丁ねいな手造りと技術の研鑽をおこたらない。

*http://www.miyamazakura.com/syuzo/ より

 株式会社 古屋酒造店 長野県佐久市塚原411

 ラインナップ

 「深山桜」大吟醸・純米吟醸・純米・純米原酒 など

 「浅岳軽井沢」 爽冷純米             など

 

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<地理的表示(GI)保護制度> 登録番号 97. 福山のくわい

2021-04-01 07:43:37 | 食品

 登録番号 第97号 福山のくわい
 
 特定農林水産物等の区分 第1類 農産物類 野菜類(くわい)

 特定農林水産物等の生産地 広島県福山市

 登録生産者団体 福山市農業協同組合

 特定農林水産物等の特性 表面の青色が鮮やかな美しい外観、ほっこりとした食感が優れているくわい。お節料理における縁起の良い食材として需要が高く、また、品質の維持、長年にわたる安定した供給、厳しい選果体制などが市場関係者から高い評価を受けている。
 地域との結び付き 明治35年頃、福山城周辺の肥沃な堀で栽培が始まった。瀬戸内の温暖な気候と日照量の多さや、江戸時代に造設された用水路が、多量の水を必要とするくわい栽培に適している。

*https://www.maff.go.jp/j/shokusan/gi_act/register/i97.html より

 

 国が守る地域の財産に認定

 生産量日本一を誇る福山市の特産クワイがGI登録の快挙
 生産量日本一を誇り、福山市を代表する特産のクワイが6月29日、農水省の地理的表示(GI)保護制度に登録されました。
 GIは、地域で育まれた伝統を持ち、高い品質が生産地と結びついている農林水産物や食品の名称を知的財産として保護する制度です。100ヵ国以上がGI制度に取り組み、日本では平成27年に導入されました。当JAでは、令和元年5月に名称を「福山のくわい」として、農水省へ申請。福山くわい出荷組合による徹底した品質管理や、厳しい選果体制、産地の歴史などが高く評価され、全国で97件目として登録されました。
 同出荷組合の喜多村眞次組合長は「GI登録を弾みに、全国へ『福山のくわい』をPRしていきたい」と意気込み、当JAの佐藤宏組合長は「さらなるブランド力の強化を図り、生産者と一体となって生産振興につなげていきたい」と話しました。

 生産量日本一の産地
 クワイは、実から立派な芽が伸びるその形から、「食べると芽が出る」目(芽)出たい縁起物としてお節料理や祝いの席で親しまれています。ほっこりとした食感で、食べるとほろ苦さのなかに甘味が残るのが特徴。オモダカ科の水生多年草で、中国が原産です。アジアやヨーロッパ、アメリカにかけて広く自生していますが、食べる習慣があるのは日本と中国だけです。鍬(くわ)のような形をした葉の下に、芋のような実がなることから「鍬芋(くわいも)」と呼ばれ、それがなまって「クワイ」に。漢字では、「しゅうとめをいつくしむ」と書いて「慈姑」。古代の中国ではクワイが滋養強壮に効き、長寿の食材と考えられていました。デンプンやペクチン、セルロースなどの成分を含み、たんぱく質の含有量は野菜類の中でトップクラスです。
福山城 福山では古来、現在の千田町の沼地に自生していました。明治35年ごろ、これを福山城周囲の堀に持ってきたのが栽培の始まりとされています。堀は、土地が新しく肥沃(ひよく)であったため、生育が良好でこの出来を見た農家が栽培に着目し、本格的に作るようになりました。
 昭和30年代からは、デパートなどが重箱詰めのおせち料理を大々的に販売するようになり、お正月にクワイを食べる習慣が広がりました。このころから「芽が出る」縁起のよい食べ物として需要も拡大し、福山でも水稲の転作作物として、川口町や新涯町、曙町など福山市南部を中心に作付面積を増やしました。昭和42年には、「福山くわい出荷組合」が結成され、JA福山市川口支店を拠点とする共同出荷体制が確立されました。平成に入り埼玉県を抜いて全国生産量1位の産地に。平成30年度には、35戸が約11.8ヘクタールで栽培し、広島県内や関西、九州などの市場に約130トンの出荷を見込んでいます。

*http://www.jafukuyama.or.jp/tokusan-kuwai.html より

 

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<漢字検定> 1級 読み 35.回答 36.出題

2021-04-01 07:34:55 | 漢字検定

 前回の回答

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 匍匐  -蒲伏-ほふく-腹ばいになって、手と足ではうこと。

