アンティークマン

 裸にて生まれてきたに何不足。

泳ぎは魚に任せておけばいい

2021年07月13日 | Weblog
 志賀直哉の「小僧の神様」、いつも心にある小説です。志賀直哉の代表作だと思うのですが、若年層には読んでいる人が少ないようなぁ…。短編ですから、簡単に読めてしまうのですがね。神様体験をしたい人必読ですよ。
 秤屋で奉公をしている小僧は、番頭達の話で聞いた鮨屋に行ってみたいと思っていた。ある時、使いの帰りに、思いきって鮨屋の暖簾をくぐったものの…お金が足りずに鮨を食べることができなかった。その様子を見ていた貴族院の男(A)は、後に秤屋で小僧を見つけ、鮨をおごる。しかし、Aに見られていたことを知らない小僧は「どうして鮨を食いたいことをAが知っているのか」という疑問から、「Aは神様ではないか」と、思い始める・・・。

 と、まあこんな小説。私は、小僧が、「鮨をおごってもらってどれだけ嬉しかっただろうか!」このことが印象的で、自分もいつかAのようなことをしてみたいと思っていました。これまでの人生で、何度か実践できました。「神様体験」をしたことがあるわけで…なかなかいいもんですよ。神様は、「心を読み、親切を実行する」・・・。

 夏目漱石の「三四郎」にも、「人間はね、自分が困らない程度内で、なるべく人に親切がしてみたいものだ」という文がある。Aと同じだな。
 「親切とは、人類愛に基づいた神がかりとも思える行為」…誰の言葉かって?わ、私の言葉何ですがね。ホント、いいこと言いますよね。最近、神がかってきていますから…。ただですねえ…裏を返せば、「極めて通俗的な好奇心のなせる行為」…こうなると、神は遁走ですね。

 プールでよく会う40歳過ぎぐらいの男が、ひたすらアクアウオーキングをしている私に話しかけてきました。
男:泳がないんですか?
私:エラがないから、あまり泳げないので…
男:私もそうでした。水泳教室に入るといいですよ
私:人に教わることが嫌いなんです(自閉症かっ!)
男:(いきなり私に教えはじめた!)体は、少しへの字になるようにして…
私:き、今日はもう帰る時間なので
男:では、次回にしましょう

 男が、悪人ではないことは分かる。しかし、私は、教えていただきたくない。それからというもの私は、プールへ行く時間をずらし、男と「かち合わないように努力」した。それなのに、数日後…かち合ってしまった。「努力は裏切らない」という言葉は、表面はきれいですが、中味は無責任で心がないです。

男:手はですねえ…足はぁ…はい、ここまで呼吸せずに…
 私は、逃げ出したかったです。「ワタシにかまうな!」と、怒鳴りたかったですが、相手は一生懸命なのです…。
 男としては、ひたすら、プールの中を歩いている可哀想なオヤジを何とか泳げるようにしてやろう。…これって、「小僧とA」の関係ですよ。私が小僧です…。実は私は、エラがないとはいいながら密かに練習し、ムサンバニ状態ではありますが泳げるのです。
 別のコースでは、4人のおばちゃん達が、カミサンを囲んで、「私に水泳指導をしている男」の悪口三昧だったという…
 「あの人、最近やっと泳げるようになったくせに、御主人(私のこと)に教えるなんて!」
 「あんな下手な人に教えられたら、悪いクセがついてしまう、奥さん(カミサン)!止めさせなさい」
 「御主人のほうが手が上がっているし、ずっと上手いっ」
 いやはや、親切男、隣のコースでブーイングの嵐だったわけで…

 佐藤愛子の「澤村校長の晩年」に、「世の中で最も疎ましいものは、善意である」とありまして…その通りだなと。また、「悪意には立ち向かいようがあるが、善意には立ち向かいようがない」と。全くその通り。ですから私は、勝手に水泳のコーチをはじめた男を、「三角締め」で仕留めることが出来なかったのです(仕留めておけばよかったのかなぁ…)。