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<日本酒メーカー> 秋田 高久酒造

2024-04-21 08:19:30 | 日本酒

 「高久酒造」

 「小野之里」の銘柄酒を醸造していた会社。

 高久酒造(株) 秋田県湯沢市柳町2丁目1−42

 高久酒造酒蔵
 結の蔵は元々秋田県湯沢市の銘酒「小野之里」で著名な高久(たかく)酒造の酒蔵であった。移築前の蔵から発見された棟札には明治21年と記されており大正14年の湯沢市大火や地震・風雪に1世紀以上耐えてきた蔵である。
 2尺(60cm)間隔に並んだ5寸5分(17cm)角の栗や桧の柱、長さが10間(18m)もある1本物の杉丸太の棟木など構造は雄大であり状態も良かった。
 さらに大火から蔵を守った厚さ1尺(30cm)の土壁や3か所の巨大な戸前(蔵戸)の仕上げも見事であった。座敷になっていた部分に使われていた総漆塗りの格子戸も精緻なデザインで魅力的だった。

 蔵との出会い 
 高久酒造現当主の高久正吉氏は、蔵の周りにビルが立ち並び、蔵を存続する為の周辺環境が悪くなった事から、蔵の解体を決意した。しかし貴重な蔵を廃棄するのは忍びなく、山形県羽黒町で民家再生を手掛ける渡部喜美雄氏に相談した。渡部氏は民家再生リサイクル協会を通して貰い手を探し始めた。話を聞いた会員のO設計室大沢は、以前から鎌倉市に蔵を移築し賃貸住宅を作る事を希望していた会員の田中芳郎氏に連絡して早速湯沢市へ赴いた。2人は一目でこの蔵の素晴らしさに感動し、渡部氏を介して高久氏と交渉し、引渡し契約が結ばれた。

 調査から解体へ
 平成14年末からO設計室によって再生計画が始まり翌15年2月に蔵の詳細調査を行った。この調査により改めて酒蔵の構造の雄大さ、部材の状態の良さを再確認した。4月中旬から解体工事が始まり5月連休にはJMRA主催の「解体ワークショップ」を開催した。東北、関東から参加した52人がツルハシを手に壁、屋根の土と格闘した。併せて戸前(蔵の扉)の解体も実施し、壁・戸前の構造を知る良い機会となった。解体終了後、18mの棟木と戸前の搬出は人通りの少ない朝方に行った。戸前は柱につけたまま梱包して取外し、総重量は4.3tであった。解体工事は5月末に完了し、搬出された基礎の石や木材、土は山形県余目町に運ばれ再生の時を待つことになった。

 着工と部材の輸送
 平成16年春に地鎮祭、基礎工事が行われ、山形では木材の加工に取り掛かった。部材の輸送、特に18mの長さの棟木と幅3.6mの戸前(正面の扉)の運搬については当初から難題が予想された。担当した山形県の運送会社は鎌倉に出向き道路事情を視察し輸送計画を立てた。4月19日夕方、木材は大型車3台に積まれ一般国道経由で翌日早朝に鎌倉のストックヤードに到着した。棟木は22日早朝、棟上げ前の現場に搬入。戸前は同じ日にトレーラーで山形県を出発し翌日鎌倉に到着した。4月28日早朝4時、戸前を現場に搬入。クレーン車で建て方の進んでいる蔵の正面へ下ろされた。ピタリと収まり一同胸をなでおろした。

 上棟
 20tクレーンに吊り上げられた長さ18mの棟木は無事に屋根の頂上に載り、文字通り上棟した。平成16年5月19日吉日。棟上げ式は移築を担当した渡部工業の地元である庄内地方の形式で執り行われた。このような伝統的な棟上げ式は鎌倉でも珍しく、地元ケーブルテレビの取材を受けながらの式典となった。棟を玄翁で叩く音や屋根から投げる餅を受ける人々の歓声が新緑の鎌倉市扇ガ谷に響き渡った。

 土壁工事とワークショップ
 鎌倉の斎藤建設にバトンタッチされた再生工事は屋根、外部木工事の後、湯河原市の長田左官による土壁工事に引き継がれた。その間前年11月に実施した「竹刈りワークショップ」で刈り取った真竹を藁縄で結び、そこに泥団子を付ける「竹小舞かき・土壁ワークショップ」を6月に実施した。その泥は前年の9月に藤沢市で実施した「土練りワークショップ」で多くの人達が文字通り“手と足”で練り上げた土である。1世紀以上前の土がこうして新たな命を得たのである。