 

 問2 鶸色  -ひわいろ-ヒワの羽のような黄緑色。ひわ。

 

 問3 翹楚  -ぎょうそ-才能が衆にぬきんでてすぐれていること。また、その人。俊秀。

 

 問4 偃月  -えんげつ-
 1 半円形の月。半月。弓張り月。弦月。また、その形。

 2 兵法で、陣立ての一。中央部を後退させて半月形に組んだ陣形。

 

 問5 軋轢 -あつれき-仲が悪くなること。

 

 今回の出題

 

 次の漢字(熟語)の読みを答えてください。

 

 問1 夾雑  

 

 問2 隧道  

 

 問3 駘蕩  

 

 問4 澹乎  

 

 問5 鴃舌

 

 *漢字検定Web問題集 HP より

 *goo辞書 ・精選版 日本国語大辞典より

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<経産大臣指定伝統的工芸品> 富山 高岡漆器

2021-04-01 07:29:05 | 経済産業大臣指定伝統的工芸品

 「高岡漆器」

 Description / 特徴・産地

 高岡漆器とは?
 高岡漆器(たかおかしっき)は、富山県高岡市で作られている漆器です。高岡漆器の特徴は、「青貝塗」「勇助塗」「彫刻塗」の3つの技法に代表される幅広い作風を楽しめることです。
 「青貝塗」は、貝がらの光沢がある部分を薄く削った「青貝」という材料を使い、菱形や三角形の細片を作り、細片を組み合わせて花鳥や山水などを表現する技法です。
 貝を細工した装飾技法を総称して「螺鈿(らでん)」といい、一般には約0.3mmの厚さの貝が使われますが、高岡漆器では約0.1mmの厚さの貝も使われます。薄い貝を使うと、下地の漆の色が透けて映り貝が青く光って見えます。これは高岡漆器独自の技法です。
 「勇助塗」は、江戸時代末期、石井勇助が中国の明時代の漆器に憧れ、研究を重ねて生み出した技法です。唐風の意匠に花鳥・山水・人物などを錆漆(さびうるし)で描き、青貝・箔絵・玉石などを施す、塗りの総合的な技法です。
 「彫刻塗」は、木彫に朱・黒などの漆を塗り重ね、雷文や亀甲の地紋の上に、草花・鳥獣・牡丹・孔雀・青海波などを彫り出したもので、立体感と独特な艶が特徴です。
 そのほか、プラスチックやガラスなどさまざまな素材を使った変り塗が登場しています。

 History / 歴史
 高岡漆器 - 歴史

 高岡漆器の歴史は、江戸時代初期の1609年(慶長14年)、加賀藩初代藩主・前田利長が高岡城を築城し、武具や箪笥、膳などの生活用品を作らせたのが始まりとされています。わずか、5年後に高岡城は廃城となりますが、廃城後、高岡は商工業の町に転換しました。
 中国から、朱や黒の漆を何層も重ね塗りし、彫刻をほどこす堆朱(ついしゅ)や堆黒(ついこく)の技法が伝えられ、現在に続く技術が考案されました。彫刻彫、螺鈿、錆絵(さびえ)などの技術がそうです。
 江戸時代中期の1764年~1772年(明和年間)に活躍した辻丹甫(つじたんぽ)の技法を元祖として「彫刻塗」が考案されました。辻丹甫の作品は高岡御車山祭で練り歩く高岡御車山(みくるまやま)にも使われています。その後も、19世紀前半に板屋小右衛門らの名工が出て「彫刻塗」が盛んになります。また、江戸時代末期の1850年(嘉永3年)には、石井勇助が中国・明代の漆器を研究し「勇助塗」を創始し、明治時代に盛んになりました。
 最近では、さまざまな素材に塗りを施した「変り塗」が、インテリア関係者などに注目されています。

*https://kogeijapan.com/locale/ja_JP/takaokashikki/ より

 貝の美しさを極限まで引き出す 高岡漆器
 高岡漆器には彫刻された木地に色漆を塗る「彫刻塗」、玉石象嵌(ぞうがん)や錆絵など多彩な技法をこらした「勇助塗」、華やかな色の貝で絵を描く「青貝塗」の3種があるが、今回は青貝塗の職人に話を聞いた。

