やっぱり好きだなぁ、このブログ(笑)
表現行為は自分さがし
森へ行こう(心とからだと子育てと)さんのブログより
*転載はじめ*
「人は誰でも芸術家」
多くの日本人が、「芸術」とは「鑑賞するもの」であって、直接、私たちの生活とは関係がないと思っています。
確かに、高値で売買されるような芸術作品は私たちの生活とは関係がありません。
でも、それは「芸術作品」の話であって「芸術」の話ではありません。
では、「芸術とは何か」ということです。
そこで、このシリーズの最初に書いた
「芸術」とは何か、というと、簡単に言えば「見えない世界にあるものに形を与える行為、もしくはその結果」と言うことになります。
ということに戻るのですが、今日はもう少し具体的に「生活の中の芸術」について書いてみます。
例えば、「今日はどんな洋服を着ようかな」とあれこれ選ぶのも、冷蔵庫の中の残り食材で夕食を工夫するのも「芸術的行為」です。
ですから、人は誰でも日常的に「芸術的行為」を行っているのです。
ただ、それを面倒くさがったり、嫌々やっていたら、それは「芸術」ではなく「作業」になってしまいます。
「芸術家」と呼ばれる人たちは、そのようなことを積極的に楽しもうとし、工夫し、研究し、実践する人達に過ぎません。
絵描きは「絵」を描いているのではなく、自分の心や感覚と対話しながら「絵」を探しているのです。
それはまた、「自分を探す行為」でもあります。
「私は絵が下手だから・・・」と言って、絵を描くことから逃げようとする人は、「絵」も「自分」も探さない人です。
「お絵描き」が大好きな幼い子ども達は、絵を描くことを通して「自分探し」をしているのです。
それは芸術家の態度と同じです。
決して、「上手な絵」を描こうとしているわけではありません。
だからこそ、安易に子どもの絵を評価したり、指導したりしてはいけないのです。
作曲家は「音楽」を作っているのではなく、「音楽」を探しているのです。
「キャッツ」や「ライオンキング」のような、何日も、何ヶ月も、何年も続くような舞台でも、役者達は、毎日「新しい舞台」を創ろうとしているそうです。
「昨日と同じことをやろう」などとは考えていないそうです。
それもまた「自分探し」です。
「正解」や「上手」を求める人はその「自分探し」をしない人です。
そしてそれこそが「創造する」ということでもあるのです。
実は、「創造」の中にこそ「自分」が現れるのです。
だから、人は創造的行為の中で「自分」と出会うのです。
そしてそれを追求しようとしているのが「芸術家」と呼ばれる人たちです。
その「創造」はどんな時でも出来ます。
私たちは毎日歩いていますが、一歩一歩を「初めての一歩」として大切にしながら歩くのも創造的行為であり、芸術的な行為なのです。
朝起きたとき、「さあ、また新しい一日が始まった」と毎日気持ちを新たにすることも、「今日はどんなことが起きるかな」とワクワクするのも、毎日生活が楽しくなるように工夫するのも、創造的行為であり、芸術的な行為なのです。
日本に昔からある「一期一会」という考え方も芸術的な感性の表れです。
ですから、人から「芸術家」として認められるためには、それなりの素質と作品の質が必要になりますが、「芸術的な行為」は誰にでも出来るのです。
幼い子ども達はまだ「正解」を知りませんから、いつも芸術家のように考え、芸術家のように行動しています。
そしてそのことで、「自分育て」をしているのです。
でも、大人に「正解」を押し付けられていると、子どもは芸術家でいることが出来なくなります。
そして、「自分育て」も出来なくなり、人目を気にしながら生きるようになります。
でも、そんな大人になってしまった人でも、自分の心と感覚で感じ、自分の頭で考え、それらを楽しもうとすることで、芸術家になることが出来るのです。
その時、「自分育て」も始まります。
*転載おわり*
新しい自分
新しい毎日
気がついた人から自分育てを楽しもう!