 落成式
 再生工事はその後内部の造作、設備関係の配管配線と進んだ。一方左官工事は平行して内部の土壁仕上げ、外部の漆喰仕上げと進んでいった。元の蔵の外壁は土壁であったが再生では腰が下見板張り、上部を漆喰塗りとした。艶やかに光る白い漆喰壁の仕上げが終わり、足場が無くなると蔵は元々この地にあったかのように落ち着いた風情となった。
 平成16年11月末、再生工事は一部の残工事を残して完成。落成式には秋田県から元の持ち主である高久氏も列席して盛大に行われた。「立派に再生されて先祖に申し訳が立った」と挨拶する高久氏の言葉が印象的であった。

*https://yuinokura.exblog.jp/9544512/ より

 

 結の蔵、民家移築再生はこうして行われた
 高久酒造酒蔵
 結の蔵は元々秋田県湯沢市の銘酒「小野之里」で著名な高久(たかく)酒造の酒蔵であった。移築前の蔵から発見された棟札には明治21年と記されており大正14年の湯沢市大火や地震・風雪に1世紀以上耐えてきた蔵である。2尺(60cm)間隔に並んだ5寸5分(17cm)角の栗や桧の柱、長さが10間(18m)もある1本物の杉丸太の棟木など構造は雄大であり状態も良かった。さらに大火から蔵を守った厚さ1尺(30cm)の土壁や3か所の巨大な戸前(蔵戸)の仕上げも見事であった。座敷になっていた部分に使われていた総漆塗りの格子戸も精緻なデザインで魅力的だった。

 蔵との出会い 
 高久酒造現当主の高久正吉氏は、蔵の周りにビルが立ち並び、蔵を存続する為の周辺環境が悪くなった事から、蔵の解体を決意した。しかし貴重な蔵を廃棄するのは忍びなく、山形県羽黒町で民家再生を手掛ける渡部喜美雄氏に相談した。渡部氏は民家再生リサイクル協会を通して貰い手を探し始めた。話を聞いた会員のO設計室大沢は、以前から鎌倉市に蔵を移築し賃貸住宅を作る事を希望していた会員の田中芳郎氏に連絡して早速湯沢市へ赴いた。2人は一目でこの蔵の素晴らしさに感動し、渡部氏を介して高久氏と交渉し、引渡し契約が結ばれた。

 調査から解体へ
 平成14年末からO設計室によって再生計画が始まり翌15年2月に蔵の詳細調査を行った。この調査により改めて酒蔵の構造の雄大さ、部材の状態の良さを再確認した。4月中旬から解体工事が始まり5月連休にはJMRA主催の「解体ワークショップ」を開催した。東北、関東から参加した52人がツルハシを手に壁、屋根の土と格闘した。併せて戸前(蔵の扉)の解体も実施し、壁・戸前の構造を知る良い機会となった。

 解体終了後、18mの棟木と戸前の搬出は人通りの少ない朝方に行った。戸前は柱につけたまま梱包して取外し、総重量は4.3tであった。解体工事は5月末に完了し、搬出された基礎の石や木材、土は山形県余目町に運ばれ再生の時を待つことになった。

 着工と部材の輸送
 平成16年春に地鎮祭、基礎工事が行われ、山形では木材の加工に取り掛かった。部材の輸送、特に18mの長さの棟木と幅3.6mの戸前(正面の扉)の運搬については当初から難題が予想された。担当した山形県の運送会社は鎌倉に出向き道路事情を視察し輸送計画を立てた。4月19日夕方、木材は大型車3台に積まれ一般国道経由で翌日早朝に鎌倉のストックヤードに到着した。棟木は22日早朝、棟上げ前の現場に搬入。戸前は同じ日にトレーラーで山形県を出発し翌日鎌倉に到着した。4月28日早朝4時、戸前を現場に搬入。クレーン車で建て方の進んでいる蔵の正面へ下ろされた。ピタリと収まり一同胸をなでおろした。

 上棟

 20tクレーンに吊り上げられた長さ18mの棟木は無事に屋根の頂上に載り、文字通り上棟した。
平成16年5月19日吉日。棟上げ式は移築を担当した渡部工業の地元である庄内地方の形式で執り行われた。このような伝統的な棟上げ式は鎌倉でも珍しく、地元ケーブルテレビの取材を受けながらの式典となった。棟を玄翁で叩く音や屋根から投げる餅を受ける人々の歓声が新緑の鎌倉市扇ガ谷に響き渡った。

 土壁工事とワークショップ
 鎌倉の斎藤建設にバトンタッチされた再生工事は屋根、外部木工事の後、湯河原市の長田左官による土壁工事に引き継がれた。その間前年11月に実施した「竹刈りワークショップ」で刈り取った真竹を藁縄で結び、そこに泥団子を付ける「竹小舞かき・土壁ワークショップ」を6月に実施した。その泥は前年の9月に藤沢市で実施した「土練りワークショップ」で多くの人達が文字通り“手と足”で練り上げた土である。1世紀以上前の土がこうして新たな命を得たのである。