 
 守ることと変えること
 青貝塗の作業は分業化されており、木地師・青貝師・塗師がそれぞれ連携を取りながら製品を作っている。木地師が木で箱や器などを作り、青貝師が貝を貼り付け、塗師が下塗りと上塗りを行う。今回取材した武蔵川義則さんはその中では青貝師にあたる。図柄を考え、薄く削られた貝を鳥や花の形に切り抜き、木地に貼り付けるのが主な仕事だ。「一目見て高岡の漆器だとわかる伝統的な図柄を大切にしたいです。」と語る一方で「現代の生活に溶け込むようなデザインを考えています。」とも言う。守るべきことな何なのか、新たに変えるべき所はないか、といつも意識している。手がけている製品はお盆や文箱、コンパクトな箱など実用品が多い。


 「貝がきれいに見えるように作りなさい」
 貝は夜行貝、白蝶貝、黒蝶貝、メキシコアワビ貝(耀貝)、アワビ貝を使う。貝を研ぎ出す(薄くする)職人は大阪にいて、そこで厚み約0.1ミリに仕上げてもらう。磨き上げられた貝をよく見ると一枚一枚色や模様が異なる。その違いをうまく活かすのが武蔵川さんの仕事である。「今でも昔教わった師匠に『貝がきれいに見えるように作りなさい』と言われます。表現の仕方についてはいつも悩んでいます。」貝の目(木目のように筋がある)を縦にするのか横にするのか、どの貝をどこにどのように使うのか。花の時は?鳥の場合は?と考えなければならないことは多い。「素材の良さをいかに引き出すかは一生の課題です。」と武蔵川さんは語る。


 「使う味」が出てくるもの
 漆器は使えば使うほど味が出てくる。「子どもがいつまでも古いぬいぐるみを手放さないのは、いつも遊んで愛着があるからです。同じように漆器も使っているうちに傷が付き、『使う味』が出てくるものなのです。」漆は非常に丈夫な塗料で基本的に修復可能だ。その意味でいつまでも使い続けることができる。時と共に深い愛着がわいてくるのだ。高岡市の小学校は給食のトレーに一部高岡漆器を使っている。小さい頃から漆器に親しんでもらいたいという作り手達の思いが叶ったものだ。「今の人は漆器にあまり接していないから知らないだけで、実際に手にとって使っていけば、その価値がわかると思います」と武蔵川さん。“本物”を作っているという自負があるのでその言葉には説得力がある。


 暮らしの中に漆器を
 いわゆる伝統的な青貝塗の卓(しょく)を前にして「職人は概してやりすぎる傾向がありますね」と武蔵川さんは目を細めて言った。買った人は気にもしないちょっとした違いを生むために手を抜かないということだろう。ところが、そのちょっとした違いを生むためには相当の努力と技術が必要になるのである。今後は買い手もそのことがわかるぐらいの知識と目を養った方がいいかもしれない。また「一人でも多くの人に漆の良さ、貝の良さ、素材の良さを知ってもらいたいですね。まずは直接見て触ってもらうことが必要です。そしてとにかく普段の暮らしの中で漆器を使ってもらいたいです。」と武蔵川さんは言う。「そのために値段の安いものから高いものまで色々な漆器を提供していきたいですね。」と漆器制作に新たな意欲を見せていた。


 こぼれ話

 一般に貝を貼り付けた漆器のことを螺鈿(らでん)と言いますが、高岡漆器では青貝塗と呼ぶのはなぜでしょうか。それは青貝塗の特徴の薄い貝に由来します。
 青貝塗に用いる貝は一般的な螺鈿と同じ約0.3ミリ厚のものと、青貝塗特有の約0.1ミリ厚のものと2種類です。この薄い貝を貼り付けたときに、下地の黒い漆が透けて貝が青く見えることから「青貝塗」と呼ぶようになったのです。
ところでこの貝には色々な種類があります。最もよく使われるのがアワビ貝。特殊な青色とピンクが交互に輝くのが特徴です。夜行貝はヤク貝とも言われ、屋久島近海で採れるものを使います。光沢に落ち着きがあり、優雅な味わいの輝きをしています。その他フィリピンやニューギニア沖で採れる蝶貝や、メキシコ産のメキシコアワビ(耀貝)なども使われます。
それぞれ特徴を持っており、比べてみると面白いものです。青貝塗を見るときには是非、じっくりと貝を見て自分好みの品を見つけてみてはいかがでしょうか。

*https://kougeihin.jp/craft/0512/ より

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