頭で考えるより、動いて感じて表そう


表現行為は自分さがし
森へ行こう(心とからだと子育てと)さんのブログより
*転載はじめ*
「人は誰でも芸術家」
多くの日本人が、「芸術」とは「鑑賞するもの」であって、直接、私たちの生活とは関係がないと思っています。
確かに、高値で売買されるような芸術作品は私たちの生活とは関係がありません。
でも、それは「芸術作品」の話であって「芸術」の話ではありません。
では、「芸術とは何か」ということです。
そこで、このシリーズの最初に書いた
「芸術」とは何か、というと、簡単に言えば「見えない世界にあるものに形を与える行為、もしくはその結果」と言うことになります。
ということに戻るのですが、今日はもう少し具体的に「生活の中の芸術」について書いてみます。
例えば、「今日はどんな洋服を着ようかな」とあれこれ選ぶのも、冷蔵庫の中の残り食材で夕食を工夫するのも「芸術的行為」です。
ですから、人は誰でも日常的に「芸術的行為」を行っているのです。
ただ、それを面倒くさがったり、嫌々やっていたら、それは「芸術」ではなく「作業」になってしまいます。
「芸術家」と呼ばれる人たちは、そのようなことを積極的に楽しもうとし、工夫し、研究し、実践する人達に過ぎません。
絵描きは「絵」を描いているのではなく、自分の心や感覚と対話しながら「絵」を探しているのです。
それはまた、「自分を探す行為」でもあります。
「私は絵が下手だから・・・」と言って、絵を描くことから逃げようとする人は、「絵」も「自分」も探さない人です。
「お絵描き」が大好きな幼い子ども達は、絵を描くことを通して「自分探し」をしているのです。
それは芸術家の態度と同じです。
決して、「上手な絵」を描こうとしているわけではありません。
だからこそ、安易に子どもの絵を評価したり、指導したりしてはいけないのです。
作曲家は「音楽」を作っているのではなく、「音楽」を探しているのです。
「キャッツ」や「ライオンキング」のような、何日も、何ヶ月も、何年も続くような舞台でも、役者達は、毎日「新しい舞台」を創ろうとしているそうです。
「昨日と同じことをやろう」などとは考えていないそうです。
それもまた「自分探し」です。
「正解」や「上手」を求める人はその「自分探し」をしない人です。
そしてそれこそが「創造する」ということでもあるのです。
実は、「創造」の中にこそ「自分」が現れるのです。
だから、人は創造的行為の中で「自分」と出会うのです。
そしてそれを追求しようとしているのが「芸術家」と呼ばれる人たちです。
その「創造」はどんな時でも出来ます。
私たちは毎日歩いていますが、一歩一歩を「初めての一歩」として大切にしながら歩くのも創造的行為であり、芸術的な行為なのです。
朝起きたとき、「さあ、また新しい一日が始まった」と毎日気持ちを新たにすることも、「今日はどんなことが起きるかな」とワクワクするのも、毎日生活が楽しくなるように工夫するのも、創造的行為であり、芸術的な行為なのです。
日本に昔からある「一期一会」という考え方も芸術的な感性の表れです。
ですから、人から「芸術家」として認められるためには、それなりの素質と作品の質が必要になりますが、「芸術的な行為」は誰にでも出来るのです。
幼い子ども達はまだ「正解」を知りませんから、いつも芸術家のように考え、芸術家のように行動しています。
そしてそのことで、「自分育て」をしているのです。
でも、大人に「正解」を押し付けられていると、子どもは芸術家でいることが出来なくなります。
そして、「自分育て」も出来なくなり、人目を気にしながら生きるようになります。
でも、そんな大人になってしまった人でも、自分の心と感覚で感じ、自分の頭で考え、それらを楽しもうとすることで、芸術家になることが出来るのです。
その時、「自分育て」も始まります。
*転載おわり*
新しい自分
新しい毎日
気がついた人から自分育てを楽しもう!
頭で考えるより、動いて感じて表そう