  落成式
 再生工事はその後内部の造作、設備関係の配管配線と進んだ。一方左官工事は平行して内部の土壁仕上げ、外部の漆喰仕上げと進んでいった。元の蔵の外壁は土壁であったが再生では腰が下見板張り、上部を漆喰塗りとした。艶やかに光る白い漆喰壁の仕上げが終わり、足場が無くなると蔵は元々この地にあったかのように落ち着いた風情となった。
 平成16年11月末、再生工事は一部の残工事を残して完成。落成式には秋田県から元の持ち主である高久氏も列席して盛大に行われた。「立派に再生されて先祖に申し訳が立った」と挨拶する高久氏の言葉が印象的であった。

 蘇った結の蔵
 年が改まって平成17年。正面広場の造園工事を実施。2月には最後の工事である正面の戸前の修繕と二階の窓の仕上げが始まった。左官工事でも最も難しいとされる戸前の“磨き漆喰”は白漆喰が乾かぬうちに黒の“ノロ”を薄く塗って最後は手を道具にして磨き上げていく。二階の窓は“大津磨き”の手法で土そのままの色で微妙な陰翳を持つ磨き仕上げとなっている。いずれの技術も使う人がいなければ廃れてしまうものである。ベテランの左官職人と一緒に鏝を当てる若い職人の姿に伝統技術の継承を見ることが出来た。平成17年3月。調査から約2年の月日が流れて酒蔵は鎌倉で甦った。

 「この蔵は幸せ者」  高久正吉(高久酒造㈱社長・元所有者)
 秋田の片田舎の土蔵が縁あって鎌倉市に移築されました。この蔵の棟札から明治二十一年に太大工岩村平治、脇大工佐藤運吉によって建てられ、幾多の地震に耐え、特に大正十四年五月十日の湯沢の大火、焼失家屋四百戸の時も唯一焼け落ちなかった蔵です。目土の用意が在ったにせよ、岩村、佐藤両匠の技が耐火構造建築として立派なものであることが証明されました。解体の時も、土台が寸分狂っていなかったし、木組の確かさに頭の下がるおもいで終始しました。後日跡地を整地しようとしたら、上の面を平らに削った直径七十センチぐらいの川石が列をなして出てきました。その上に切り石の土台石が乗っていたわけです。明治人の基礎工事に対する工夫と思いが感じられました。秋田県でも有数の豪雪地帯から歴史と文化の香り高い鎌倉市に移築された蔵は、上屋も取れ文字どおり出世したわけです。鎌倉では毎年一月四日に鶴岡八幡宮において手斧始式がおこなわれる土地柄とお聞きします。平成の匠によって再構築されたこの蔵は幸せ者です。結の蔵の新しい歴史がさらに百年、弐百年と年輪を重ねて行くことを願ってやみません。

 「良質で長く使える賃貸住宅を」 田中芳郎(結の蔵建主)
 民家の普遍性の高いデザインは日本独自の文化を背景にした本物であり、いつの時代にも好まれるであろう。
また耐久性にも優れている。それが賃貸住宅として酒蔵を再生した大きな理由である。蔵を選んだのはその単純な構造美、重厚なたたずまい、内部の落ち着きに強く引かれるものがあったこと、壁構造で広い空間が取れて間仕切りが自由に取れることなどからであった。幸運にもこのような素晴らしい建物と出会い、工事に際しての種々の難題も経験豊かな方々に助けられて乗り越えられました。鎌倉では主に相続問題のために良好な環境を作ってきた大きな屋敷が庭の木々とともに次々に壊されています。このような状況の中で新しい命を得た「結の蔵」が長く後世まで残り、大勢の方に使われ、日本の長い歴史に育まれた文化や技術を伝承できることを祈願しています。

 「木は木組み、人は人組み」 大沢 匠(O設計室 所長)
 法隆寺棟梁の西岡氏の名言です。結の蔵再生工事においても様々の立場の人々が共通の目標に向かって正に“組みあがった”ことで完成しました。快く先祖の財産を提供してくれた高久正吉氏、全体に細かく気配りをしてこの難工事を采配してくれた渡部工業の渡部社長、難しい輸送を担当してくれたコクエーの石川社長、鎌倉では難しい工事にもかかわらず積極的に現場に取り組んでくれた斎藤建設の木村部長以下各職方。また様々のワークショップを快く引き受けてくれた長田左官の長田喜八社長。そして5回のワークショップに参加してくれた多くの民家再生リサイクル協会の会員の方々。そしてこの事業を民家再生の手本として多くの人々に開放してくれた建主の田中芳郎氏。この建物を「結の蔵」と命名したのはこれら多くの人々の力があってこその再生だと思うからです。結局「物」の伝承は「心」の伝承の上にあることを私たちは深く心に刻んでいきたいと思います。「結の蔵」がその証人として後世に語り継がれることを願いたいものです。

*http://www.o-sekkei.com/works/photos/04_yuinokura/yuinokura.html より


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